「わかりやすく」を簡略化でおこなう問題点
最近の風潮として物事を簡単に説明するコンテンツがとても増えてきている。
少し前はわかりやすい衛星授業の全国展開塾でカリスマ講師が一気に名が売れる時代があった。
ここ最近は説明の上手いYouTuberが台頭していきている。
更にはTikTokやYouTube ショートの短い動画で説明するものが流行っている(再生数が伸びている)
しかし、果たしてそれでいいのだろうか?と思ってしまう。
難しいとは?
難しいの対義語は簡単だ。
簡単にするということは簡略化するということである。
しかし、簡略化は時に「分かりやすさ」の対局にある事がある。
例えば、ディテールが失われることで判別が難しくなっていくなんて状況はいい例であろう。
そして、分かりやすさは必ずしも簡単にする事だけではない。
構造化して整理することで「わかりやすく」することが出来る。
分かるということ
残念ながら世界は難しい。
大変複雑に出来ている。
わからないことは多いし、整理されていることも少ない。
殆どのことに「正解」も「答え」も存在しない。
そんな世界をどうにかして「分かろう」とするその営みこそある意味で私たちがホモサピエンスになって以来、達成しようとしてきた事のようにも思う。
教育、学術、分析、記録。
あげればキリはないが、我々が行う多くの営みは世界を分かろうとした結果と言えるだろう。
しかし昨今の動きを見ているとそういう営みから間反対方向へ向かっているように感じる。
それ自体の是非を問うほどの立場に自分はいないが、懸念することぐらいは出来る。
ちなみに、こんな論調でいると誤解されそうだが、難しい事をわかりやすくしていくこと自体には賛成である。
だが、それが簡略化の先にある「簡単にする」という方法では元も子もない結果になるのではと思っているだけである。
たとえば、ゆとり教育時代にπ=3で計算が行われた。
結果、円に内接する正六角形の外周の長さと円の外周の長さが同じと出てしまうわけです。
まあ人と話す分には近似値でも問題ない場合が多いですが、「およそ3」と教えるのと「3」ですと教えるのではやはり結果が全然変わってくる。
こうやって簡略化することの課題は今尽きてないように思う。
最大の懸念点
特に社会課題解決に関わる界隈は参加のハードルを下げるために分かりやすくする。結果、簡略化される場面の本当によく目撃する。
社会問題こそ本当に複雑に様々な事柄や感情などが絡み合ったもので、その絡みを解すために関係しているものを断ち切って残ったものだけを話しがちだが、それでは問題の本質を見失ってしまう。
だからこそ僕は言いたい。
特に社会問題を扱うにあたって、わかりやすく伝えたり理解したりする手段は簡略化ではない。
構造化して整理することで分かりやすくしていく必要はある。でもそれが出来ている人を僕はこの界隈に殆ど見たことがない。
それが怖くてたまらない。
現状の僕の稚拙な知識とスキルでは万人に分かりやすく構造化して整理することは難しいが、少なくとも僕はこの方法で「わかりやすく」することを諦めたくない。
難しいものは難しいままで理解する。
そんな覚悟と時間を私たちは失ってしまったのかもしれない。
自戒を込めて