エクリチュール 哲学的より神学的に芸術は

たしかに、超越的他者としての神の主体性において、人間は、無であるが、そのことの帰結は、神の子というところで、救済されるにしても、である。

人間は、無でありながら現実それそのものであることの矛盾を、まさに、矛盾存在ゆえに、生きる他にない、ということ。

ここにきて、リビドーを、意味志向性と生命力の爆発ということこそ、人間に可能な唯一のことのように、人間は志向するのだろうか。

大方はそうである。そして、芸術は爆発する。

だが、ただ、一点、神の子、という、大いなる人間への阻害こそが、爆発を、リビドーの炸裂を、意味志向性と生命力の間に、あの、霊、ということを置くのである。

われわれは、そこでは、霊、において、唯一、彼方であり此方であり、という現実を享受するわけであるし、無であり矛盾でありながらも、生かされるということ。

神は芸術家を押しつぶす。芸術家という詐称を詐称として、そこから剥ぎ取り、終いには、人間という罪のみを差し向け、そして、神の子、という一点において、その家の子とする。

たしかに、意味志向性と生命力は比例する関係にあり、それは、いずれかの意味でもリビドーに根ざす、エロス的図式に、物事を展開させる。

それが、芸術の爆発であり、芸術家の誕生であり、あの芸術の高台において繰り返されてきた栄光と失墜、また、挫折と達成の、つまり、それらのリビドー的な弁証法であり、エロスのトポスに収まり切る、文字通り、芸術、なのである。

そこには意味以上に、展開と実現の連打が織りなされており、人間的可能性の限界を超えていく超越が目指されていく。

どのような神を要請する言葉も、人間における神の簒奪であり続ける他にはなく、せいぜい、イコン画や宗教領域によく垣間見られるあの熱心な信仰というものや敬虔であることという限界性なのである。

われわれは爆発する必要がないのである。

なぜなら、われわれは、すでに神により炸裂させられ、爆破されているのだから。

神による大いなるあの阻害のもとで、永遠の傷口を開かれ、もはや、無自覚の病人であり、告訴されたものであり、四肢のない身体であり、脳のない頭なのである。

ここでは、どこにも行く必要さえない。

芸術の試みられることの不可能な荒野において、まさに荒野において

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