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#9 妹と弟
もし、私の話が誰かの記憶のどこかに少しでも残ったなら、私もいつかどこかで誰かの力になれるかも知れない、という思いで、病気のこと、回復の過程のこと、あの頃思ったことなど、少しずつ書くことにしました。もしご興味があればのぞいてみて下さい。そして私が今振り返って笑っちゃうことを、一緒に笑って頂けたら嬉しいです。
第一のゴールが無事達成されたので、私のリハビリは次の段階へ進んだ。
仕事が主にコンピューターを使ったオフィスワークと聞き、作業療法士のトムは、私にタイピングの練習をさせ始めた。
左手が思うように動かない。特に小指に力が入らない。今までこんなに小指を使ってタイプしていたのか。
完全に甘く見ていた。恐るべし小指。
小指の代わりに他の指を使いたい。何なら全部人差し指で打ったほうが早いんじゃなかろうか。でもここが我慢のしどころだ。
変な癖をつけてはいけないと、トムが横で見張っている。
だいぶ歩けるようになってきてはいたが、まだバランスが悪くフラフラする。
鬼軍曹でおなじみの理学療法士のショーンは、バランスボールを半分に切ったような代物の上に私を立たせたり、平均台のようなものの上で後ろ向きに歩かせたり、厳しさがさらに増してきた。
バランス感覚を取り戻すには、太極拳がいいとすすめられ、週に2回ほどクラスに参加した。
動きが緩やかなので楽なのかと思いきや、実はゆっくりな動きのほうがコントロールが難しい。
震えたり揺れたりせずに手足を動かすのは、神業のような脳細胞の働きが必要なのだ。
頭の中のおじさんたちも大忙しだ。
*******
12月に入って、いよいよあと数週間で退院できる目処がたった頃、退院後の私の身の回りの世話をするために、妹が一旦仕事を辞めて、またバンクーバーにやってきた。
外出許可を取って、オットと共に空港に迎えに行った。
妹が最後に私を見たのは、まだICUにいる頃で、ブカブカの病院着を着てハイキングブーツを履き、オバケのように真っ白な顔で車椅子に倒れ込む姿だったので、歩行器を使いながら到着ロビーで待つ私を見て、
「えっ!」
と目を丸くした。
その日から妹は私の家に寝泊まりして、毎日病院に来ては、なぜか私と一緒にすべてのリハビリに参加した。
キミはやる必要ないんじゃないかい、と言っても、いやいや全面的に参加する方向で、と言って聞かなかった。
リハビリには任天堂のWiiも使われることがあり、その時には彼女はことさら張り切った。
車の運転を再開させるためには、動体視力や運動能力、マルチタスク能力や、瞬時の判断力などテストし、医師が許可を出さなければならない。
トレーニングやテストには、ゲームセンターに置いてあるビデオゲームのような、なんとも言えない機械が使われたが、妹はここでも張り切って、私と張り合った。
バランスを保つ訓練のために、歩行器なしで歩く私を、後ろから鬼軍曹が軽くつき飛ばす。
アシスタントの女性が申し訳なさそうに、
「バランス感覚のためのトレーニングだから」
と説明している横で、妹はゲラゲラ笑っている。
鬼軍曹と妹は完全にグルだ。
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ある日、私の病室の向かいに、トレバーという20代前半ぐらいの男の子が入院してきた。
ドラッグなのか、アルコールなのか、あるいは自らの命を絶とうとしたのか、橋の上から海に飛び込んで、脳を損傷して、5歳児みたいになってしまっていた。
病院中に “トレバー ➡” という張り紙がされていた。それがないと自分の病室がどこか思い出せず、戻れなかったからだ。
それなのに、どういうわけか私の名前はきちんと覚えていて、会うたびに私を指さして「な・お・こ」と呼ぶ。
一度紹介しただけなのに、妹の名前までちゃんと覚えていた。
自分の部屋への帰り方は忘れてしまうのに、知り合って間もない日本人の姉妹の名前は忘れない。
つくづく脳は不思議だと思う。
トレバーはなぜか私にとても懐いて、毎日のように、紅茶が飲みたいと私の病室に言いに来た。
そのたびに一緒に給湯室に行き、紅茶を淹れてあげると、嬉しそうに飲んだ。小さい弟の面倒を見ているようだった。
ある時、トレバーの病室から男性の怒鳴り声が聞こえてきた。彼の父親のようだった。内容はよく聞こえないが、どうやら色々な事がすんなりできないトレバーが叱られているようだった。
胸がぎゅっとなった。
それからしばらくして、退院したのか、転院したのか、トレバーはいなくなった。
どうしているだろうとずっと思っていたら、数年後、トモがスーパーで見かけたと言っていた。
元気でいてくれたらそれでいい。願わくば幸せでいてくれたらもっといい。
トレバーも、ゲイカップルも、カフェテリアの仲間たちも、病院で出会った皆に対して等しくそう思う。
(#10へ続く)