【短編】香る辞書


 夏休み。Aちゃんは両親に連れられて、田舎のおばあちゃんの家に遊びに行きました。

 白くて高いビルや大きなデパートのある街を出てしばらくすると、見渡す限りの田んぼや、遠くには緑の山々が見えてきます。

 おばあちゃんの家は、小川に架けられた小さな橋を渡った先にありました。お墓参りをしたりカブトムシを捕まえたり、おばあちゃんの家に来て最初のうちは楽しく過ごしました。


 でも、だんだんお家に帰りたくなるものです。

 Aちゃんは友達と遊ぶのが恋しくなってしまいました。
 お母さんに「今日の夕飯はカレーにしよっか」と言われても、どこか上の空です。大好きなカレーだけど、友達のことも大好きです。

 それを見かねたおばあちゃんが、Aちゃんに一冊の辞書を渡しました。

「おばあちゃん、これなぁに?」

 おばあちゃんはフガフガと口を動かして言います。

「それはね。いろんな匂いがする辞書なんだよ」

 Aちゃんの顔くらいある大きな辞書には、世界中の「匂い」とか「香り」が集められているそうです。

 中を見てみると、何ら変わりない普通の辞書のようです。『あ』から『わ』まで順番に、単語と読み仮名が書かれていました。

 ただ普通の辞書と違う部分があります。単語の意味が書かれていないのです。厚い辞書には、単語がずらりと並んでいるだけです。

 Aちゃんは試しに、「チョコレート」の文字に鼻を押し当ててみました。でも、全くチョコレートの匂いがしません。紙の匂いがするだけです。

「おばあちゃん、ちっともチョコの匂いがしないよ」

 Aちゃんは口を尖らせます。「ほっほっほ」とおばあちゃんは笑って、

「使い方が違うよ。ほら、文字を指でなぞってごらん」

 おばあちゃんに言われたように、Aちゃんは『チョコレート』の文字を指でなぞってみます。すると、どこからかチョコレートの甘い香りが漂ってきました。

 Aちゃんは目を丸くします。

「チョコレートかい。美味しそうな匂いだねぇ」

 おばあちゃんはAちゃんより、少し離れたところに座っています。どうやらAちゃんがなぞった文字の香りは、おばあちゃんのところまで届いているようです。

 Aちゃんはだんだん楽しくなってきました。今度は『カレーライス』をなぞってみます。

 どこからかカレーライスの香りが漂ってきます。お母さんが作ってくれるような、優しくて、胸がいっぱいになるような香りです。

 次は『ハンバーグ』をなぞりました。香ばしい匂いが和室に広がって、じゅうっという音も聞こえた気がします。

 間違えて『納豆』をなぞったときには、おばあちゃんに笑われてしまいました。しばらく臭くて鼻をつまんでいました。

 匂いが納まってから、Aちゃんの指は止まりませんでした。右手の指で文字をなぞり、左手では次々とページをめくって行きます。

 そうしているうちに、外はすっかり夕焼け色。いつの間にか夕方になってしまいました。

「ふ~。なんだか匂いでお腹一杯になっちゃった。おばあちゃん、この本すごいね ...... あれ。私、おやつ食べてないのに、なんでお腹いっぱいなんだろ?」

 疑問に思いながらも、疲れてしまったのか、Aちゃんは畳に寝転がります。

 それを見たおばあちゃんが、こんなことを言いました。

「こりゃこりゃ。そんなことをしたら、牛さんになってしまうよ」

 Aちゃんは何のことか分からずおばあちゃんを見ます。

 おばあちゃんはまた「ほっほっほ」と笑って、

「その辞書はな、匂いを嗅ぐことが出来る代わりに、匂いでお腹を満足させてしまうんじゃよ。ほら、おばあちゃんのお腹を見てごらん。ぽっこり、狸みたいになっとるじゃろ」

 その夜、お母さんの作ったカレーライスを、Aちゃんは食べ切ることが出来ませんでした。


 田舎のおばあちゃんの家には、不思議な物が置いてあるものです。


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見出し画像には、『よしだゆう』さんのイラストをお借りしました!

ありがとうございます!


 

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