佐渡島さんnote記事 2020年11月分(とは思考で自問自答する)
佐渡島庸平さん記事研究
今日は2020年11月分です。
さっそく記事を読んできます!
(→の部分は引用メモです)
【2020年11月】
「もう、おっさんだからさぁ」って僕が言う理由
→40を超えた僕は、情熱を「外」に出すのではなく「内」にとどめ、人と接する方法を学ぶのがいいのではないか
→そのような思考が「ケア」や「聴く」について考えることに繋がってきている
世界に驚きを生み出す、「とは」思考でいこう【恥からはじまる「感情」論考 #5】
→「では」情報は、実用書やビジネス書向きだけれど、その文章を読んだ瞬間に消費してしまう
→マンガや小説でやろうとしているのは、常に「とは」を問いかける行為
→「とは」で物事を捉えると、驚きや発見に繋がっていく
神様にフェイントをかけてみる!
→自分の知らない「己を知る」一番の近道が、他人からのアドバイスに素直に乗っかってみること
→神様にフェイントをかけると思うと、挑戦が、いたずらになってきて、気軽に始められる
お金を何に支払ってもらうのが幸せか?
→技術をどう売り出していくかを考えるより、好きのおすそ分けだけで生きていけるような状態を、どうやったら築けるか
どれも中途半端はダメじゃない!若新雄純さんに聞く、人生を面白くする“掛け合わせ”の考え
→自分の中に「これだ」っていうひとつの答えを探すことは、青い鳥を探すみたいな行為
正解主義の「では」派と、なぜなぜ主義の「とは」派
→「とは」の問いに正解はない。正解がなくて、その人らしさがあるだけ
→マンガをしっかりと描き続けていれば、絵は必ず上手くなっていく。だから、絵ではなく、自分の感情をしっかりと伝えることにこだわる新人が成長する
以上です。この2つの記事を読みながら、私は「では」派かな?「とは」派かな?いや…どちらでもないなと考えていました。
「では」は知識の披露、「とは」は自問自答の発露って感じだと思うのですが…
「では」で説明できるほどの自信もないし、「とは」と思考し続けるほどの根気もない、私はただ好きな空想の世界に閉じこもって楽をしてきただけな気がします。
この年までそういうふうに生きてきたから、社会人としての経験の積み重ねはもう取り戻せないかもしれないけど、その一方で、空想の世界の住人として体験してきた別の何かはきっと積み重なっているはず…
それを発揮するためにもこれからの自問自答が大事なので、反省もほどほどに今後は普段の思考時はもちろんnoteを書くときにも「とは」を意識したいと思います。
その手始めに、私にとってnoteとは、と問うとしたら、最初は文章修業の場所として始めたんですが、これからは自問自答するための場所にしたいです!
そういえば昨年、古賀さんのnoteを読んで、投稿をただの1000本ノックと考えるのではなく1000回の自問自答にしようと決意していたことを思い出しました。
いくら記事から学んでも、忘れて実行できていなかったら意味ないですよね…
でも私にしては、元旦から25日連続で投稿できているのは頑張ってるかと!
このまま1000日連続投稿できるように、noteの街のシムシティを楽しみます。
今はこの街のなかで佐渡島さんエリアを作っているというゲーム感覚なのです。笑
では今日はこのくらいで。
ありがとうございました!
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