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【Opera/Cinema】METライブビューイング『コジ・ファン・トゥッテ』

 MET新演出の『コジ』。演出のフェリム・マクダーモットは舞台を1950年代のコニーアイランドに設定。遊園地とそこに隣接するモーテルで物語は展開する。と聞くと、何かを思い出さないだろうか。そう、新国立劇場で2011年と13年に上演されたダミアーノ・ミキエレットのプロダクションだ。ミキエレットは舞台を森の中のキャンプ場に設定し、ドン・アルフォンソにキャンプ場のオーナー、デスピーナには従業員という役割を与えた。キャンプ場とは日常から隔絶された空間であり、森や湖という自然は人間の本能を露わにする役割を果たす。と同時にそこは自然そのものではなく、多くの若者が集うという点では「ボーイ・ミーツ・ガール」の主戦場ともなる。『コジ・ファン・トゥッテ』という「恋」と「貞操」をテーマにしたドラマが繰り広げられるのにうってつけの舞台だった。

 マクダーモットがコニーアイランドという遊園地を舞台にしたのも、この「恋人が入れ替わる」という「ちょっとありえない」ストーリーに説得力を与えるために、あえて日常とは切り離された空間を選んだということなのだろう。実際、この舞台ははどこかおとぎ話のようなムードをまとっている(2018年からすれば1950年代はすでに「歴史」であり「フィクション」だ)。それに拍車をかけていたのが、火吹きや剣飲み、蛇使いといった実際に活躍する大道芸人たちの存在だ。彼らは幕が上がる前にドン・アルフォンソによって呼び出され、大きなおもちゃ箱から次々に現れる。「愛」や「欲望」「嫉妬」「毒」「チョコレート」といったプラカードを持って。そしてストーリーが展開していく中で、見世物小屋の登場人物としてだけでなく、時に遊園地の物売りになったりコーヒーカップを回したりと、いわば舞台の「装置」として機能するのだ。遊園地に生息する彼らの存在が、この物語は私たちと地続きではあるけれどもどこか別の場所——例えばおとぎ話や童話や映画やアニメやマンガの世界のようなところで繰り広げられているのだという感覚を抱かせる。だから、髭をつけて服を変えるだけで恋人がわからなくなるのも、すぐに心変わりをしてしまうのも、戦争に行ったはずの恋人がたった1日で戻ってきてしまうのも、ひとつの「フィクション」として納得できてしまう。そもそも「お話」というのはそういうものであり、それを「現実にはありえない」と非難するのは野暮というものだ。

 それでもどうしても承服できないこと。それは、最後にすべてが男たちの企みだったとバレたあとで女たちが許しを乞い、男たちはそれを受け入れて2組のカップルは元の鞘に収まって結婚する、という結末だ。「いやいや、私がフィオルディリージ/ドラベッラだったら騙されたとわかった時点でそんな男とは別れる。逆にフェルランド/グリエルモだったら別の男と結婚しようとした女とは別れる」と思う。本作で「おや」と思ったのは、2組のカップルが元鞘に収まる前に、舞台上にいる登場人物全員が適当に(?)カップルになって抱き合うシーン。そのあとで改めて、フィオルディリージはグリエルモと、ドラベッラはフェルランドと、その他の人々もそれぞれ正しい(!)相手と抱き合って幕が降りる。このシーンが挟まれたことで、人が人と結ばれるのは、それこそ中の見えないおもちゃ箱の中から適当にひとつを選び取るような偶然の産物なのだということが語られているような気がした。誰しも自分の恋人は運命によって定められた唯一無二の存在であると信じたい。しかし、出会いは偶然でしかないし、恋心は移ろうものだし、疑いも拭い去れない。人間というのは「そういうもの」なのだ。だが、「そんなもの」で構成されているこの馬鹿馬鹿しい人間世界の中で誰かに出会って恋をして結ばれるというのは、やっぱり素敵なことだ。「正しい」カップルに戻った人々が抱き合うすラストシーンの印象は悪くなかった。そう感じたのにはやはり、大道芸人たちの存在が大きく作用していたと思う。彼らは、例えば身体中にタトゥーが入っていたり、極端に背が低かったり、顔は髭面なのに大きな乳房をもつトランスジェンダーだったり、と、かなり「異形のもの」である。そんな彼らが一緒になって演じたからこそ、このラストシーンは「人間なんてそんなもの→だからこそ愛しい」という強い感慨を抱くことができたのだと思う。『コジ・ファン・トゥッテ』というオペラを憤慨せずに見終えることができたのは本作が初めて、という意味では記憶に残るプロダクションとなった。

 指揮のデイヴィッド・ロバートソンは、この「見世物小屋的」な世界観を、何よりアンサンブルの美しさに気を配ることで見事にバックアップした。4役はいずれも若い歌手だが概ね好演。デスピーナはブロードウェイ・ミュージカルのスターであるケリー・オハラが演じたのだが、イタリア語のレチタティーヴォのうまさに驚いた。才能ある人は何をやってもうまいのだろうか。ドン・アルフォンソのクリストファー・モルトマンの演技力と共に、若い歌手たちを引っ張っていた。

 ところで、この演出で唯一よくわからなかったのがドン・アルフォンソのキャラクター。最後に誰よりド派手なキンキラキンのスーツで現れた時には「ラスベガスのスターか?!」とツッコミを入れたくなったのだが、このオジサマが一体この世界ではどんなキャラなのか(遊園地のオーナー?)誰か教えて欲しい。というのも、最初に触れたミキエレット演出の「キャンプ場のオーナー」というドン・アルフォンソの描き方が、若い男性を諭す中年という点でも狂言回しという点でも秀逸だったので、どうしても比べたくなってしまうのだ。モルトマンの表現が素晴らしかったからこそなおのこと気になった。

2018年5月8日、東劇。

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