見出し画像

演奏とは何か、を提示し続けるピアニスト〜【Concert】務川慧悟リサイタルツアー2024

 全国5か所で行われた務川慧悟の2024年リサイタルツアー。そのプログラムは一風変わっているが、務川自身が書いたノートによれば、まずショパンの「幻想ポロネーズ」を「今どうしても弾かなければ」と考えたのだという。プログラムの後半はその「幻想ポロネーズ」からスタートし、フォーレの2つのノクターン、そしてプロコフィエフの「ピアノ・ソナタ第2番」で構成され、それらは「死」というテーマで繋がれている。一方前半はテーマ性から離れ、ドイツの偉大な2人の作曲家、バッハの「パルティータ第1番」とベートーヴェンの「テンペスト」でまとめられている。こうしたプログラムの立て方ひとつとっても、務川慧悟というピアニストは、数多いる同世代の中でも頭ひとつ抜き出ている、というか何かまったく「別の地平」のようなところにいることを感じさせる。

 務川が類稀なテクニックを持っていることなど、今さらいうまでもないことだが、この日、最初のバッハを聴いた時からその音色の多彩さに魅了された。舞曲形式、すなわち祈りのための音楽でも内心の吐露でもない、あくまでも実用のためのスタイルであるということを徹底的に追求した結果としての「多彩さ」。それは、当然のことながら時代様式やバッハ個人の音楽語法の探究と理解を土台にしつつ、その先にあるものを創造しようとする強い意志の表れ、なのだろう。

 同じことはベートーヴェンの「テンペスト」において一層顕著に感じられた。弱音ペダルを多用することによって生み出される、静謐で余韻に満ちた響きの空間は、これまでに聴いてきた「テンペスト」とはまるで違う世界を提示している(ラヴェルの「夜のガスパール」すら思い起こさせる)。しかし、「ハイリゲンシュタットの遺書」と同じ時期に書かれたこの作品における革新性ということを考えれば、この作品にシェイクスピアの戯曲の内容を投影したり、ましてや若いピアニストのヴィルトゥオジティをひけらかすような音楽であっていいはずがない。正直に告白すれば、私は初めて「テンペスト」という作品を「理解した」と思う。それほどの説得力のある、ある意味では大変に「わかりやすい」演奏だった。

 作曲家が描こうとした音楽の「像」を追求すること。歴史的な背景や理論の裏付けを行った上で、それをモダンピアノで表現すること。務川慧悟というピアニストがやろうとしているのは、ただそのことだけなのだと思う。そういえば以前インタビューしたときに、彼はこのように語っていた。

何を目指して演奏しているのか、というと、それは『真』なのです。プラトンの『イデア論』からの援用ですが、ショパンのイデアというものがあって、ショパンについて訓練を積んでいけばそのイデア、すなわち真実に近づいてくるという考え方です。美しい音というのはあくまでもひとつの要素であって、それが真実に近づいた時にその演奏は力を持つのだと思います。

『サラサーテ増刊号 ピアノをまた始めよう!』(2024年7月1日発行)

 こうした務川の姿勢は演奏会を通して強く感じられたところだが、特にプロコフィエフでは、まるで務川自身が作品の血肉となっているような、ある種「作品との一体化」を感じた。優れたピアニストの演奏を聴いたときに、「まるで今この場で音楽が生まれてきたようだ」と感じることがあるのだが(例えば7月に聴いた小林愛実のショパンはまさにそんな感じだった)、務川の場合は、もともと存在していた作品の「イデア」が務川慧悟というピアニストの肉体を利用して音響となって現れてきた感覚、とでもいえばいいだろうか。再び引き合いに出してしまうが、小林愛実は 「言葉では表現できないことも、ピアノを通してなら表現できる」と言った。 務川慧悟はおそらく「ピアノで自分の言いたいことを表現する」という感覚を持っていない。(無論、どちらが優れているという話ではない)。彼にとってピアノは、演奏とは、芸術という「絶対的なもの」を今、この場に顕現させるためのもの、なのだろう。その意味で務川慧悟は、芸術への完全なる奉仕者である。こんなふうに感じさせるピアニストに、私は初めて出会った。

2024年8月22日、サントリーホール。

皆様から頂戴したサポートは執筆のための取材費や資料費等にあてさせていただきます。どうぞよろしくお願いいたします!