装飾の力
装飾のふるさと
ぼくが子供だった頃、落書きが楽しかった。ザラ半紙やチラシの裏に、憑かれたように絵を描いていたものだが、無地の面があると落書きをしたくなるという衝動は、ぼくの先祖である猿が毛皮を失ったからではないか。
過酷な自然の荒野に晒されていても、毛皮で覆われた動物は生きていくことができるが、毛皮を失った人間は、肉体的に耐えることができない。そこで、動物の毛皮、草木、土、石などといった、入手できる既存の物を寄せ集めて、それらを織りなすことで、衣服や建築といった覆いを作り、剥き出しで晒される危険を克服したのだろう。ただ、「剥き出しで晒されて在ること」への恐れは、人類の無意識に深く刻み込まれて、無防備な空白を様々な物によって覆いたいという衝動に、今もぼくたちを突き動かしている。例えば、がらんとしたデザインのカフェやレストランは、すきっとし過ぎてどこか落ち着かず、全面ガラス貼の開放的な住宅は、やがてカーテンが常時引かれるようになり、住み手によって結局は裏切られる。また、コロナの流行によってマスクで鼻と口を覆うようになったが、常用で身につけるようになると、装飾の文様がマスクに忍び込んでくるようになる。白地のキャンバスに絵を描くことや、殺風景な部屋を装飾することは、「剥き出しで晒されて在ること」への恐怖から覆いを作るという建築的な営みと同じであり、そうした意味で、絵を描くことや装飾することは衣服や建築を作る行為と、ぴたりと重なる。毛皮を失ったのは、180万〜5万年前のホモ・エレクトスの時代だが、猿が毛皮を失ってから、人間の文化が始まったと言えるかもしれない。
そして、装飾は肉体だけでなく精神にも働きかけ、人の心を変化させる。
心はそれ自体、か弱い存在だが、柔軟性を持っているため、外部からの働きかけによって自由自在に変容し、強さを増していく。商談の場に臨むとき、良い時計を身につけると無敵感が感じられ、美しい首飾りを身につけると気持ちが晴れやかになり、化粧をすると自信が生まれる。歴史的にも、刺青やボディペインティング、仮面といった装飾を人類は活用してきたが、心を強く変容させるために、装飾によって武装し、裸の内面が剥き出しで晒される状態を、克服しようとしてきたのだろう。内面が装飾によって活性化すれば、人は外部の他者に向けて積極的に働きかけを行うようになり、活動的になる。ともあれ、装飾のふるさとは吹き曝しへの恐怖であると、ここに記しておきたい。
プラダ・ダダ・パフォーマンス
東京での打ち合わせの帰りに、青山のプラダブティックに寄ったことがあった。
平日の閉店間際だったからか客はほどんどおらず、女性がマネキンにスタイリングをしていた。最初はワンピースだけ身にまとったマネキンは、バッグやブーツ、上着など、それぞれ異なった色や質感を持つアイテムを次々と身につけていく。一つひとつのアイテムを見ると、ワンピースの持つ雰囲気とはかけ離れ、支離滅裂に思われたが、各々の色やザラザラ、ツルツル、ピカピカといった肌触りが、スタイリストによって組み合わされていくと、最後には、絶妙にかっこいいルックに化けるのを、ぼくは横目で見ていた。ファッションには寒さをしのぐことと、局部を隠すこと以外に意味はないが、それぞれの物に備わっている、かたちや色、質感といった具体的な個性を生かし、それらを有機的に織りなすことで、官能的な魅力が引き出される。意味を持たないファッションは、一つひとつの物が持つ感覚の具体性に基づいており、そこから生み出される物質的なかっこよさは、ダダの詩を思い起こさせる。
「もろもろの形態や構成の中で、さまざまなイメージを、それらの重さ、色、素材に従って拡大して、調整すること。あるいは、もろもろの価値や物質的で持続的な密度を、一切の従属関係なしで、複数の平面ごとに分類すること。」『黒人詩に関するノート』トリスタン・ツァラ
ダダの創始者である詩人ツァラは「DADAは何も意味しない」と宣言する。ダダは言語から意味を追放し、纏まりをつけようとする中枢的統御を放棄するが、意味の秩序をつかさどる中枢が否定されることで、音の調子や聴覚的なコントラストといった、個々の要素における言語の質感は、かえって際立っていく。海外の旅先で意味のわからない外国語を耳にすると、意味がわからないがゆえに、母国語では意識されない言語の質感が感じられるように、ツァラは言語の意味作用を捨て、筋の通った伝達手段としての詩ではなく、様々な言語の物質性が有機的に織りなされた、聴き手の感情を揺さぶる、ダダの詩を発明したのだった。
ダダの詩は、チューリッヒのキャバレー・ヴォルテールやパリで上演されたパフォーマンスとして発表されていた。ファッションもいうまでもなく、人を活性化させ、孔雀の羽のように魅力をアピールするパフォーマンスだろう。他者に働きかけて感情を揺さぶることがパフォーマンスならば、建築もまた、パフォーマンスとしての側面を持つ。
コンセプトやプログラムに基づいて、建築は設計される。一方で、それらの抽象的な意味構造には回収しきれない、材料やかたち、色、質感をつなぎ合わせて空間をつくるという物質的で重要な局面が、建築には同時に存在している。一見支離滅裂で、ノリでデザインがなされているように見えても、空間がかっこよくキマっているのであれば、物の観点から理に適っているということだ。様々なかたちや色、ザラザラ、ツルツル、ピカピカといった質感のつなぎ合わせは、一見恣意的に思われるが、物の持つ感覚の具体性と向き合い、対話するにしたがって、相異なる物同士の必然的な均衡が導き出される。建築がパフォーマンスとしての力を見せるのは、この物質的な局面においてであり、様々な要素が有機的な全一性へと織りなされたとき、建築から、人間の情操を打つ美的な力が引き出される。
吹き曝しの時代に
世界中に、吹き曝しの荒野が広がっている。コロナは蔓延し、社会の分断と対立が進み、格差は開き、不公正がのさばり、拠り所となっていた価値観は揺らぎ、寄る辺のない市民達は自らの権利を差し出し、権威主義的な指導者にすがろうとしている。人々が「剥き出しで晒されて在る」こうした時代に、ぼくたちは何を目指せばよいのだろうか。
冒頭で述べたように、茫漠とした吹き曝しのなかで、入手できる既存の物を織りなすことで覆いを作ることが、装飾の原点である。アカンサスの葉飾りのような植物文様にせよ、磨かれた大理石にせよ、古から伝わる文字にせよ、木の枝や草花、真鍮のような金属にせよ、この世に存在するあらゆる物は必ず、それぞれに潜在的な力を宿している。一つひとつの物に固有の個性を別け隔てなく扱い、お互いの相性を考えながらより良く組み合わせることによって、有機的な魅力を装飾に宿すことができる。
さまざまな対立が顕在化する殺伐とした現代においてこそ、多彩な要素が有機的に織りなされた美しい装飾=覆いに思いを寄せることは、お互いの差異を尊重しながら助け合うことのできる、殺伐としない社会を想像する上において、ひとつのヒントになるように思う。