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はじめまして。宮崎直子の自己紹介その2
リベンジに走った20代
「はじめまして。宮崎直子の自己紹介その1」で私が10代の時に立てた問いのお話をしました。その問いというのは、
「人はどうしたら持って生まれた才能を活かして幸せに生きることができるのか?」
というものでした。
コンピュータ化の波に乗れず、戦力外通告を受け会社を辞めて塾を始めた父。生徒が集まらず、タバコやお酒に走る父。
そこで私は決意します。
父親の敵を討つ!
父が会社を首になる原因となったにっくきコンピュータをやっつけてやる!
父を首にした冷たい世間を私が出世して見返してやる!
集客ができなかった父を助けられるようにマーケティングをものにしてやる!
これに加えて、私は、10代の初めに出会った落合恵子さんの本の影響でフェミニズムの洗礼を受けていました。
男性にできて女性にできないことはない!
私は絶対にサポート的な仕事はしない。
男性と同じだけのお給料をもらって男性と同じ仕事をする。
それは、もう鼻息の荒い、そして青い青い20代でした。
アメリカの大学院(修士号)を修了した私は一旦日本に戻り、就職することにします。
日本の某大手デパートから内定もいただいたのですが、父の敵討ちが何より大事と、コンピューターをやっつけるべく、コンピュータ業界に就職します。女性も男性と同等に扱ってもらえそうという理由で、アメリカの会社の子会社である日本NCRを選びました。
そこで、プロダクトマネジャー、そして開発エンジニアとして4年間を送りました。
疑問を抱き始めた30代
日本NCRで4年間お世話になったあと、元夫と私は、ここシリコンバレーの地に少しの貯金以外は何もない状態で乗り込みます。仕事も、住む場所も、車もありませんでした。
2月にシリコンバレー引っ越したのですが、時間だけはあったので、まずは時間を楽しもうということで、スキーに出かけます。その時にスキー教室で出会ったインド人の女性が働いていた会社で私は仕事をすることになりました。
その会社はコンピューターサイエンスの教授が始めたスタートアップで当時流行りの技術、オブジェクト指向技術を使ったソフトウエアが会社の主力製品でした。そこで私はマーケティングを任されます。周りはコンピュータサイエンスの修士号や博士号を持ったエンジニアばかりの会社でした。
この会社で私はマーケティング部を作り上げ、とんとん拍子に出世します。あっという間にディレクターの役職をもらい部下が多い時で6人いました。お給料も4年間で60%ほど上がりました。
そして私は疑問を抱き始めます。
私が10代の時に立てた問いの答えは、これだったのか?
リベンジが答えだったのか?
コンピュータもやっつけた。
成功して世間もやっつけた。
マーケティングもディレクターにまでなりものにした。
これが答えだったのか?
いや、違うな。
続きは次回に。