古賀さんnote記事 2015年2月分(こころの色や音を楽しむ)
古賀史健さんのnote記事研究
今日は2015年2月分の19件。
では今から読み返して、特に好きな記事2件(☆マーク)を選んできます!
【タイトル】
文化としてのコロナビール
『アメリカン・スナイパー』と父殺し
目覚ましの音
スペックとタイトル ☆
きょろきょろの景色
「ある」と「いる」の空間
わたしが、知りたい
ほめる自分と疑う自分
音符のようなことばたち ☆
あのころのおれたち
浴槽のデブ
これが終わったら問題
おとこのグレーゾーン
おれなんかとしゃべっても
がんばるひとへ
鼻先の歌
おなじみの名前
What's your name?
ソングライターの力
この2月はずっと音楽に関する話題が根底にあって、その詩的な力を持つ人たちとしてソングライターがあげられています。
まず『スペックとタイトル』を読んで、この企画(noteの古賀さん記事をまとめただけのお手軽なスペックとタイトル)がなんだか申し訳なくなりました。
というわけで、きのうのぼくがなんの考えもなしに言っちゃった、けれども意外と的を射てるかもしれない仮説について、考えてみたいと思います。
それは「本のタイトルは、もっと詩に寄るべきじゃないのか」というもの。これ、とくにぼくがメインのフィールドとしているビジネス書まわりの話なのですが、とにかく「意味」と「指示」を詰め込みすぎたタイトルが多い気がして、ときどきうんざりしちゃうんですよね。読者に考える余地を残さない、というか。
ビジネス書ではないけれど、この記事のタイトル…まさしく意味しか詰め込んでいない、容れもののタイトルでごめんなさい。
容れもののタイトルもいいんですけど、そこで語られる内容について、詩に寄ったことばで考えてみるというプロセスは、大事なんじゃないのかなあ。まだ自分でも考えのまとまらないまま、こんなことを考えています、のひとつとして書いてみました。
ちょうど、古賀さんのnoteはタイトルだけでも興味深くて、何が書かれているかワクワクするなぁと思っていたところでした。
ただ私の場合、自分のための整理として今の年月を記す方式が便利なんですよね。
なのでこの連載?が続く間は、このままにして、詩に寄ったことばでタイトルを付け直すとしたらなんだろう、ということは心の中で考えていようと思います。
今日だったら何がいいかな?
『noteの街で、古賀さんのこころ集め』
とかどうだろう。
なんだかドラクエウォークで強いこころを集めて歩くみたいに、noteの記事を読み歩いて古賀さんの貴重なこころを集めているみたいに感じたので。
そう考えるとゲームみたいで楽しい!
もうひとつ、素晴らしいタイトルの
『音符のようなことばたち』
「もっと現代詩を読まなきゃいけないよ」と教えてくれたのは、ずいぶん前に取材させていただいた日本語学者、金田一秀穂先生でした。金田一先生は詩人について「その言語のもつ可能性の、いちばん先に立とうとするひと」と定義されていて、「そこに言語があるかぎり、詩人がいなくちゃいけない」ともおっしゃっていました。ある映画を引き合いに出しながら「詩人のいない国は、国じゃない」とも。
私は歌の歌詞くらいしか、詩らしい詩を読んたことがないので反省です。
けれど、〝意味〟から遠く離れたことばたちが音符のように連なったとき、そこにメロディが生まれる。なにを語っているでもない、なにかに役立つでもない「色」や「感じ」が、こころに残される。
古賀さんの記事から意味を集めようとしていたけど、「色」や「感じ」にこそ古賀さんのこころはあるのかもしれない。
〝意味〟から切り離されたところに詩はあるのだろうし、だからこそ詩は本質的に「翻訳しえないもの」なのだと思います。
ぼくももっと〝意味〟から自由になれる強さ、持たなきゃですね。
意味から自由になれる強さ…!
それはまさに嫌われる勇気…?
いや、違ったかな。確か、嫌われる勇気とは自由であるということ、それは意味や承認欲求からの解放でもあった覚えが…。『嫌われる勇気』も読み直さなくては。
私ももっと意味から自由に、感じるように、遊ぶように、古賀さんの記事を読み、古賀さんのこころの色や音を楽しもう。
以前読んだ時には、それこそ音楽のように…さらっと流してしまっていたので、もう一度読み返して心に刻めてよかったです。
さて、今日のクエストはクリア!
ゲームみたいに早く先に進めたい〜
けど明日の楽しみにしたいと思います。
ではでは。今日はこのくらいで。
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