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今日を生きる〜生きることの意味

毎日生活していると、色々、疲れてくる事もあるでしょう。僕は考えたことがありませんが、死にたいと思ったことがある人もいると思ういます。そんなことを考える人が嫌いです。今日はそんな話です。

生きるということ

先日、こんな話を耳にしました。
『コロナにかかって、他に迷惑かかるから自殺した女性がいた』
僕はとても、憤りを感じました。自分にはまず、『どんなことがあっても、自殺だけはしない』という強い考えがあるからです。

僕は人生で2度、母親を亡くす経験をしました。
1人目は生みの親、2度目は育ての親です。
1人目は自己紹介でも書いた、自分を産んで育ててくれた母親です。
1番死んで欲しくない・最期まで一緒に生きて人生を全うすると思っていた人物の死。喪失感は計り知れないものでした。中学2年生で経験したこの出来事は、『人の死』について考えさせられるものでした。
その後、実の父親の再婚相手である、育ての親と出会い、新しく妹2人できました。突然のことに戸惑いながらも、これは自分の運命なんだ、兄として見本にならなければと、芽生えた気持ちから、新たな生活を始めました。この母親も持病を持っており、体調はすぐれない時期が多く、僕が就職してすぐに入院してしまいました。入院してからは、病状が悪化するのは早く、すぐに車椅子生活になり、話すこともままならなくなりました。1番印象に残っているのは、お見舞いに行った時、食堂に佇んでいて、声をかけると、食事ができずにいたことです。
その時、僕は初めて、母親に食事を食べさせてあげることをしました。このような姿を見たくなかったし、母も見せたくなかったでしょう。
この後、間も無くして母は亡くなりました。

僕には、身近に生きたくても生きることができなかった人がいました。
その死を前にして、この人の分まで生きようと誓いました。
多少辛くても、志半ばで亡くなっていった人の、思いに比べれば大したことはない。
実際、この人たちより遥か昔にも、志半ばで倒れていった人々は、どれくらいいるんだろう。
自分たちは、そんな人々の上に立っているんじゃないか?
それなら、自ら死を選ぶなんて、馬鹿げている。死んでいった人々に失礼だ。

そんな想いで、日々生きています。
だから、辛くても“死“という言葉は、絶対に言いません。

生きる


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