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#12 職場復帰
のんびり自宅療養後、徐々に職場復帰へ。私の中の譲れない女、ガンコちゃんが大暴れしてカオスに。
退院し、年を越して、外来で理学療法のセラピーを受けながら、1ヶ月半ほど自宅で療養した後、少しずつ仕事に復帰することになった。
週に2回、半日だけ出社することから始めたが、最初はバスに乗って通勤するだけでぐったりした。
体力が落ちていると言うより、とにかく頭を使うことで疲れるのだ。
歩く、バスに乗る、コンピューターを使うなど、健康なら意識などせずやっているなんてことない動きも、頭をフル回転させてやっている感じがした。
同僚からお見舞いの言葉をかけてもらい、ご迷惑をおかけしましたと挨拶し、取引先に少しずつ復帰することを報告するだけで、最初の週は終わってしまった。
翌週は半日を週に3日、その次の週は毎日半日ずつ、と毎週勤務時間を増やしていった。
今考えると、もっとゆっくりやるべきだった。あまりに前のめりに突っ走り過ぎて、後が困ったからだ。
だけどその時は、様々な要因で保険がおりず、収入がない私は少ない貯金を切り崩していたので、生活を支えるために一日でも早く仕事に完全に復帰したかった。
脳出血で倒れる数ヶ月前に、長年かかってやっとカナダの永住権を取得したのと同時にようやく手に入れた中古車のローンもあった。
医療費はすべて健康保険でカバーされるし、問題は生活費と車のローンだけだ。
家族を含め、誰かに経済的に頼る気はさらさらなく、両親からの援助の申し出も断った。
これしきのことで経済的自立を手放すなんて、どんなに短期間であれ考えられなかった。
私の中でガンコちゃんが猛威を振るっている。
それでも長い長い口論の末、オットが車のローンを立て替えてくれることになった。
有難いことだけど、私にとっては苦渋の選択だったので、仕事に完全復帰すると、返済分を毎月少しずつ貯めていった。
一年ほど経ってようやくまとまって、いざ返そうとした時、
「可愛げなくぼーんと耳を揃えて返すんじゃないよ。人の好意に甘えることができるのも人間の幅だ」
と母にたしなめられた。
自立しろと育てたのは私だけど、やり方を間違ったかも、とまで言い出す。
えー!今さらそんなこと言われても。こちとら返したくて一年間もうずうずしてるんですよ。
それに可愛げがないのは今に始まったことじゃないし。
だけどいざオットに返そうとすると、
「それはあげたお金だから」
と言う。
はい?話が違うよね?借りたんですよね?
何がなんでも返したい私と、何がなんでも受け取らないオット。
泣こうがわめこうが、ついに受け取ってもらえなかったが、結婚して財布が一緒になった今でも、この時の借金はそのまま私の銀行口座に手をつけないで眠っていて、ガンコちゃんはいまだに虎視眈々と返すチャンスを狙っている。
人間の幅が狭くて結構。
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徐々に仕事に復帰し始めた頃にはだいぶしっかりと歩けるようになってきていた。
階段は昇る方がずっと楽で、降りる方が難しく、ロボットみたいな動きだったが、それでも以前よりかなりスムーズだ。
妹と私は、日本の家族や友達にどれだけ回復したかを見せるために動画を撮った。
車椅子の状態から見ている妹や、トモ、セシ、オットや私にとっては、かなりの回復ぶりなのだが、一番ひどい時の私を見たことがない日本の家族や友達は、私がただ普通に歩いて、普通に階段を昇り降りして、普通に運転する姿を見て、きっとポカンとしたに違いない。
こうして当時を振り返って書いているのを読んで、日本の友達はみんな口を揃えて、こんなに大変だったなんて知らなかったと言う。
そりゃそうだ。私がきちんと言わなかったのだ。
そして、やがて日本に帰れるようになる頃には、もはや外から見たら、本当に歩けなかったほど悪かったとは思えないほどに回復していたから、彼らには私は何一つ変わってないように思えただろう。
なぜきちんと言わなかったのか。一番の理由はまず、遠くの彼らにできるだけ心配をかけたくなかったからだ。
二番目は、まだ脳出血の経験が生々しくて、冷静に説明できる自信がなかったことだ。
人生を変えてしまうほどの大きな出来事を説明する時、感情的になりすぎては、伝えたいことの半分も伝わらないのではないかと思っていた。そして伝わらなかった時の、こちらのダメージも大きい。
感情的にならずに説明するには、短く簡潔である必要があった。同時に例のガンコちゃんが現れて、私は大丈夫でございますと、余計なことを言う。
11年経った今になってようやくその呪いが解け、こうして当時を振り返っても、当時の感情の揺れでさえも少し距離を置いて客観的に書くことができる。
だから、知らなかったと申し訳なさそうに言う彼らは何ひとつ悪くない。私が最低限のことしか言わなかったのだ。
この頑固さを、最初こそ回復へのモチベーションに変換できたが、いい塩梅が分からないということが後々問題になってくることを、この頃の私はまだ知らなかった。
(#13へ続く)