喧嘩上等年越しスイッチ
夜明け前だった。雨も降っていた。そして私はとても疲れていた。
毎日嫌な夢を見て1時間おきぐらいに目が覚める。眠った気になれない。
週末には必ずと言っていいほど体の具合が悪くなる。頭痛がずっと続いていた。
10分でも15分でも早く職場に行かないと、仕事が終わらない、という強迫観念に囚われて追い詰められていた。だから高い駐車場代を払ってでも車で出勤することが多くなっていた。
その日も車で職場に向かった。何でそうなったのか、まったく覚えていない。けど、気づいたら私は一方通行を逆走していた。
まずい、と思った時にはもう遅かった。どこにも逃げ場はない。
頭が真っ白になって身体が固まったその時、向こうから来るトラックが止まり、運転手が外に出て、向かってくる4車線分の車を止めて私をそこから抜け出させてくれた。まるで映画の中でスーパーヒーローが空から飛んできて助けてくれたかのようだった。
たった5秒ほどのことで、誰もイラついてクラクションを鳴らす暇も、そのトラックの運転手さんにお礼を言う暇もなく、私は奇跡的にその場を切り抜けた。
ようやく安全な場所に移動した途端、私は父に「何やってんだ!」と怒鳴られたような気がして、身体がぎゅっと縮こまった。
その日は父の命日だった。
駐車場に着いて車を停めた途端に身体の力が抜けて涙が溢れてきた。ほんと、何やってんだろう。あちらやこちらで拾った命、たかが仕事なんかのために無駄にするところだった。
その日のうちに同僚二人に辞意を伝えた。正式に辞表を出す前に彼女たちには先に言っておきたかった。
疲れてるなら少し休んだら?とか、感情的になっていないかとか、もう一度考え直してみてとかそんなようなことを言われた。
でも決して感情的な決断ではない。前々からうっすら思ってたことだ。表面張力でどうにか保ってたコップの水が、その朝の一件でついに溢れただけなのだ。溢れてしまったら最後、もうその水は元に戻らない。
同僚の期待を裏切ったように感じ、私の力不足だったのかも、我慢が足りなかったのかも、と負け犬のような気持ちになる。
今年、自分の誕生日に10年働いた会社をレイオフされた。
病気で倒れてから大好きだった旅行業界を離れ、途方に暮れていた私を拾ってくれた会社だ。そこで受付として働きながら学校に通わせてもらい、パラリーガルとして育ててもらった思い入れのある会社だった。
だけどオーナーが変わり、会社の方針が変わり、大勢がレイオフされた。私もその一人だった。
何も悪いことはしてない。大量に人が切られて会社に残ったとしても地獄だろう。それでも私の自尊心はバッキバキに折れた。
2ヶ月してようやく、法律事務所で次の仕事が見つかった。一般企業の法務部育ちの私にはきっと合わないから、やめた方がいいんじゃないかと周りはみんな言っていた。
でも合うか合わないか、私は自分の目で確かめたかった。だから一年のプロジェクトの仕事は、試すのにちょうどいいと思った。
何より早く仕事に就きたかった。
確かに法律事務所は今までとまったく違う世界だった。それでも目の前の仕事を精一杯やった。
だけど私はお粗末なマネージメントに振り回され続けた。コロコロと目標設定が変えられて、私はいつまで経っても何の達成感も得られず、役立たずのような気になった。やってもやっても仕事が終わらない。
父の命日のその日、私は日本にいるはずだった。だけど先行きが定まらない状況の中、休みも帰国も諦めた。その代わりに私は大事故を起こしかけた。ギリギリのコップから水が溢れるには十分だった。
それでも仕事を全うできなかったことで、私の自尊心は見るも無惨に粉々に砕けてしまった。
どんなことでも途中でやめるということが嫌なのだ。
そんな私の性格を知っている友達は、やれやれと思いながらもよしよしと慰めてくれるし、夫は健康を害してまでやる仕事などないから明日にでも辞めたらいいと言う。
妹もいいからとっとと辞めちまえと言うし、母に至っては、権威を嫌うのは昔からじゃないかと笑う。どうやら権威とは弁護士たちのことで、私が彼らに反発して辞めるのだと思っているみたいだ。
いやそういうことじゃないんだけどと言いかけたら、まあ報酬とその他を天秤にかけて決めたんでしょ、と言ってさっさと話題を自分の旅行のことに切り替えた。
要するに、他の誰にとってもそんなに大したことじゃないのだ。
それなのに私だけがこだわっている。勝手に自分を負け犬だと言って自分で自分を殴るようなまねをしている。なんなんだ、この喧嘩腰。
私が本当にやめるべきなのは、喧嘩上等とばかりに自分に絡みまくるこの態度なのだ。分かっている。分かっているけどなかなかやめられない。
そんな風に仕事に関しては玉砕続きで、自分に対する態度も改められず、業の深さが強調された一年だったけど、いよいよ年を越すとなると不思議なもので気持ちがリセットされる気がする。
泣こうがわめこうが今年が終わる。
砕けてバラバラになったものであろうと、まったく違う別の何かであろうと、また新たに積み上げていけばいいじゃないかとようやく思えてきた。
年越しという切り替えスイッチがあるなら、来年もまた一年なんとかやって行けそうな気がする。
そしてできるだけ自分と喧嘩せずに、来年の今頃にはせめて一年お疲れさまと労えるくらいには自分に優しくなろう。