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#2 人生最高のチキンサンド

もし、私の話が誰かの記憶のどこかに少しでも残ったなら、いつかどこかで誰かの力になれるかも知れない、という思いで、病気のこと、回復の過程のこと、あの頃思ったことなど、少しずつ書くことにしたら、頭の中で起こっていたことが、結構面白かったことに気づきました。私と一緒に面白がって頂けたら嬉しいです。

命には別状がないことが分かったので、病院に運ばれた翌日から、私にどの程度障害が出ているのか確認が始まった。

自分の名前を言えますか?(クボナオコと申します)

今どこにいるかわかりますか?(病院です)

この指は何本見えますか?(3本です)

今日は何曜日ですか?(またその質問?イラッ。えーと月曜日です)

痺れはありますか?(全体的に左半身がピリピリしています。あ、顔もです)

両腕を上げてください。(あれ、左が上まであがらない。ていうかどんどん下がります)

足の裏を押すので力に逆らってください。(いや、全く力が入りません)

両手の甲を触られて、同じように感じますか?(何これ、左手私のものじゃないみたい)

時々ぼけーっとする程度で、視覚、話すこと、認知機能には格別問題がなかったが、左半身が麻痺しているのは明らかだった。

麻痺はリハビリである程度回復すると思います、でもどの程度回復するかはわかりません、と医師が言う。

じゃあリハビリ次第ってことね。はい、分かりました。幸い利き手じゃない方だしね。

こういう時の私は、ひどく淡々としている。

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オットは何とか私から日本にいる家族やバンクーバーの友達、職場の連絡先を聞き出して、病院に運ばれた夜から各所に連絡を取り始めた。

家族への連絡には特に気を遣ったようだった。

いきなりメールで知らせては、かえって不安にさせるからと、妹から電話をかけてもらい直接話して説明した。

どっちにしろ妹はそれはそれは驚いただろうし、もちろん不安だったとは思うけど、オットの声のトーンで、とにかく生死にはかかわらないことは伝わったようだ。

妹から聞いて、両親はびっくりするだろうな。そして遠く離れて様子が見えない分、きっと余計に心配するだろう。親不孝でごめん。

友達のトモに伝えるときには、特に気を付けてね。彼女のお母さんも脳卒中で倒れてしまったから、脳卒中という言葉に彼女はとても敏感なはずだから。そうオットに念を押す。

職場にはしばらく戻れないだろうから、きっと同僚のみんなには負担をかけることになるな。申し訳ない。

オットだって、昨日の昼間までまったく普通にしていた私が急に倒れて、重病人みたいにICUのベッドでいろんな管につながれているのを見て、きっといきなり嵐の中に放り込まれたみたいに頭がぐるぐるしているだろう。

アドレナリンが出すぎてどうかなっちゃうんじゃなかろうか。

こんな時なのに周りの人のことばかり気にかかる。

だけど考えてみると、左半身が切り取られて、誰か別人のものをそこにいきなりくっつけられたような、そんな非現実的で心もとない感覚の中で、他の人のことを心配することで、自分がまだ自分であることを必死に確認しようとしていたのかも知れない。

気づいたらもう24時間以上何も口にしていない。こんな時でもお腹は空くんだ。

出されたチキンサラダサンドイッチは、普段なら丁重にお断りするような代物。なのに、この世のものではないというぐらい美味しく感じて、オットと看護師さんにこれは世界一のサンドイッチだと嬉々として訴え、もりもりあっという間にたいらげて、二人を唖然とさせた。

だけどそれからしばらくは、固形物が一切喉を通らなくなった。

血圧が天井を突き抜けるほど上がって脳出血を起こした体は、その非常事態に対して、よーしやってやんよ、と拳を握りしめて臨戦態勢に入っている。

それこそアドレナリンがバンバン出て、そうなると血圧も上がる。

それはまずい。


血圧がなかなか下がらないから薬の量がどんどん増えていく。そのせいで凄まじい吐き気に襲われる。もう食べ物を見るのも匂いを嗅ぐのもいやだ。

トモがせっかくお見舞いに持ってきてくれた手編みの毛布の上にも、盛大に吐き散らかした。

それなのに彼女は、何も言わずそれを持って帰って洗ってきてくれる。

看護師さんは、ますます毛布に愛着が沸くわね、と言って笑っているけど、笑い事ではない。むしろ号泣案件である。

今でもあの時のことを思い出すたびに、申し訳なさで気が遠くなる。

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トイレのことはとにかく大問題だった。

絶対安静だし自力で起き上がれないから、ベッドの上で寝たままベッドパンと呼ばれる便器をおしりの下に置かれ、さあ使いなさいと言われる。

もう40年近くも布団の中で用を足してはいけないと思って生きてくると、いきなりさあしなさいと言われても、そんなに簡単にできるものではない。

それに、いくら自分が病人だからといって、他人様に下の世話をして頂くなんて、自立心が人一倍強い39歳の女にはもうこの上もない屈辱だ。

看護師さんにはそんな葛藤にいちいち付き合ってる暇はないから、ベッドパンを置いたら私は放置される。

ぐずぐずいつまでもできないでいると、そんなに出さないなら管を入れますよ、と脅される。それは絶対いやだと、半泣きでどうにかこうにかする。

もう絶対早く自力でトイレに行けるようになってやる、と毎回拳を握りしめて復讐を誓うのだった。

#3へ続く)

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