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まだ旅の途中

 目が覚めて、まずスマホをチェックする。企業アカウントからの通知や天気予報アプリ以外のアイコンは表示されていず、画面をオフにしてベッドから身を起こした。
 顔を洗って着替え、窓の外を見ると、今日はずいぶん天気が良さそうだ。仕事用のパソコンを立ち上げ、至急の対応が必要な要件がないことを確認して、少し散歩することにした。
 日焼け止めだけ塗って外に出ると、思った通り、からっと乾いた天気にややひんやりとした風の上天気。徒歩十分程度のところにある港へ向かうことにする。開店準備に音を立てて上がる商店街のシャッターや小さな神社の前を通り過ぎ、やがて海の匂いのしない港が見えてきた。
 水辺を臨むカフェに入って、カフェラテと“たっぷりたまごのサンドイッチ”を確保して窓際の席に着く。本当にすぐ目の前が湖、というロケーションなのですごく開放感がある。表参道のカフェに比べるとラテアートが微妙に冴えなくても、この景色は東京では手に入らない。
 朝ごはんをすませてまた徒歩十分、借りているマンスリーマンションまで戻る。しょぼいIHコンロ一口だけのキッチンでは料理と呼べるような作業は何もできないけれど、持ち込んだ電気ポットでお湯を沸かしてコーヒーを淹れることさえできれば十分だ。食事に関してはジャンクなものでも全然平気、でもコーヒーはちゃんと美味しいのを飲みたい性分なので、身軽さ重視でコンパクトにまとめた私の荷物の中には、電気ポットとハンドドリッパーが入っている。
 そういえば、子どもの頃に好きだった『ウォーリーを探せ!』シリーズで、世界中を旅していたウォーリーの大きなバックパックには、コーヒーカップが一つぶら下がっていた。彼も飲み物にはこだわりのあるタイプだったのだろうか。しかし、石器時代から月面まで駆け巡っていたウォーリー氏に比べれば、私なんてまだまだ腰の重い部類に入ると言えるだろう。
 再び仕事用のパソコンの電源を入れる。部署のチャットグループに《始業します》と投稿すると、直属の上司である島田から音声チャットのリクエストが飛んできた。《許可》のボタンをクリックする。
「お疲れさまです、おはようございます」
「おはよう。今日はどこにいるんだ?」
「国内某所です」
 あははは、と豪快な笑い声が返ってきた。
「安心しろよ、俺から情報漏洩はしないから」
「気遣いですよ。知ってることを知らないって言うより、本当に知らない方が気が楽でしょう」
「ご配慮どうも。――で本題だけど」
 島田はさっと声色を切り替えた。今、私が担当している案件、クライアントの提供サービスの新規申し込み特典紹介サイトについて、今週中でいいはずだった話だったモックアップの提出を水曜日までに早めてほしいという。手元のファイルの進捗具合と、他の案件のスケジュールをざっとチェックして、
「大丈夫です、水曜いっぱいでいいですか」
「ああ、問題ない。悪いないきなり」
 チャットを終え、自分の仕事に取りかかる。パソコンのスペックには条件が多いもののそれさえ整えれば居場所は問わず、実作業が始まれば一人で黙々と進めることができる、ウェブデザイナーの仕事は性に合っていると思う。
 静かすぎても落ち着かないので適当な音楽をかけ、あとはコーヒーだけをお供にして手を動かし続ける。朝の散歩が良かったのか、今日は集中力が高まっている感じがする。
 ブーブー、とバッグの外ポケットで不満げに鳴いたスマホの振動音で集中が途切れる。時計を見ると十二時四十七分、そうか、そろそろお昼か。
 鳴き声の主を取り上げ、画面をチェックする。
 色とりどりの野菜が美しく盛り付けられたサラダに、クリームで芸術的に模様の描かれたポタージュ、蟹が殻ごとどかんと入ったパスタ。いかにも都会的な、イタリアンの高級ランチの写真。
《今日の昼食です》
 この一言だけが添えられた、夫からのLINEだった。

 夫と出会ったのは仕事の席だった。夫の会社の、新商品発売キャンペーンのサイト制作を依頼された私の勤め先の、担当者が私、クライアント企業の広報課課長が夫だった。こちら側は、実作業は私が主に行うが責任者は島田だったので、先方の責任者が私と同世代だったことには少し驚いた。
 しかし名刺を見て納得する。
「あ、鳥海さん、ってことは」
 社名と同じ苗字の持ち主は、はい、と頷いた。
「専門の方のご指摘、ご意見はどんどん取り入れたいと思っておりますので、何でも仰ってください」
 序盤はどこもそう言ってくれるものだ。そしてだんだん「予算が」とか、全体のバランスを無視して「申し込みボタンをもっと目立たせたい」とか何とか言ってくるのだ。仰るとおりにすると最悪にクソダサくて見づらいデザインになりますけどいいですか、とは一ミリも顔に出さず、先方の予算範囲内で納得感のある着地点を探すのも仕事のうちだと心得ている。
 しかし夫は本当にこちらの提案を聞いてくれた。先方担当者の出してきた案が新商品のターゲットにはややそぐわないのでは、と思えた時も、私が微かに眉を下げたのを見てとって「私は経験も浅くて分からないことだらけですので、申し訳ありませんが教えていただけるとありがたいです」と下手に出る形を取って促してくれた。夫の部下である実担当者の女性が、はきはきしているのはいいが少し言葉尻がきつくて苦手なタイプだったのだけれど、夫の立ち回りでずいぶん空気が和らいだと思う。
 その部下に対しての態度も決して高圧的ではない、というよりむしろ低姿勢に過ぎるくらいで、そもそも打ち合わせのたびに同席するのも相当まめだが、クッキーやら羊羹やらの手土産を毎回用意してくれる上にお茶まで自ら出してくれて、後はちんまりと脇に座っている。この人、本当に上司なんだよね? と確認したくなってくる。
 ある時、「コンビニに用があるので、ついでに」と言って、夫がビルの下まで送ってくれたことがあった。初めて二人きりになったその時に、興味本位で聞いてみた。
「鳥海さん、私にもですけど部下の方に対してもすごく丁寧に接していらっしゃいますよね」
 いえいえそんな、と夫は困ったように微笑んだ。
「役職付きの方がお茶出してくださるの、御社くらいですよ」
「私の役職は、何というか、あれですから」
 声のトーンが少し沈んだ。
「部下の大野は広報の仕事をして七年になりますが、私が配属されたのは半年前です。当然、彼女の方が詳しくて、私がいる必要はないんですが、勉強のために同席させてもらってるんです。新人のOJTと一緒です」
「いいええ、鳥海さんがいてくださって、やりやすくて助かりますよ」
「大野はやりにくいと思います。私がそのうち経営側に回ることは当然知っているわけですから」
「それは、まあ」
「社内の人間は多かれ少なかれ私に気を遣ってくれてしまうので、だから社外の方とお話しできる機会がありがたいというのもあって、いつもお邪魔しています」
 周囲みんなに自分の機嫌を伺われながら暮らすことを想像してみる。私の出したデザイン案がどんなに低レベルでも、島田が何も言わずにOKを出し、陰で溜息交じりにあれじゃあちょっとなあ、などと言われたり、または「言われているんじゃないか」と思ったりする毎日は、
「気疲れするでしょうね」
「え?」
「立場があるっていうのも、何かとご苦労がありますよね」
 そういえば、この人の用意してくれるお茶菓子はいつも、誰もが知っている有名なものだ。とらやの羊羹、タカノのフルーツゼリー、ケンズカフェのガトーショコラ。誰が持ってこようが、ほぼ間違いなく歓迎される王道中の王道。
 社屋のすぐ隣にあるコンビニの前で会釈をして、夫は店内へ、私は駅方面へ。

 夫はその後も変わらずお茶菓子とともに商談の場に同席し、キャンペーンサイトは滞りなくリリースされ、見積書通りの料金が期日内にきちんと振り込まれ、案件は完結した。
 仕事の用事がなくなったそれきり連絡はなく、名刺フォルダの整頓中に目に入った名前と顔とを結びつけるのが困難になってきたくらいの頃、突然メールが届いた。
《ご無沙汰しております。憶えておいででしょうか。
 異動に伴い内線番号が変わりましたので、そのご連絡と
 もし差し支えなければ、会食に使用したいレストランの
 下見にお付き合いいただければ幸いです》
 末尾にはURLが貼ってあった。クリックしてみると、三ヶ月前にオープンした中目黒のレストランだ。
《こちらこそご無沙汰しております。
 もちろん憶えていますよ!
 ご丁寧にご連絡頂いてありがとうございます。
 URL拝見しました。素敵なお店ですね。
 私でよろしければ、お供させていただきます》
 当日、駅の改札で待ち合わせ、夫に先導されるまま居酒屋や気安いバルの並ぶ高架下を素通りし、観葉植物の鉢でやや分かりづらい入り口からウェイターに声をかけ、案内されて地下に降りる。暗い店内で各テーブルがスポットライトで浮かび上がるように照らされているうちの一席に促された。
 デザートに登場したヴェッキオ何とかというワインのジェラートに取りかかろうとスプーンに手を伸ばしたところで、さっきまで最新映画の話や都内の美術展の話を穏やかに振ってくれていた夫が、実は、と急に重そうに口を開いた。
「今日、会食の下見といってお誘いしましたが、本当はそうではなくて」
 言い終わるまで待っているとジェラートが溶けそうなので、食べなから聞くことにする。
「異動は本当なんです。広報課所属のうちは私はあなたのクライアントになってしまうので、私からの誘いを断りづらいのではないかと思いまして、広報から離れるまでご連絡は控えた方がいいと判断したのですが、そのせいでだいぶ間が空いてしまって」
「溶けるので、召し上がった方が」
 手振りで促すと夫はああ、とジェラートを一口掬い、美味しいですねと頬を緩めた。
「前にお仕事でご一緒した時から、とても感じのいい方だという印象があって。もし差し支えなければ、今後はプライベートでお会いできたらと思うのですが」
「はい、大丈夫ですよ」
「本当ですか」
「お誘いいただいた時から、そういうご用件かなあとちょっと思っていたので」
 夫の会社から中目黒は特に行きやすくなく、このお店は確かに美味しいけれど照明をかなり落としてあって仕事の会食にはあまり向いていない。そもそも下見の同行者として部外者の私はまったく適していない。案件中の態度から嫌われていないのも分かっていたので、まあそういうことなのかな、とは予想がついた。
「自然な連絡にしたつもりだったんですが、怪しかったですか」
「怪しいとまでは言いませんが、自然ではなかったですね」
 難しいですねと笑う夫の顔を見ながら、器を少し傾けて、残りのジェラートを端に寄せてスプーンですべて掬った。
 こうして私たちは付き合い始めた。

 うちの会社がリモートワークを認めているのを幸いと、私はたまに金券ショップやフリマサイトを覗き、安くなっているチケットを見つけるとそれを利用して意味もなく旅に出ることがあった。世間の長期休暇と時期をずらせば宿にも困らない。そうして行き先で撮った写真を送ると、彼氏だった夫は「珍しい建物だね。屋根瓦が面白い」「すごく水が澄んでいて川底まで見えるね」などと返事をくれた。
「すごくフットワークが軽いよね。逞しくてかっこいいと思う」
「一応会社員だけど、自由業っぽい仕事なのも大きな要素かな」
「どこででも仕事ができるっていうのは手に職がある人の特権だね。羨ましいよ」と言う時には少し声が沈んだ。
「僕は、自分が東京を離れて遠くに住むことがあるかもしれないなんて考えたこともなかった」
「そりゃあ、実家が中央区の戸建てで通勤も便利なら、出ない人がほとんどでしょう」
「恵まれてるのは分かってるから、愚痴の形式で他人に言いづらいんだけど」
「どんな境遇でも善し悪しあるよ」
 別に仕事のできない人ではないと思うのだけれど、役職を得ている理由に実力以外の要素が大きく関係していることは明白で、その分、私の仕事の決め方を大袈裟なほどに感心してくれた。
「うちは親が離婚してて、母とおばあちゃんだけだったから、あんまり学費かけたくなくて。ウェブデザイナーなら、専門学校と独学でも、工夫すればいい線いけるんじゃないかと思ったんだよね」
「そうやって考えられることがまず偉いし、その通りに実現できているのはもっと偉いと思う」
 お互いに三十代前半という遅すぎも早すぎもしないタイミングで結婚の話が出たことに、私は驚かなかったが、実家の母と祖母は夫の境遇を聞いてずいぶんと恐縮していた。しかしそこは夫のご両親が逆に気を遣ってくれて、おっとり育った代わりにひ弱なところがあるかもしれませんがどうぞ叱ってやってください、などと微笑んでくださった。結婚式については、私は正直に言えばあまりやりたくない派なのだけれど、夫のお家はそういうわけにはいかないだろうと覚悟していた。しかし夫のご両親から希望プランの話が出る前に夫が「大々的にはやりたくないな、こぢんまりにしたいよ」と言い出してくれ、こういうことは本人たちの意向が一番だからと和やかに話はまとまり、両家の親族だけで小規模に執り行った。
 結婚してしばらく、私は大人しく新居に落ち着いていた。結婚祝いとして義理の両親から贈られた、恵比寿駅から徒歩四分の一戸建ての方が、下手な旅行先よりもはるかに目新しかったからだ。
「あなたは自宅で仕事をすることもあるだろうから」とまるまる一部屋を私の仕事部屋にさせてもらい、デスクやチェアなども高性能なものを厳選して揃えた。なるほど、なぜ高いのか分かるなという座り心地の椅子のリクライニング具合をたびたび確かめつつ、夫の帰宅時には必ず玄関で出迎えることを徹底したり、休みの日には二人でキッチンに立って独り暮らしの時には買おうと思ったこともないバルサミコ酢とフレッシュハーブを使って凝った料理に挑戦したりと、まあ奥様ごっこを楽しんでいたのだ。
 しかし、数ヶ月もそれを繰り返せば、もう一通りやったかな、という気分になる。
 会社帰りに寄り道した金券ショップで手頃なチケットを見つけた日の夜、入浴後にソファでくつろぐ夫に「久しぶりに、またどっか行ってこようと思うんだ」と声をかけた。
「え?」
「ほら、前よくやってたじゃない私。ふらっと出かけて、二、三日泊まってくるの。あれまた再開しようと思って」
「何で? ああ出張とか?」
「ううん違うよ、特に理由はないけど気分転換っていうか、行ったことないところに行くの面白いから、って前も説明したじゃない」
「それは独身の時の話でしょう」
 外から帰ったら手を洗って、と言うような顔で夫は言った。
「ここに家があるのに、用もなく一人で外泊する理由がよく分からないな」
「独身の時だってホームレスじゃなかったんですけどー」
「家っていうのは家屋のことだけじゃなくて、家族も含めて家だと思う」
 軽口で場を和ませようとしたのに、夫はにこりともしなかった。
 おかしいな、と思った。だって、フットワークの軽さを褒めたり、送った写真にあれこれコメントをくれたり、私のちょっとした旅の話をあんなに喜んで聞いてくれていたのに。
 まさかこんな反応をされると思っていなかったので、
「ごめん、実はもう泊まるところも予約しちゃってるんだ」
「キャンセルできると思うよ。キャンセル料はかかっちゃうかもしれないけど」
「お金がどうっていうより、夜ごはんも宿で食べるように予約しちゃって、それが準備に時間のかかるコースだったから、今からキャンセルすると、多分、宿に迷惑かかっちゃう」
 ここしばらく夫の影響で贅沢慣れしていたので、三日かけて作る燻製料理という、家では作れなさそうなものを選んでしまったのだ。
 この事態を見越していたわけではないけれど、接客業の人に迷惑をかけることを非常に嫌う夫には大変効果があった。
「そうか、それなら、まあ、今回は仕方ないか」そして取り繕うように続けた。「絶対に行くなって言いたいわけじゃないんだ。ただ今後は、予約をしたりチケットを買う前に一声かけてもらえるかな。そうしたら、もしかして僕も都合つけて一緒に行けるかもしれないし」
「うん、そうだね。今回はごめんね急に」
 これ以上、話を長引かせない方が得策だと察したので、穏便に着地させた。

 そして翌日、夫が仕事に出た後、《行ってきます》の連絡を入れてから、予定通り出発し、東京駅に向かった。
 久しぶりに過ごす旅の時間は素晴らしかった。あんないい家に住んでおいて我ながら贅沢だとは思うけれど、これはもうそういう性分で、豪華さで埋め合わせできるものではないのだ。
 到着駅から在来線に乗り換え、宿の最寄り駅に到着する。駅のひなびた雰囲気も目新しく、色褪せたご当地マスコットを写真に収める。夫に《勤続うん十年の風格!》と添えて写真を送った。
 何てことない地元のスーパーを覗いて現地食材コーナーを冷やかし、公民館内に飾られている地元のお祭り写真を眺めていたところで、バッグの中のスマホが振動した。ロックを解除する。
《今日の昼はスタミナ重視にしました》
 私が送ったご当地マスコットへのコメントは一切ない夫からのLINEにはその一文と、照り輝く鰻重と肝吸い、会社近くにある高級鰻屋の店名の入った箸袋の写真。私も前に、夫に連れて行ってもらって食べたことがあるが、香ばしい皮と甘すぎないタレが絶妙だった。
《美味しそうだね》
 それだけ送って、アプリを閉じた。
 宿に着いて荷物を下ろし、何だか疲れてしまって畳に寝転がる。お昼に食べた地元食堂のチキン南蛮定食の、タルタルソースの味が舌に残っている。
 都内の一等地にしか店舗のない、高級鰻のランチ。前に夫と行った鮨屋の大将が「産地の方が美味いものがあるって思うかもしれませんけど、結局、一番いいものは東京に来るんです」と言っていた。
 体を起こし、備え付けのお茶セットで温かいお茶を煎れる。添えられた地元銘菓と一緒に飲むと、お腹が温まって少し落ち着いた。
 ミニバッグにスマホと財布だけ放り込んで部屋を出、宿の受付の人に教えてもらった、徒歩二十分くらいのところにある県立美術館に向かう。五感をテーマにした企画展と、収蔵品を公開する常設展をぐるりと回っていたら割といい時間になってきたので、またぶらぶら歩いて宿まで戻った。
 予約しておいた燻製料理の夜ごはんは、繊細というより豪快で、しかし気を遣って丁寧に作られていた。写真を撮るだけ撮り、すべて平らげる。満腹を少し落ち着かせてからお風呂に入り、夫に《おやすみなさい》と送ってから、敷かれていた布団に横たわって目を閉じた。
 翌日、身支度をし、宿の朝ごはんを頂いてから、座椅子を具合のいいようにセッティングし、持ってきた仕事用のパソコンを立ち上げる。部署のチャットグループに《昨日はお休みいただきました。今から始業します》と書き込むと、同僚たちからいくつかスタンプがついた。
 昨日、有休を取った分、連絡事項が溜まっていたので、まずはそれを無心で片付ける。それが済んだら、先週からやりかけのコーディングの続きに取りかかった。手を着け始める時は億劫なのだけれど、乗ってくると無心になれるパートなので、嫌いではない。お昼ごはんと、たまに挟むお茶休憩以外は集中して作業を進める。終わってみると、足も痺れているし腰も若干凝っている感じがあるけれど、自宅のオカムラの椅子よりも作業が捗った。
 夜、布団の中で目を閉じたのに、なかなか寝付けなかった。今日、夫から送られてきた何枚かの写真――近所の公園のお洒落な遊具と品良く剪定された街路樹越しの青空、満開の花を思わせる盛り付けの施された和定食、オフィスの三十一階の窓から見える夕焼け――が脳裏をちらついていた。
 翌朝、宿の人にお詫びをし、予定を変更して今日の夜にチェックアウトさせてもらうことにした。本当はあと二日ほど押さえていたので申し訳なかったのだけれど、ぜひまたいらしてくださいと言っていただき、すみませんと再度頭を下げた。その日は仕事を早めに切り上げ、うまく取れた東京行きチケットで乗った新幹線の中で、夫にメッセージを送った。
《予定変更して、今もう東京に戻っている途中です。気にせず先に寝ててね》
 スマホをしまい、少し寝るかと目を閉じたところで、バッグが振動する。
《おかえり! 気をつけて帰ってきてください。荷物もあるし夜だから東京駅からタクシーを使うようにね》
 言われたとおりタクシーに乗って、だいたい予想通りの時間に家に着いた。音を立てないようにそっとドアを開けたのに、夫は起きて待っていて、玄関まで迎えに出てきた。
「お帰りなさい。お風呂沸いてるよ」
「ただいま。ありがとう、荷物片付けたら入るね」
「僕がやっておくから、疲れを取るのを優先した方がいいよ」
「ああ、うん、じゃあ、お風呂はすぐ入っちゃうけど、仕事のものもあるから荷物はそのままにしておいて」
 お風呂から上がると、荷物は手つかずのまま、夫が温かいお茶を注いでくれているところだった。
「どうぞ」
「ありがとう」
 私がお茶を飲むのを見ていた夫は、さて、と立ち上がった。
「悪いけど先に寝るよ」
「うん、待たせちゃってごめんね、おやすみ」
「あなたも無理しないようにね。荷物は明日でもいいんだし」
 夫が寝室に引き上げ、ひとりのリビングで香りのいいお茶を飲みながら、そういえばと思い出して荷物を開け、宿から持って帰ってきた銘菓の饅頭をもそもそ食べた。

 翌日、夫が作ってくれた朝食はとても美味しかったし、自宅のオカムラの椅子は座りっぱなしでも首も腰も痛くならないし、お義母さんから「私にはもうデザインが若いから、もし良ければ使ってもらえたら嬉しいわ」と頂いたバッグは手入れが良くてどこも傷んでいず、調べたら定価で六十万以上した。
 それからまたしばらくは自宅を拠点に過ごした。私か「壁の色を変えてみたいんだけど、どうかな」と持ちかけたら、夫は喜んで何やら調べだし、次の週末には青山の老舗ペンキ屋に一緒に出向き、色を選んだ。「デザインを仕事にしている人は違うね、やっぱりセンスがいい」と私の色選びを褒め、天井にマスキングテープを貼る作業は、脚立が危ないからと私にはさせてくれなかった。
 そしてまた数ヶ月後、前回の反省を踏まえて、今度は予約もせずチケットも買っていない状態で話を始めてみたら、夫はソファから立ち上がり、ダイニングテーブルについた。向かいの椅子を示されて、私も座る。あのね、とごく穏やかに、夫は話し始めた。
「あなたのその、放浪癖っていうか、急にどこかに行きたくなる気分ね。それってつまり逃避なんじゃないかと思うんだ」
「……逃避」
「今の生活よりもっと違う道があったんじゃないか。もっといい未来があったんじゃないかって思う気持ちから来てるんだと思うんだよね。マリッジブルーって言葉があるけど、あれが結婚前じゃなくて今、来たんじゃないかな」
 別にブルーで放浪しているわけではないし、それなら独身時代から続いていることの説明はどうつけるんだろう。
「家に関しては、うちの両親が張り切って用意しちゃったから、もし何か気に入らないことがあっても言い出せなかったんじゃないかと思うと申し訳ない」
「そんなこと全然ないよ。こんないい家、仕事部屋も気に入るとおりにさせてくれたし」
「じゃあ仕事かな。頑張っても仕事を任せてもらえないとか、女性には出世させないみたいな会社もまだまだあるって聞くけど」
「うちはそんなことないと思うよ」
「じゃあ、誰か付き合いづらい人がいるとか。社内でもお客さんでも」
「特にいないかな」
「じゃあ何だろう。スキルアップとか考えてて、それが伸び悩んでるとか?」
 夫は根気強く、私の生活の中から不満を探そうとしている。
「例えば仕事をしばらく休んで、大学に通い直してみる道もあると思うよ。学ぶことはいくつになってもいい刺激になるし、そうすることで自分の中で、今いる場所が自分の居場所だっていう、根を張るような感覚が得られるかもしれない」
 会社の研修プログラムでも新鮮な発見があったりするしね、と微笑みかけてくる夫に、私は力なく笑みを返した。

 なーんだ。
 本当はちっとも嫌じゃなかったんじゃないか。
 水天宮駅の目と鼻の先にある車庫つき屋上つきの実家も、何も苦労せずに恵比寿の新居を買ってくれる両親も、生まれた時から社長になることが決まっていたことも。
 こんな完璧な暮らしからなぜ一時でも離れたがるのか心底理解できない、くらい気に入っているんじゃないか。

 しかし、それに対して別に悪感情は抱かなかったのだ。ほとんどの人が羨む要素なのだから、むしろ捻くれていなくて常識的な人だな、と思ったくらいだ。
 特に何か、具体的なきっかけがあったわけではないのだ。
 結婚して二年と少し経った六月、祖母が亡くなった。シングルマザーだった母が外で働いている分、家事を一手に担って私を育ててくれた母親代わりの祖母だったから喪失感がひどく、実家に帰ってお通夜と告別式を済ませた後も、てきぱき荷造りをしようという気になれず、畳にぺたんと座り込んでいた。その私を見て夫――私と一緒に一晩実家に泊まり、今日の新幹線で帰るために荷物をまとめ終わった――が、少しゆっくりしていったら、と言ってくれたのだ。
「忌引きは三日間取れるはずだし、有休だって余りがあるでしょう。お義母さんもショックだろうから、そばにいてあげれば安心すると思うよ」
 ずっと裕福に育ってきた人なので、こういう時、私の分まで購入済みのグリーン車のチケットが無駄になることについて一切の頓着をしないところはさすがだ。
「ごめん、それじゃあ、そうさせてもらうね」
「うん、くれぐれも無理しないで、気持ちを落ち着かせる時間をしっかりとって」
 駅まで送ろうかと提案する私を夫は優しく押しとどめてタクシーを呼び、母とまっすぐ目を合わせて「僕にできることがあったら何でも仰ってください」と言って、帰っていった。
 私は母と並んでタクシーが見えなくなるまで見送り、隣に立つ母に「中、入ろうか」と言った。母は小さく頷いた。
 まずは実家にWi-Fiルーターを設置し、会社にも許可を取り、しばらく実家から仕事をする手はずを整えた。忌引きが明けて母が仕事を再開してからは、母が作ってくれた朝ごはんを食べ、片付けは私、洗濯と掃除は私、夜ごはんは余裕のある方が作り、片付けは作っていない方が行うという分担で家事を回した。
 三週間ほど経った頃だろうか、私の作った夜ごはん――豚こまと小松菜のオイスター炒め――をつつきながら母が言った。
「あんた、今後の予定はどうなの」
「今後の予定って?」
「こうやっていてくれるのは嬉しいっちゃ嬉しいけどさ、ずっといるわけじゃないだろうし」
「何、いてほしくないの?」
「ていうか、帰りたくないんでしょう」
 味噌汁の椀を取り上げようとしていた手を止める。
「あー」椀を持ち直し、一口すする。「分かる?」
「分かるわよそりゃ。お母さんダシにして帰るの引き延ばしてるなあって」
「そう言われちゃうと、あれだけどさ」
 実家の居間の、くすんだビニールのテーブルクロスに置いた最新型パソコンで女性向けのオンラインスキルアップ講座の紹介サイトのデザインをし、面倒な時は買ってきた惣菜やインスタント食品を食べ、気が向けば調理台の妙に低い古い台所で料理をし、時間のある時にはちょっと足を伸ばすとこの田舎町にも小洒落たカフェやらバルやらが進出してきていて、そこには髪を緑色に染めた若者がいたりして、何をしている人なのかお互いに知らないまま会話が盛り上がって、それっきり二度と会わなかったりして。
 茶色もマカロンカラーも醤油もパンケーキも田舎から出たことのない近所のおじいちゃんも遠くから移住してきた若者もごたまぜの、この雑多な生活をしていたら、
「何か、帰らなくてもいい気がしてきちゃってさ」
「いいかどうかは知らないわよ」
「そりゃそうか」
 母はきんぴらを一口つまみ、飲み込んでからまた口を開いた。
「何か問題があるとかじゃないのよね。借金、はあの環境ではないだろうけど、浮気とか暴力とか」
「ないない」
「そうよねえ、公一さん優しそうだもの」
 確かに、とても優しい人だと思う。今も毎日一回、必ず《あなたもお義母さんも調子はどうですか》と連絡をくれる。何が不満なんだと聞かれたら、不満はないと答えるだろう。
 それなのにどうして帰る気がしないのか、自分でも理由を言葉にできないのに、帰る気がしないことだけははっきり分かるのだ。
「やりたいようにやんなさい。あんたならどこでも暮らしていけるでしょう」
「まあね」
 私だったらあんな好条件、絶対に逃さないけどねえ、と笑う母に、私も「友達が今の私と同じこと言ってたら絶対止めるわ」と返した。

 夫から毎日届く様子伺いの連絡に《元気だよ。でももうちょっとここにいるね》と返し続けてさらに一週間、私が実家から百五十キロほど離れた某県のネットカフェ鍵付個室で仕事をしていた時、スマホが夫からの、メッセージではなく着信を知らせた。出ずにしばらく画面を見守ると着信は切れ、メッセージが届いた。
《お疲れさま。今、通話できないかな》
《声出すと周りの迷惑になっちゃうから、テキストでお願い》
《実家にいるんじゃないの?》
《母はもう大丈夫みたいだから》
《じゃあ今は帰宅途中?》
《違うよ》
《じゃあどこにいるの?》
《ぶらぶらしてるよ》
 また着信。今度はいくら待っても止まらないので、個室の鍵をかけ、店外に出る。
「もしもし」
「今どこにいるの?」
 間髪入れず質問が飛ぶ。
「母がもうだいぶ元気になったから実家は出て、ふらっと旅に出てる」
「だから、どこにいるの?」
「ふらっと出かけて、あちこち泊まり歩くの、また再開することにしたんだ」
「どういうつもり。どうやって生活してるの」
「仕事はほら、私どこででもできるし」
 は、と短く息を吐く音が聞こえた。
「僕がしたことで何かあなたが嫌なことがあったようなら悪かったけど、それなら言葉にして何が不満だったのかを教えてほしい。何が悪かったのかが分からないと謝ることもできないよ」
「あなたが悪いとかでは全然ないよ」
「だったらどうして帰ってこないの」
「私があちこち旅して回るの、あなた、フットワークが軽くてかっこいいね、って言ってくれたじゃない」
「言ったよ。でもそれは」
「私もそういう自分が好きだし、それをあなたが褒めてくれた時も嬉しかったよ」
 返事が途切れた。
「二度と帰らない気だとか、別れたいだとかそういうことではないよ。あなたが“こんな妻ならいらない”って思うなら仕方ないけど」
「そんなこと思わないよ」
「だったら、しばらく自由にさせてもらえないかな」
「うちにいる時、あなたは自由じゃないような気がしてたの?」
 今度は私が言葉に詰まる。
「分かった」しばしの沈黙を破ったのは夫だった。「気が済むようにすればいい。あなたが何が気に食わないのか僕にはよく分からないけど、落ち着いたら帰ってきてくれるなら、長期出張だとでも思っておくように努力するよ」
「ありがとう。でも本当に、気に食わないとかではないから」
「連絡はつくようにしておいてほしい。既読がつかなかったら、何か事件にでも巻き込まれた可能性を考えて不安になる」
「分かった」
「今はそうやってあちこちふらついていたいと思っているかもしれないけど、たとえば病気にでもなったら、帰る家と、待っている家族があることのありがたみが、あなたにも分かると思うよ」
 私の返事を待たず、通話は切れた。
 あなたはいつ病気になっても大丈夫そうだね、と心の中で返した。

 それ以来ずっと、私は日本中のあちらこちらを渡り歩き続けて、この生活もそろそろ一年半に突入しようとしている。
 夫からは、毎日ではないがぽつぽつと写真が送られてくる。豪華な食事や最先端スポット、高層階からの輝く夜景など、東京でしか撮れない写真だ。既読は必ずつけ、たまに《美味しそうだね》と返し、私からはその時に滞在している土地の、地元の人しか来ないような食堂の、一目では具材の判断がつかないミックスフライ定食の写真を返したりする。《素朴でいいね》などと返事が来る。
 私宛には帰りを急かすようなメッセージは送られてこない。しかし会社には問い合わせがあったようで、島田から「業務上支障がなければ不問としてありますので、詳しい所在地は分かりかねますって言っておいたけどいいか?」と聞かれた。「完璧です」と言ったら島田は笑っていた。
 一度、お義母さんから急に連絡があった。
《公一が体調を崩しています》
 一度アプリを閉じ、SNSを立ち上げる。常務取締役まで昇進した夫は、日々の業務の様子などをこまめに発信し、会社の広報的な役割の一端を担っている。最新の投稿は本日、出勤中に見かけた、会社近くの八幡宮のお祭り準備をとらえた写真だった。スクリーンショットを撮ってから、お義母さんへの返信を打ち込む。
《嘘が下手なところが好きですと、公一さんにお伝えください》
 スクリーンショットを添付すると、どちらにも既読がつき、それきり返事はなかった。
 友人や親戚などには、「妻は旅行中」「出張中」などと言っているらしい。長いんじゃないかと怪しまれているようで、私の連絡先を知っている人からは様子を窺うようなメッセージが届くこともあるが、旅行中なんですよ、と返している。
 嘘はついていない。私は家出をしたわけでもなく、失踪したわけでもない。夫とは連絡を取り合い、同じ会社に勤務し続けている。そんな失踪者はいないだろう。では何をしているんだと聞かれたら、旅行としか答えようがない。
 そう、いつか帰りさえすれば、これは旅行だ。
 いつ帰るのか、まだ決めていないだけで。

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