【Opera】神奈川県民ホール オペラシリーズ2016『さまよえるオランダ人』

神奈川県民ホール・びわ湖ホール・東京二期会による共同制作シリーズは、これまでにも刺激的なプロダクションを提供してきた(昨年からはiichiko総合文化センターも参加)。ワーグナーは今回で3作目、そのうち2012年の『タンホイザー』は今回と同じくミヒャエル・ハンペ演出による。いわばこの共同制作シリーズが自信をもって送り出したのが今作であるといっていいだろう。

確かに、舞台の完成度は非常に高いものだった。今回は休憩をはさまず、全3幕が通して上演されるスタイルがとられたが、ドラマの世界に没頭できるという意味では、むしろ作品がわかりやすくなる(疲労度は別にして)。また、3D映像によるプロジェクション・マッピングの効果は特筆すべきものがあった。幕が開くとそこは船の甲板で、後方に荒れ狂う嵐の海が映し出される。ものすごい速さで流れていく黒雲、甲板に叩きつけられる波しぶきなど、映像のクオリティは素晴らしく、実際に嵐の海にいるような気にさせられる。オランダ人の幽霊船が嵐をかき分け近づいてくるシーンは息を飲む迫力だ。第2幕になると、船の甲板だった装置はダーラント家の広間に変わるのだが、背景の映像によってそれとわかる仕掛け。このように、3Dマッピングは、場面転換ができないというデメリットを克服するのに役立っていただけでなく、スペクタクルな舞台をつくり上げることによってドラマの盛り上がりに大いに貢献していた。

問題は、演出のアイデアにあったと思う。第1幕でダーラント以下、ノルウエー船の水夫たちが船室に去った後、舞台には若い舵手ひとりが残される。彼は恋人を思う歌を歌いながら眠ってしまうのだが、そこに幽霊船が近づきオランダ人がやって来る(このシーンの迫力は前述の通り)。ダーラントが戻ってきて舵手を揺り起こすのだが、ここで観客はあることに気づく。舵手が寝ていた場所に、「もうひとりの舵手」が横たわっているのだ。彼は青白いライトを浴びて眠り続けている。第2幕、舞台がダーラント家の広間に変わっても、彼は横たわったまま。他の登場人物たちには、彼は見えていない。

はじめ私は、彼は亡霊なのだと思った。しかし、第2幕には、幽霊船の乗組員である水夫の亡霊たちが登場して歌うシーンがある。彼らは陰コーラスで舞台には登場しないことが多いが、本プロダクションではゾンビ風のメイクを施し、タコの足のように長く伸びた手をゆらゆらと揺らしながらノルウェー船の水夫たちを脅していく(ちなみにこのシーンも幽霊船の映像が大迫力で、ホーンテッド・マンションさながらの亡霊たちの大饗宴だ)。「もうひとりの舵手」はノルウェー船の乗組員なのだから、この亡霊たちの仲間ではありえない。ならば、こいつはいったい誰なのか。何しろ、常に舞台中央に寝転がり、時おり眠りながら腕を動かしたりするのだ。否が応でも目がいってしまう。

謎はフィナーレで解き明かされた。オランダ人を乗せた幽霊船が去り、彼を救うために永遠の愛を誓ったゼンタが海へ身を投げた後。水夫たちがなぜかにこやかに笑いながら甲板の中央に集まってくる。すると、ずっと眠っていた「もうひとりの舵手」が、実際の(という言い方が正しいのかどうかわからないが)舵手の帽子をかぶってやおら起き上がる。笑顔、笑顔の船の上。ワーグナーが追加した「救済の動機」が鳴り響く中、海はすっかり穏やかな表情を見せ、空には太陽が輝いて幕となる。

そう、この物語はすべて、舵手の夢の中の出来事だったのである。

私はここで椅子から転げ落ちそうになった。まさかの夢オチ!なぜ?「かわいそうなオランダ人とゼンタという女性はいませんでした」でいいのか?!

『さまよえるオランダ人』というオペラは、ワーグナー生涯のテーマである「永遠の愛による救済」を描いている。真実の愛を捧げる女性によってしか救われない魂を持つオランダ人と、彼を愛し命をかけて救うゼンタ。すべてが舵手の夢、ということになると救済されるべき魂はなかったということになり、もちろん命をかけて男性を救う乙女などという存在もいなかったことになる。敢えて深読みをするなら、現代においてはそのようなピュアな魂は存在しえない、ということなのか。しかし演出は大御所ハンペである。どちらかといえば保守的な演出家であり、いわゆる「現代的演出」とは一線を画す存在だ。そしてもちろん、この夢オチ以外は非常にトラディショナルな解釈のプロダクションなのだ。

やはり私は、最後はオランダ人とゼンタの清らかな魂が天へ昇っていくのを見たかった。たとえ私自身が、「愛によって救済される魂」というものを信じていなかったとしても。

ソリストは高いテクニックを持つ人材揃い。タイトルロールは青山貴。おどろどろしい幽霊船の船長だが、どこか悩める青年風なのが好感が持てる。橋爪ゆかは、豊かな声量とまろやかな声で静謐な乙女としてのゼンタを熱演。エリックに福井敬とはなんとも贅沢な配役!そして、個人的には舵手役の清水徹太郎(びわ湖ホール声楽アンサンブル・ソロ登録メンバー)のリリカルで澄んだ声に心を惹かれた。

惜しかったのは合唱とオーケストラ。二期会合唱団・新国立劇場合唱団・藤原歌劇団合唱団という名だたる合唱団のメンバーを大人数揃えた割には、なぜか迫力が今ひとつに感じた。神奈川フィルハーモニー管弦楽団も、沼尻竜典の下そつのない演奏だったが、もっとこう、心を鷲掴みにするような力が欲しかった。

実は私はワーグナーの「大げさな音楽」があまり好きではない。でも今回のプロダクションはもっと「大げさな音楽」でよかったのではないかと思う。あの、恐ろしいほどの迫力ある幽霊船の映像に拮抗できるような音楽が。

2016年3月20日 神奈川県民ホール





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