オペラが「生きた芸術」であるために〜【Opera】東京二期会『影のない女』
ペーター・コンヴィチュニー演出による東京二期会『影のない女』世界初演は、事前に報道された演出家の言葉に対する大反論の中初日の幕が開き、客席からは「金返せ」「拍手するな」という罵声が響き渡るなど稀に見る大騒動が起きた。昨今、日本でもお行儀よく拍手をするだけではなく、気に入らない演奏には遠慮なくブーイングを送るのが当たり前になってきたとはいえ、ネット上のみならず劇場内でこれほどのブーが出るのはそう多くはない。ただ私が見聞きした範囲では、ブラヴォーの声もあり、観た人の反応は「否がかなり優勢の賛否両論」ぐらいだったと思うが、コンヴィチュニーとしては、もちろん「してやったり」だったのだろう。なぜなら彼は、常に社会にオペラの意味を問いかける演出家だからだ。
読み替えと大胆なカットを施した本プロダクションは、特にリヒャルト・シュトラウス・オタクの人たちからは評判が悪かった。それはそうだろう。この作品でもっとも美しいとされる第3幕最後の音楽を丸ごと削ってしまったのだから。クラシック音楽は楽譜が絶対であり、一音たりとも変更してはならないという「クラシック音楽原理主義者」の人たちも同じ反応(どのような変更が行われたのかについては、こちらのゲネプロレポートを参照してほしい)。その「怒り」には一定の妥当性はあるとは思うものの、私自身はこのプロダクションをかなり肯定的にみたのは事実だ。その理由を書く前に、私自身の態度を簡単にまとめておく。
リヒャルト・シュトラウスでは『ばらの騎士』だけが好き。
オペラは、歴史的にカットや編曲、自作・他作からの引用などが自由に行われているジャンルだったので、現代においてもそうしたアレンジは行ってもいいと思う。
音楽に限らず「二次創作」肯定派。
(ここで頭が沸騰した人はこの先を読まないことをオススメ)
そもそも、『影のない女』の物語は何を描こうとしているのだろうか。『魔笛』をお手本にしたお伽話(『魔笛』がミソジニーに塗れているのはそのまま踏襲したということでいいのか)?「家庭の幸福」が第一という穏やかな主張(それは到底受け入れられない主義だけれど)?どこをどうみても、「影がないために夫が罰せられる妻」は「子どもを産めないために社会から糾弾される女」だし、その妻が愛ゆえに「許される」のは徹底的に男側の論理でしかない。こうした女性差別的なテーマが内包された(まさしくそれは「内包されている」)オペラを、2024年に、東京というジェンダーギャップ指数が世界118位の国の首都で上演する際に、そのテーマを一切鑑みなくていい、などということがあるだろうか。オペラ作品が、「今、ここで」生きている人たちが演じ、生きている人たちが受け止めるものである以上、そこに現代における批判的視点を持ち込むことは、むしろオペラを「死んだ芸術」に落とし込まないためには必須の手段であると私は思う。ある時代に書かれた作品が、現代の価値判断から見て「ポリコレ的に(ところでこの言葉の正確な意味を理解している人はどのくらいいるのだろう)」正しくないからといって糾弾すべきではない、という人たちは、その態度こそがオペラを「死んだ芸術」に貶める危険があることについて考えたことがあるのだろうか。むしろ、現代の価値基準から見て到底受け入れられないものが描かれていた時にこそ、こうした「読み替え」という作業が必要になるのではないか。コンヴィチュニーは言う。「劇場とは社会的な意味を持つものであり、人を豊かにするものでなければならない。オペラを演出することは、現実と関わりを持つことであり、それ以外の方法は私には考えられない」と。
今回のプロダクションに問題があるとするなら、それは、演出の「意図」ではなく個別の「手法」だと私は思う。お伽話を仮面を剥ぎ取るために舞台を現代に移し、皇帝とカイコバートをギャングのボスに、バラクを遺伝子研究所の所長にするという設定そのものは悪くない。だが、冒頭からギャングの抗争で人がバタバタと撃たれたり、メルセデスベンツから降りてくる皇帝に乳母がフェラチオをしたり、皇帝がやたらに拳銃をぶっ放したり、あるいは皇后とバラクが交わったりするというやり方——つまるところ、「現代」を描くのに「暴力」と「セックス」を使うというのは、特に新しくもなく、むし手垢のついた表象ではないだろうか(もう何年も前からマンガやアニメ、小説、映画などエンタメの世界ではこれらがてんこ盛りである)。仮にもコンヴィチュニーならば、もう一歩踏み込んだ表現を見せてほしかったと思うのだが。また合唱をテープレコーダーから流したり、日本語の寸劇(?)を挟んだりするのも、あまり効果的には思えなかった。
それでも、敢えて劇の最後に置かれた第2幕後半は、十分に大きな問いを私たちに投げかけたのではないか。子どもを産んだ皇后とバラクの妻を、それぞれの夫たちが全く顧みずに高級レストランで食事を繰り広げる様は、「子産み機械」として見なされ続ける限り、女は決して男と同じ場所には立てない(皇后もバラクの妻も席に着かせてさえもらえない)ということを明確に示しているし、皇后とバラクの妻が殺されてしまうという衝撃のラストは、男に背いた(2人の妻はそれぞれ夫ではない方の男の子どもを産んでいる)女は決して許さないという男性社会の歪んだ正義をシンボリックに炙り出す。ここで私は、子どもを産んだもののどうしたらいいかわからず死なせてしまった女子高生や風俗嬢が逮捕され、妊娠させた男性側は何の罪も問われないといういくつかの事件を思い出した。さらにいえば、現代の日本社会に蔓延するミソジニーについて声をあげ続けているのは圧倒的に女性が多く、また今回の演出に大きな声で非難の声をあげていたのは圧倒的に男性が多かったことも考慮に入れてみるといいかもしれない。
最後になってしまったが、今回の『影のない女』で一番感心したのは、二期会歌手陣の充実である。複雑なカットや読み替えというドラマ上の要求が大きい舞台の中で、あれほどの緊張感を持った表現を繰り広げることができたことは大いに誇っていいと思う。特にバラクの妻、皇后、乳母の女性3役は両組とも本当に良い歌手が揃えられていた。そして、この巨大なプロダクションを実質引っ張っていたのが、指揮のアレホ・ペレスであることも忘れてはならないだろう。
2024年10月25日、東京文化会館大ホール。
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