Flying Solo (前橋編)
母の実家はお寺で、群馬県前橋市にある。
子供の頃は忙しいお彼岸やお盆などの時には必ず行って、お線香や供花を売る手伝いをしていたし、大人になってからも、毎年年末年始には除夜の鐘をつきに集まる人たちの対応をしていた。
私たちの結婚式もここで叔父と従弟に挙げてもらった。色んなことが普通にできない家族なので、てんやわんやの大騒ぎだったけれど、境内の桜が風に舞って、まるで亡くなった祖父母も叔父も、紙吹雪でお祝いしてくれているような日だった。
今は叔父と叔母しかいなくなってずいぶん寂しくなったが、帰国した時には訪ねるようにしている。
関越自動車道で向かう。高速を降りる手前までは私が運転する。左側通行は怖くはないけれど、必ずワイパーとウインカーを間違える。
サービスエリアで軽く休憩して、妹と運転を交代した。
母が地元の友達に用があると言うので、お昼を市内中心街にある洋食屋で食べることにした。
中心街と言っても、アーケードはもはや寂しいシャッター街で、私が小さかった頃の面影は全くない。
時々唐突に小洒落たカフェやレストランがぽつりとあったりして、それがまた一層寂しさを助長して見える。
県庁所在地の前橋よりも、新幹線の通っている高崎の方がずっと栄えているのだ。
地方にはこういう場所がたくさんあるんだろうな。もったいない。どうしたら再活性化させられるんだろうとあれこれ考えてみたけど、何が正解なのか分からなかった。
ひろゆき氏や成田悠輔氏なども訪れたことがあるというその洋食屋は母の友人のお店で、シャッター街のそこだけが賑わっているのは、そんな有名人も来たことがあるからと言うよりは、地元の人たちに昔から親しまれているからという感じがした。
母が友達と昔話で盛り上がっている間、妹は日替わりランチを、私は上州名物の豚肉が乗ったナポリタンを食べる。懐かしい味がする。
母はいずれ前橋に戻って、友達と一緒に独立型・マンションスタイルのケアホームに入ってもいいと思っているらしいが、今のところは幸いまだ体も自由に動くし、慣れ親しんだ東京で美味しいものや美術館や劇場に囲まれて暮らして、たまに好きな時に地元に帰ってくるぐらいがちょうどいいみたいだ。
けど、地元の友達にはいつ戻ってくるのかと、帰るたびに聞かれている。まあどっちの気持ちもわかる。
来月飲み会するよと誘われて、あー行く行く!と母が答えている。忙しそうだ。楽しそうでいいけども。
着くとまず本堂とお墓にお参りに行く。父方の祖父母と、父の継父、父がひとつのお墓に、母方の祖父母と叔父はその近くのお墓に眠っている。何だかあちら側の方がだんだん賑やかになってきている。みんなで楽しくやっている姿を想像してみた。
現住職の叔父には小さい頃から本当に可愛がってもらっている。ちょうど叔母と結婚する頃、夏休みに妹と私をサファリパークに連れて行ってくれたのだが、よりによってライオンのエリアで車がオーバーヒートして止まってしまったことがあった。暑いのに助けが来るまで窓も開けられず、ひどい目にあった。後にも先にもあんなに汗をかいたことはない。思い出してみんなでまた笑った。
綿々と続く日々の中、数々の小さな思い出を共有し、繰り返し反芻していくことで、私たちは関係を深めていくのかも知れない。家族でも、親族でも、友達でも。
従弟夫妻も一歳の子供とラブラドールを連れてやって来て、賑やかな夜だった。叔母の漬物がしみじみ美味しい。
お寺の子に生まれた従弟の子は、いずれ跡を継ぐかどうかという問題にぶつかるだろう。祖父も叔父も従弟もみんな向き合ってきた問題だからこそ、叔父も従弟も、家族の誰もが継ぎたくなければ継がなくていいと本気で思っているけれど、本人はプレッシャーを感じるかも知れない。その時には全力でそれを取り除いてやろうと思う。
オットが好きだからと、翌朝帰り際に叔母が手作りの梅干しを持たせてくれた。叔母の梅干しが世界一だと思っているオットの喜ぶ顔が目に浮かぶ。
高速の入口付近に、長野で展開しているTSURUYAという食料品店ができたというので、帰りがてら寄ってみた。
店内の案内には、今後もどんどん群馬県内に店舗展開していくと書いてあった。やばいぞ群馬県。長野にじわじわ侵入されてきているぞ。
それにしても長野にはお味噌、お蕎麦、野沢菜、おやきなど、美味しいものがたくさんある。
次はオットと一緒に来よう。お墓に一緒にお参りして、子供と犬と遊んで、みんなで美味しいもの食べて、思い出を共有して、笑って、家族になっていくんだ。
(続く)