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一目惚れ



一目惚れ



空から降ってきては砕け散る雨粒をあびて色づいた、
アジサイの花を添えて



 あなたには、忘れられない人がいますか。
 僕にはいる。忘れられない人が。
 彼女は、ある日、突然。僕の目の前に現れた。
 いつもと変わらない日常を歩いていた僕の目の前に、突然、空から降ってきた彼女。
 あれは、そう。
 ある夏の雨の日のことだった――。
 当時、僕はまだ高校生で。あの日も僕は高校への通学路を、いつもと同じように学校へ向かって歩いていた。
 いつもと変わらない朝。いつもと変わらない道。いつもと変わらない制服。
 いつもいつもいつもいつも。何も変わらない日常に、僕は嫌気がさしていた。
 もちろん、別に楽しいことが何もなかったわけじゃなかった。学校に行けば友達がいたし、授業は大抵つまらなかったけど、面白い先生がいたり、それなりに充実していたと思う。当時の僕も、それはきっとなんとなくわかっていた。
 でも、そういうんじゃなくて。そんな代わり映えのしない日常に、何だか飽き飽きしてたんだ。あの当時の僕は。
 もちろん、そんな日々の中にだって変化はあった。毎日毎日、小さな変化はたくさんあって。当たり前のことだけれど。その日のように毎日毎日雨が降ってたわけじゃないし。学校の授業だって毎回毎回先へ進んでたし。道端に咲いていたアジサイは、数か月前は咲いてすらいなかったし。
 そう。アジサイが咲いてたんだ。その日、僕が彼女に出会った時。僕の視界の隅っこには、たくさんのアジサイが咲いていた。青い色のアジサイが、めーいっぱい。
 アジサイは、花壇っていうのかなんていうのか、よくわからないけれど。植込みみたいなところに植わっていたんだと思う。それは、マンションの前に設けられていて。
 そのマンションは、すごく高かった。割と新しい、高層マンションで。
僕はそのマンションの前を、やっぱり代わり映えもせず、毎日毎日歩いていて。その日も僕は、そのマンションの前を通ったんだ。
 そして。それは、突然の出来事だった。
 朝、家を出た時からずっと。僕の視界の前に降り続けていた雨。
 その雨と一緒に、突然空から降って来たんだ。一人の少女が。
 少女は突然、空から降ってきて、そして、僕の目の前のアスファルトに吸い込まれていった。
 一目惚れ、だった。
 一瞬だった。
 僕と少女の出会いは、ほんの一瞬だった。
 一瞬だったけど。でも、その一瞬で。僕は彼女に恋をしたんだ。
 彼女と目があったその瞬間、僕の全身に衝撃が走った。その衝撃は、僕にとって。世界が止まってしまうには十分すぎる衝撃で。
 僕は何が起こったのかわからなくって、時間も何もかも止まってしまったかのようで、何も聞こえなくって。
 ただ振り続ける雨だけが、僕の目の前で動き続けていた。
 恋をすると、それまでとは世界が違って見えるだなんて言葉を。それまでの僕は微塵も信じて何ていなかったけれど。気にとめてすらもいなかったけれど。そのとき僕は初めて、その言葉を実感することになったんだ。
 思えばあれが、僕の、本当の意味での初恋だったのかもしれない。
 僕のそれまでの退屈な日常は、その一瞬で。全く新しい日々へと変わってしまったんだ。
 どれほど経った頃だったろうか。僕が気づいた時にはもう既に、時間は再び動き出していて、世界は音を取り戻していた。
 そして。ふと下を向いた僕の足元には、今まで見たこともない様な、とても不思議な塊があって。真っ赤な雨水が、僕の足元に大きな水溜りをつくっていた。
 いつの間にか、雨は止んでいて、セミの鳴く声がうるさかった。
 太陽が、僕の体をじりじりと照りつけていて。
 それなのに、なぜだろうか。傘をさしているはずの僕の頬はずぶ濡れで、僕の足元に降る雨だけは降りやまなかった。
 恋する彼女を思う僕。
 太陽と水溜りの温もりが、静かに僕を温め続けてくれていた――。
 月日は流れて、僕は高校を卒業し、今は社会人になっている。
 あれ以来、僕は彼女に会っていない。
 そして、幾度となく雨に降られ、幾人もの女性と出会ってきた。
 でも。それでも僕は、彼女のことを忘れられない。
 あの日、一瞬見たあの顔が、今でも僕は忘れられない。
 僕は今も、彼女に恋をしている。
 彼女が僕の、忘れられない人だ。
 ――あなたには、忘れられない人がいますか。


 この短編は、私が高校時代に書いた小説『一目惚れ』をもとに、新たに描いた短編です。

二〇一六年 五月一七日
二〇一六年 七月 六日 最終加筆修