第5話「乙女は月の満ち欠けに護られて」
「あっ、あんまりじろじろ見ないでくださいね」
まだ少し湿った髪で、クラースは言った。
「ああ」
ここはクラースの家。
黄泉蔵を出た俺たちは、風呂屋で軽く汗と汚れを流し、そのままクラースの家にやってきていた。
「今、お茶淹れますね」
「ああ、湯冷めしそうだったからちょうどいいな」
勝手 に消えるクラースを見送ってから、俺はぼーっと部屋を見回した。裕福ではない、普通の村人の民家って感じだ。
クラースの両親はちょうどしばらく家を空けているらしくて、俺は今晩この家に泊まることになった。とりあえず、依頼に関することだから詳しくは言えないが、秘密裏に単独行動をしているということにしてある。でも、そんな嘘、そう長くは持たないだろう。
きっとルクスたちは、俺が事故か何かで死んだことにするはずだ。死んだことになっていた方が、復讐のために暗躍するには好都合だが、俺の顔は有名すぎるから日常生活を送るのは難しくなってしまうだろう。
俺は今後の身の振り方について頭を悩ませる。
「お待たせしました。熱いですから、気をつけてくださいね」
悩んでも答えの出ない俺の前に、唐突に戻って来たクラースがお茶を置く。白い湯気が立ち上る湯呑には、よく見ると小さなヒビがいくつも入っている。
俺は湯呑から視線をそらした。
「……あれ? あれって、俺の本か?」
「あっ!」
クラースが俺の視線の先に走っていき、隠すように本を片す。
「そんな本、素人が読んでどうするんだよ」
クラースが片付けた本は、俺が以前に出していた呪術師向けの専門的な本だった。とてもじゃないが、素人が読んで理解できるようなものじゃない。
「……言ったじゃないですか。私、アモールさんの、贔屓筋だって……」
クラースがこちらを見ずにそう言う。
表情は見えないが、照れているのか? なかなか可愛い……。
「もう少ししたら、夕餉の支度しますね。納豆汁と……、そうだ! ちょっといい梅干しがあるんです! それで大丈夫ですか? 好き嫌いとか、ありますか?」
「う~ん……」
昼間もクラースがくれたぱさぱさの握り飯だけだったから、流石にそれじゃ持たないなと思った俺は、懐に手を入れて金を確認する。これからのことを考えるとあまり贅沢は出来ないが、背に腹は代えられない……。
「いいよ。一息ついたら何か買ってきてくれないか? 金は俺が出すからさ」
「えっ、そういうわけには」
「いいっていいって。黄泉蔵帰りで腹減ってるから、何かガッツリ食いたいんだ。ついでだからクラースの分も俺が出してやるよ。う~ん、そうだなぁ。うな重でも食いたいな。ちょっと色付ければ、どの店でも器貸してくれんだろ」
俺は懐から、うな重を三杯は食えるだろう金を出すと、俺の前に腰を落ちつけていたクラースに渡した。クラースのやわらかい指が俺の指に触れて、俺はドキッとした。今のは、わざと……?
「……やっぱり、有名な黄泉蔵夫さんはすごいですね。こんな大金を、一晩で……」
「大した額じゃないよ」
と強がってはみたものの、今の俺にとっては結構な出費だった。金のことも考えないといけないと思うと、ますます頭が痛い。
「ありがとうございます。急いで買って来ますから、待っててくださいね!」
クラースはそう言うと、金を大切そうに握りしめて立ち上がった。
「わっ!」
突然、クラースが小さな悲鳴を上げて倒れてきた。微塵も予期していなかった俺は、畳の上に押し倒される形でクラースの下敷きになる。
「いたっ……。ごめん、なさい……」
クラースのやわらかなふくらみが俺の腹に当たっていて、胸元を湿らせるクラースの言葉が頭に入ってこない。幼い顔立ちだが、意外と胸はあるようだ。
クラースががばっと起き上がり、俺から離れる。あっという間に大きくなってしまった俺のちんこが、まだクラースの温かな重み覚えていて、しばらく収まる気がしない。
「あっ……、いや。これは、生理現象で……」
「ごめんなさい。あんなに歩いたの、私、初めてで……。足、痛めちゃったみたいで……」
クラースは俺の弁明には触れず、視線を泳がせて言い訳をする。その表情に、俺はぐっと来てしまった。
まだかすかに湿っている髪が、とても艶っぽい。俺の心臓が高鳴る。高鳴りが、抑えられない。
「なぁ、クラース……」
「はい……?」
か細い声で、遠慮がちな目で、クラースが俺を見る。
「……クラースは、さあ。俺の贔屓筋って、言ってたけど……」
俺はそうクラースに近づく。クラースが恥ずかしそうに肩をすぼめる。
「俺は、クラースが俺の贔屓筋だって、言ってくれて。俺のこと、好きだって言ってくれて。すごい、嬉しかった」
「……」
「クラースはさ。俺と……」
艶のある黒髪。伏せられた大きな瞳。桜色の唇。やわらかそうな白い頬。
距離がどんどん縮まっていく。
「……ごっ、ごめんなさい!」
「えっ?」
クラースの予想外の反応に、俺は面食らって硬直する。
「あのっ! そのっ……、私……。今日、血ぃ出ちゃうから。その。そういうことは、出来ないんです。ごめんなさい。その、助けて頂いたのに……」
早まったかとさーっと血の気が引きかけていた俺は、そういうことかと一安心してクラースに尋ねる。
「血が出るって、怪我でもしたのか?」
俺はカエリオニとの戦闘の時、クラースのことをやむを得ず突き飛ばしてかばってやったことを思い出す。
さっきは、あんなに歩いたのが初めてだったから足を痛めたと言っていたが、もしかするとあの時に怪我でもしていたのかもしれない。それは、仕方なかったとはいえ馬鹿なことをしたなと思った。
「……? ちっ、違います!」
ぽかんと俺を見ていたクラースはしかし、そう言って慌てて否定する。
「そうじゃなくて。あの……。毎月の……、ことなので……。大丈夫です。でも、そういうことはできないんです。ごめんなさい」
「ああ」
――月経か。
クラースの言葉で俺はすぐに理解した。月経は呪術にも関係してくることだから、俺は詳しいんだ。
月経中だって別にできないことはないんだけど、かなり血で汚れるから、クラースも恥ずかしいだろうしやめておくかと俺は思った。処女ならどうせ血が出るし、俺は気にしないんだけどな。まあ、今日はそういう気分じゃないんだろう。
クラースに迫っていた俺は体を起こし、床に座り込んだ。
「……」
「……」
沈黙が流れる。気まずい……。
「あっ、あのさ!」
「はっ、はい! なんでしょう?!」
俺はこの際だしと思って、気まずい沈黙を破るついでに、ずっと気になっていたことを訊いておこうと思った。
「これは、友達の話なんだけどさぁ」
「はぁ……」
「あの。俺と知り合った、仲いい、友達の話なんだけどさぁ。そいつ、何か実はまだ童貞らしくてさぁ。はは。それ、気にしててさ。いや、女の子ってやっぱ男には経験豊富であって欲しいのかな、っていうかさ。色々手ほどきして欲しいのかなって気にしてたからさ。どうなのかなと思って。女の子的に……。いや、あくまで友達の話なんだけど、ほら。女の子はどう思ってるのかなって、訊いといてやりたくてさ。ほら。俺は、先輩として……」
俺はきょろきょろしながらそこまで言うと、やけに静かなクラースを見ようとした。でも、クラースの顔を直視できない
「……私は、好きな人が私が初めてだったら、嬉しいです」
「へ?」
予想外の言葉に、俺はクラースの顔を見る。
その顔はとても優しくて、切なげにどこかを見つめていた。畳の上に視線を落としているようで、それでいて、どこか遠くを見ているようだった。
「こんなこと思うのは、はしたないのかもしれないけど……。私は、好きな人の全部が欲しいなって。私のものになればいいのに、って思っちゃうから。彼の初めてが私だったら。そういうのは、私とだけだったら。うれしいなって、思っちゃいます……」
「……」
予想外の言葉に俺は驚いてクラースを見つめる。
「なっ、何言ってるんでしょうね私。うな重でしたよね? 待っててください! 今急いで買って来ますから!」
クラースはそう言うとそそくさと立ち上がり、風のような速さで家を出て言った。
「……そういう、もんか」
俺は童貞でよかったと思った。