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村山由佳『風よ あらしよ』と女性解放思想【高校日本史を学び直しながら文学を読む7】

 前回、「北村透谷と自由民権運動」を書いて、次は「森鷗外と日清戦争・台湾征服戦争・日露戦争」「夏目漱石と日露戦争後のアジア」というテーマで取り組んでみようと考えていました。時代順に発表した方が、つながりを理解しやすくてよいかなと思ったのです。しかし、今回はその予定を変更して、「村山由佳『風よ あらしよ』と女性解放思想」にします。映画の公開にあわせた、という理由が大きいです。村山由佳の『風よ あらしよ』は2022年、NHKのBSプレミアムドラマ枠で放送されましたが、映画化が決定し、2024年2月9日から公開されます。主人公の伊藤野枝を演じる俳優は吉高由里子さんです。NHK大河ドラマ「光る君へ」で主人公の紫式部を演じている俳優が、映画で伊藤野枝を演じることになります。伊藤野枝という人物がここまで大きく扱われることについて、僕はかなり気持ちが高揚しています。
 伊藤野枝を扱った作品で有名なものとして、村山由佳の作品以前に、瀬戸内寂聴『美は乱調にあり』『諧調は偽りなり(上・下)』と、栗原康『村に火をつけ、白痴になれ』があり、これらすべてが僕の好きな作品です。ただ、瀬戸内寂聴の作品は、作者の強い思いからか、作者本人が作品中に顔を出してきますし、栗原康の文章は「伊藤野枝を語る栗原康」という性格のものです。どちらの作品も、それが魅力になっていると言えるのですが、今回は、評伝小説に徹したことを尊重して村山由佳の作品を選択します。
 まず、女性解放思想について高校日本史の講義を紹介し、そのあと村山由佳の作品に触れていきましょう。


 富国強兵を掲げた明治の近代化政策において、家父長的な家族制度が社会の基盤に据えられていました。1889年に公布された衆議院議員選挙法で、女性は選挙権・被選挙権から排除されています。1898年に公布された民法では、戸主を家長とした家制度が確立しています。市民としての権利は家長である夫に集中し、妻に相続権はなく、妻の財産は夫が管理し、子の親権は父にある、と定められていました。

 日露戦争後、義務教育期間が4年から6年に延長され、小学校の就学率も高まっていました。1911年には就学率が98%に達しています。小学校では、生活を時間で管理するとともに、「国語」教育、つまり標準語の指導がおこなわれ、国民国家の構成員である「国民」を育成することが意識されていました。子どもは教育を受け、母親は家庭を守り、文化的家庭生活を実現するという希望を抱く人が多くなりますが、それにより多くの女性の働く場は家庭内に限られ、「良妻賢母」として生きることを求められるという抑圧が発生しています。良妻賢母とは、女性を「妻」として私的な領域にとどめおき、「母」として国民を生み育てることで国家につながるという社会規範です。

 1911年、坪内逍遥の率いる文芸協会が、ノルウェーの劇作家イプセンの『人形の家』を上演し、大きな社会的反響を呼び起こしました。良妻賢母を女子教育の指標とした時代のもと、家庭内で不自由なく暮らしているかのようにみえた主人公のノラが、自分は夫から一人の人間として対等に見られていないことに気づいて家を出る、というストーリーです。ノラを演じた松井須磨子には熱狂的な人気が集まりました。良妻賢母であることを女性に強いる社会の矛盾に、多くの人が気づきはじめていたことのあらわれでしょう。『人形の家』と松井須磨子のこのような歴史を知っているからこそ、現代の著名な俳優が伊藤野枝を演じる映画が公開されることで僕の気持ちが高揚しているのだと思います。

 明治から大正へと改元される前年の1911年、文芸誌『青鞜』が創刊されました。『青鞜』の中心人物は平塚明(はる)、筆名はらいてうでした。当時25歳の平塚らいてうは、日本女子大学校を卒業していますが、在学中から良妻賢母教育に反発し、自我の解放を模索していました。青鞜社の発起人は、平塚らいてう、保持研、中野初、木内錠、物集和子の5人であり、物集以外は日本女子大学校の卒業生でした。賛助員として、すでに文学者・言論人としての地位を築いていた与謝野晶子らが名を連ねています。後に、神近市子・伊藤野枝らも社員になります。
 『青鞜』創刊号には平塚らいてうの評論が掲載されました。書き出しの部分を引用します。

  元始、女性は実に太陽であった。真正の人で
  あった。今、女性は月である。他に依って生
  き、他の光によって輝く、病人のような蒼白
  い顔の月である。

 女性に良妻賢母を強いる男性中心社会に対峙し、女性の主は男性ではなく自分自身であると認識する思想により、『青鞜』の始まりが宣言されました。
 また、創刊号には与謝野晶子の詩「そぞろごと」が掲載されています。一部を引用します。

  一人称にてのみ物書かばや。
  われは女ぞ。
  一人称にてのみ物書かばや。
  われは。われは。

 与謝野は賛助員として『青鞜』の創刊を称えつつ、女性の主体性を力強く表現していました。
 一方で、当時のジャーナリズムは、『青鞜』に集う女性たちを嘲笑し、「新しい女」などと揶揄しました。「新しい女」は社会規範から逸脱した自分勝手な女、というイメージが定着し、『青鞜』を購読した人が教職を追われるなどの社会的制裁まで実際におこなわれました。しかし、らいてうは『中央公論』であえて「私は新しい女である」と宣言します。らいてうは、男性の便宜のための価値観や制度を破壊しようと願う者として、男性側の言う「新しい女」を再定義して、批判的な概念につくり変えてしまったのです。また、1913年の『青鞜』4月号では「現行の結婚制度には全然服することができない」と主張しています。こうしたらいてうの主張は、男性中心の家制度を基盤とする国家体制そのものを揺るがす考え方であり、政府は『青鞜』4月号を発禁処分としました。

 1913〜14年、『青鞜』にとっても、らいてう個人にとっても転機が訪れます。らいてうは5歳下の奥村博との愛情を深め、パートナーとして共に歩むことを決めました。しかし、奥村には経済力・生活能力がないため、らいてうの負担は大きなものでした。また、青鞜社の縁の下の力持ちとして実務面で力を発揮していた保持研が運営上の心労からか体調を崩し、雑用の多くをらいてうが引き受けざるをえない状況になります。『青鞜』の売り上げは落ち込み、らいてうが体調不良に悩まされるようになり、1914年の『青鞜』9月号は初めての欠号となってしまいました。このような状況で、20歳の伊藤野枝は『青鞜』の一切を引き受けたいという内容の手紙をらいてうに送り、らいてうはそれを受け入れました。

 野枝が編集長兼発行人となってから、『青鞜』では性の核心に切り込む論争がいくつか展開されました。ここでは、そのうちの「貞操論争」を紹介します。
 「貞操論争」は、生田花世が「食べることと貞操と」(『反響』)で、女性は貞操よりも食べることの要求が優先される、という趣旨の主張をしたことから始まりました。それに対して、原田皐月は「生きることと貞操と」(『青鞜』)で、女性の貞操というのは尊厳そのものなので、モノのように扱ってはいけないと主張しました。野枝は「貞操に就いての雑感」(『青鞜』)で、新しい問いを突きつけます。そもそも貞操というものは男性のためにつくられた不自然な道徳なのであって、そこに価値があることを前提とする主張に疑問を呈するのです。そして、最後に次のような言葉で締めくくります。

  ああ習俗打破! 習俗打破! それより他に
  は私たちのすくわれる途(みち)はない。呪
  い封じ込まれるいたましい婦人の生活よ! 
  私たちはいつまでもいつまでもじっと耐えて
  はいられない。やがて−、やがて−。

 理論派とは言えないものの、行動と感情が一つになって噴き上げるのが野枝の魅力ですが、この文章は野枝の叫びが、野枝の希求が、結晶となって刻みつけられたと言ってよいのではないでしょうか。
 しかし、『青鞜』は1916年2月号を最後に無期休刊となります。責任者の野枝が『青鞜』の仕事をおきすて、無政府主義者の大杉栄のもとに走ったのです。

 大正時代は、女性の労働人口が急増した時代でした。日露戦争後の資本主義の発展、第一次世界大戦期の大戦景気によって、女性労働者の需要が増大しました。事務員、タイピスト、電話交換手などの職種に就いた女性たちは職業婦人と呼ばれるようになり、その多くが高等女学校などを卒業してから結婚までの間働くようになります。
 1916年、職業婦人の台頭を背景に、中央公論社が月刊誌『婦人公論』を発刊します。その後、1918年から1919年までに『婦人公論』などの雑誌を中心に、「母性保護論争」と呼ばれる論争が生じました。与謝野晶子による平塚らいてうへの批判から始まり、らいてうによる反論と与謝野による応答が続き、ここに山田わか、山川菊栄らが加わり、新聞にもさまざまな投書が寄せられています。
 まず与謝野は、スウェーデンの社会思想家・教育学者であるエレン=ケイらによる母性保護の主張と、その影響下にある人々を批判し、その批判対象にはらいてうも含まれていました。与謝野は、国家を変えることばかりではなく、個々の女性を目覚めさせ、社会に参加させ、経済的な稼得によって自立することを促すべきであると主張しました。また、結婚や妊娠、子どもを持つことを個人的生活に属する私的領域とみなして、社会や国家が関わる公的領域から切り離すべきだと主張しています。
 一方、らいてうは、妊娠、分娩、育児期における母子の生活を安定させるために、国庫によって補助する必要があると主張しました。また、家事労働や子育てが経済的・社会的価値のあるものと主張し、母の事業は私的領域ではなく公的領域に属するという認識がらいてうにはあります。
 山川菊栄は、与謝野・平塚論争を社会主義フェミニズムの立場から止揚し、両者の主張にはそれぞれ一面の真理があり互いに矛盾するものではなく、双方共に行われることが好ましいと考えました。

 1920年には平塚らいてう・市川房枝らを中心に、新婦人協会が結成されました。婦人参政権の獲得や、女性の政治集会への参加を禁じた治安警察法第5条の撤廃を目的としています。運動のイデオロギー的側面はらいてうが担い、実務的側面は市川が主導していました。市川は治安警察法第5条改正に重点を置き、1922年には改正が実現しました。らいてうが運動の第一線から退き、市川が渡米したことなどもあり、新婦人協会の運動は次第に頓挫していきますが、婦人参政権獲得への願いが消えたわけではありませんでした。1924年、婦人参政権獲得期成同盟が結成され、滞米生活を終えた市川が会務理事となりました。
 また、母性保護論争の論客の一人であった山川菊栄らは、社会主義の立場からの女性運動団体として赤瀾会を組織しました。
 1931年には条件付きで女性参政権を認める法案が衆議院を通過しましたが、貴族院の反対で成立しませんでした。


 村山由佳の『風よ あらしよ』は伊藤野枝を主人公としています。ここで野枝の簡単な略歴を紹介します。1895年、福岡県の今宿で生まれ、14歳で叔父を頼って上京し、上野高等女学校に編入学しています。この女学校で英語教師の辻潤との出会いがありました。女学校卒業後、故郷で親の決めた相手と結婚させられるのですが、すぐに出奔し、東京で辻と暮らし始めました。辻潤との間には2人の子を授かっています。野枝は17歳のときに平塚らいてうに手紙を出して、『青鞜』へ参加することになり、20歳でらいてうから『青鞜』を引き継ぎ、編集長兼発行人となりました。貞操論争、堕胎論争、売春論争などに加わり、自ら精力的に執筆を続けました。しかし、野枝が辻と別れ、無政府主義者の大杉栄と同棲を始めるようになって、『青鞜』は無期休刊となっています。大杉と野枝は法的な婚姻関係は結ばずにパートナーとしての関係を続け、2人で雑誌『文明批評』を創刊しました。大杉との間には5人の子を授かり、大杉とともに子育てをしながら、無政府主義者として社会の矛盾を描き続けていました。しかし、1923年、関東大震災の混乱の中で野枝、大杉栄、大杉の甥の橘宗一(6歳)が憲兵隊に捕まり、甘粕正彦憲兵大尉らに虐殺されました(甘粕事件)。大杉は38歳、野枝は28歳でした。
 女性解放運動で最も知名度が高い平塚らいてうではなく、野枝が小説の主人公となったのは、野枝が嵐のような人生を駆け抜け、若くして非業の死を遂げたという点が大きいのではないかと思いますが、らいてうが小説やドラマの主人公にしにくい人物という点もあるのではないかと思います。昭和に入ってからのらいてう、特に戦時体制下は描きにくいはずです。らいてうが女性向け月刊リーフレット『輝ク』の1937年11月号によせた「皇軍慰問号を読む」の一部を紹介します。

  事変以来皇軍勇士の心境に神を見、彼等が現
  人神にまします天皇陛下に、帰命し奉ること
  によって、よく生死を超越し、容易なことで
  は到達し得ない宗教的絶対地に、易々として
  はいってゐることにひどく感激してゐたわた
  し

 らいてうが奉じる母性主義が、天皇(近代以降に男性に限定された)を頂点とする、父権中心の家制度に対抗するものとはなっていないことが確認できます。野枝が戦時体制下まで生きていたとしたらどんな発言をしたのか、僕たちはそれを確認することはできません。
 一方、野枝への批判も数多くあります。大杉栄には事実上の妻と言える存在の堀保子がいましたが、1915~16年にかけて神近市子、伊藤野枝とも恋愛関係に入ります。大杉は「一情婦に与えて女房に対する亭主の心情を語る文」(『女の世界』)において、「自由恋愛」という理論を持ち出して自己正当化をはかるのですが、性的自由を行使するのは大杉だけであり、男の身勝手を巧言で言いくるめたにすぎないと言ってよいのではないでしょうか。結局、1916年に葉山の旅館日蔭茶屋で神近市子が大杉を刃物で刺して重傷を負わせ(日蔭茶屋事件)、その後、大杉が堀保子との関係を解消し、大杉が野枝を選ぶかたちで、身勝手な「自由恋愛」は破綻します。この女性3名と男性1名に関する話は、瀬戸内寂聴の小説でも村山由佳の小説でも重要な位置を占めているのですが、かつて「習俗打破!」を唱えていた野枝がなぜ大杉の「一情婦」に甘んじているのかと、落胆する人、批判する人もいるでしょう。ただ、村山由佳はこの部分を上手に描いています。小説の中で野枝は大杉の「自由恋愛」を批判し、次のような言葉を述べます。

  「あなたはずいぶんと簡単に考えておいでの
  ようですけど、多角的な恋愛関係を結ぶとい
  う選択は、ここにいる神近さんにとっても、
  私にとっても、そしてもちろん奥様の保子さ
  んにとっても、大変に重大な問題なんです。
  きっとあなたは痛くも痒くもないんでしょ
  う。ご自分で思いつかれた実験ですし、しょ
  せん真剣ではない片手間の恋愛でしょうか
  ら、いくら世間から後ろ指をさされようと心
  の痛手にはならない。殿方同士の間でもせい
  ぜい、からかわれたり羨ましがられたり、ご
  苦労なことだと冷笑されるだけで済むのかも
  しれません。だけれどね、大杉さん。私たち
  女は満身創痍なんですよ。いやでも世間の目
  にさらされて、破廉恥だ、不道徳だ、無分別
  だ愚かだと散々に誹られる。ふつうに表を歩
  くことさえできなくなる。そういう辛さを、
  男と女の間に横たわる不公平を、ねえ大杉さ
  ん、あなたは一度でもまともに考えたことが
  ありますか。私たち女が生きてゆく上での苦
  しみを、ほんとうに想像してみたことがあり
  ますか。無いでしょう?」

 歴史上の人物のセリフを創作することは歴史学にはできないのですが、村山由佳の小説は、この野枝のセリフがあることによって、より読者を引き込むことに成功していると僕は思います。
 最後にもう一つ、村山由佳の小説の魅力は創作だけではなく、新資料を組み込んだことにあります。2001年に存在が明らかになった資料なので、瀬戸内寂聴の小説には入っていないのですが、これがもう絶対に歴史的事実として残したいと思わせるカッコイイ言葉なのです。1918年、不当逮捕で大杉栄が拘束された際に、野枝が当時の内務大臣である後藤新平に宛てた手紙です。「前おきは省きます 私は一無政府主義者です」という書き出しから始まり、最後は次のような内容です。

   私の尾行巡査はあなたの門の前に震える、
  そしてあなたは私に会うのを恐れる。ちょ
  っと皮肉ですね、
   ねえ、私は今年二十四になったんですか
  ら あなたの娘さんくらいの年でしょう?
   でもあなたよりは私の方がずっと強みを
  もっています。そうして少くともその強み
  は或る場合にはあなたの体中の血を逆行さ
  すくらいのことは出来ますよ、もっと手強
  いことだって−
   あなたは一国の為政者でも私よりは弱い。

 僕はこの文章を読んだときに震えるほど感動したのですが、村山由佳による物語の中でまた出会えて、さらに深くこの言葉を味わうことができました。
 伊藤野枝はその短い人生を駆け抜けながら、逆境に負けず、大きな壁に立ち向かいました。彼女は何に立ち向かっていったのか。そこには僕たちの生活と地続きの部分がたくさん見つかるのではないでしょうか。


主要参考文献

・村山由佳『風よ あらしよ(上・下)』(集英社文庫)
・高校教科書『日本史探究』(実教出版)

・堀場清子編『『青鞜』女性解放論集』(岩波文庫)
・堀場清子『青鞜の時代』(岩波新書)
・らいてう研究会編『『青鞜』人物事典』(大修館書店)
・森まゆみ編『伊藤野枝集』(岩波文庫)
・差波亜紀子『平塚らいてう』(日本史リブレット人 山川出版社)
・鹿野政直『日本の近代思想』(岩波新書)
・筒井清忠編『大正史講義』(ちくま新書)
・山口輝臣・福家崇洋編『思想史講義【大正篇】』(ちくま新書)
・成田龍一『大正デモクラシー』(シリーズ日本近現代史④ 岩波新書)
・瀬戸内寂聴『美は乱調にあり』(岩波現代文庫)
・瀬戸内寂聴『諧調は偽りなり(上・下)』(岩波現代文庫)
・栗原康『村に火をつけ、白地になれ』(岩波現代文庫)

 

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