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エクリチュール 聖性について

聖性について、切り口は驚くべきほどに多い、にもかかわらず、自分は、源郷感、にその根拠が、少なくとも人間側からすれば、そこに根拠があるのではないか、と考えるようになってきた。

なんらかの著しい源郷への、その望郷感こそが、自分の意味してきた聖性とか聖なるもの、という言葉に一致する。

そこでは、キリスト教的には、もっとも近い遠さ、として聖性が現れ、日本的な、折口信夫的な文脈のなかでは、もっとも遠い近さ、として聖性が現れるような気がしている。

キリスト教的な源郷への望郷感のなかには、審判、裁き、という人間にとって即自的で、切に迫る、ものがあり、"罪"という実存の背理に位置する、ところに、キーがあり、もっとも近い遠さ、として、聖性が無限に目の前に前進(エペクタシス)していく。

日本的な源郷への望郷感のなかには、汚れ、などはあれど、罪、というものは薄く、常世の主催者(神)との関係が直接的に叙述され難いように思う。始点と終点のなさに、"今"、というところにアクセントが為され、今、のなかで源郷を見出すためには、それを、(昨今、喪われつつあるが)人間側の些事な日常的所作、によって、あえて遠ざけて、まさに、もっとも遠い近さを現成させてきたようにも思う。このもっとも遠い近さにマレビトが訪れる、というような、歓待の日常所作、のようなものが、かつてはあった、のだろうか。

この意味では、キリスト教とは、避けざる罪、というものにおいて、途端に神と人間は一致する近さに接近する(近さ)。だが、その罪を解消することの難しさのなかで、やはり、無限のように、遠のいていく。

いずれにせよ、このもっとも遠い近さ、ともっとも近い遠さ、というものが、われわれの俗域から聖域に至る扉になっているようにも思う。

聖性、聖なるもの、を主題にするに、必ず、そこには、源郷、が無意識にも想定されているのだろう。


聖性

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