エクリチュール イエス・キリストということ
■愛
・愛により結晶化したものに、万物は結果的に、帰還し続ける
・愛。あの神聖なるもの。稀に生起するのは、愛である。愛は一度芽生えると、永遠に人間や万物を捉える
・だが、愛はいつも、それ固有なのである。逐一、完全に固有でありながら普遍であるのである
・結果的に、愛について統一的に語る言葉はここで収束していく。そして、また開いていく
■神聖なるもの
・あえて、愛について、ストルゲー、フィリア、エロース、アガペー、カリタス、という区分けや定義付けをせずに、神聖なるもの、という新しく古い愛として、叙述を続けよう
・定義の必要なまだ弱い人々のために、神聖なるもの、とは愛の特異な定義の一つとしておこう
■肯定的絶望論
・逐一絶望は訪れる。"だが、それは、問題ではない"
・神聖なるものの前では、"絶望すら"である
・絶望をする、絶望をしない、の操作をどうこうしようとすることは取るに足らないことに過ぎない
・神聖なるものの前では、どれも取るに足らないのである
■イエス
・だが、ひとつ、さらに弱い人々のために、わたしはイエスについて、必ず、書かなければならない(弱き人々にとって、必ずきな臭いことを)
・人類史において、この、神聖なるもの、に正統性を与えた、現実としての権力を付与したのは、唯一人、イエス・キリストである
・人類史において、空前絶後であるにも関わらず、人類として正統にその存在を認められているのは、イエス・キリスト唯一人である
・よく考えていただきたい。イエス・キリストは数多奇跡を起こした(つまり、人間としてはゆるされないことをした)。にも関わらず、もっとも人間として実在を疑われない人、なのである
・ニーチェやドゥルーズのほうが実在を疑い得ない、と人々は言うだろう。だが、"ニーチェやドゥルーズのために死ねる人間はいたのだろうか"
・実在を担保する、人間の生、つまり、自らの死、を以って、彼、彼女が実在する、と表明しえた人間は幾ばくか
・ニーチェやドゥルーズは実在であると言いながらも、彼のために死ねる人間はどこにいるのか。"それは実在か?"
・哲学的に言えば、いまだかつて、自らの妄想や空想としてのニーチェやドゥルーズの幻想、幻覚に触れたものは数多あれど、ニーチェ自体やドゥルーズ自体に触れた人間は、同時代人であれ、その親であれ、不在であり続けた(ゆえに、われわれは繰返し、彼らのエクリチュールを読みながら頭を抱えることが"できる"のである)
・イエス・キリストのために、いや、イエス・キリストがゆえに、死んだ者たちは幾ばくか。おそらく、最大の数に至るだろう
・他の死は、偶然的に、この世の都合によって喪失されたに過ぎないのではないか
■人間のその政治的な領域において
・あえて、聖域から俗域に降りて書くとしよう
・イエス・キリストは実在した、というのが、今まで、と、今、の人間の政治的決定である
・もし、どこぞの某が、イエス・キリストなど実在しない、と科学史観などを持ち出し、嘯いたとて、その彼のほうが、異例、常識的ではないのである
・なぜなら、人類史、人間の歴史において、イエス・キリストは実在した、という前提でしか西暦(アンドミニオン=キリストの誕生日)は稼働してこなかった
・その重力に、科学史観が優ることはおそらく不可能である。すでに、不完全性定理、不確定性原理によって数学、物理は世界と等号を繋げる可能性を喪失している
・科学史とは、科学が、ひとつの分野に過ぎない、ということを識るための挫折であった。神の前においての挫折である
・神という語がどれほど、おそろしいものであるかを、人間はまだ発見していないだけに思う
・すべての語によるリアリティが、神という語の前における挫折としてしか表されないのである
・これは、熱狂的なキリスト教やキリスト者としての言葉ではなく、少なくとも、諸学にある程度精通した果てのこの自分の全人的な絶望である。そして、その絶望を拭いうるのは、神という語が、ぽつんとそこに実在していること、なのである
■キリスト教からそのキリスト教らしさを差し引くこと
・そして、だが、神、はなぜ、イエス・キリストである必要性があるのか
・なぜなら、唯一人間史で、実在した神は、イエス・キリストのみであるから、である。受肉ということ
・日本の神々の話を国際会議で、リアル、として提出することは不可能である。同じくどの国々の神を、リアル、として提出したとて、幻覚の一種類か、イデオロギーの代理物として一蹴されるだけである
・だが、イエス・キリストについてのみは、この最大派閥については、リアル、として提出されることが可能なのである
・だれが、ローマ教皇を国際会議のメンバーではない、と言いうるのか、という命題である。少なくともあらゆる科学者や合理主義者を一掃して、ローマ教皇のほうが、実在であり、リアルである
・ローマ教皇が、もし、明日に、「科学主義者を信じてはならない」と号令をしたとしたら、そちらのほうが、よりリアルな言葉として歴史に登録されることになるのである(それは狂気的であるが、それでさえ、なお、である)
・科学的、合理的な現在時点の史的実在論としてさえ、イエス・キリストは存在した、というのが、人類の共通認識である(史的受肉)
・いずれにせよ、"純粋にそのために"、生死の重量で、つまり、殉死を成し遂げた、人という一人の力その命そのものの、つまり死の重さで、その実在を指し示して来た派閥はキリスト者たちである
・だれが、疑いうるのか。なぜ、彼らは踏み絵を踏んだのか
・手続き的実在、というのがある。世にある数多の「それが、実在である」、というものはどれもこれも神を除き、手続き、でしかない、ということをまだ知らない人々は確かに多い
・ひとつの、お約束、として、ある事象を、実在、として見立てる、というのが、人間的人間の、作法なのである
・科学とはそのことであり、合理もまたそのことである。科学の始点は、公理によりその恣意性を脱せず、不完全性定理と不確定性原理により終点が決まっている。合理もまた、公理によりその恣意性を脱せず、その終点は、合理という言葉や手続きがあるにも関わらず、超越、ということが、合理の破綻が、ヘーゲル主義の破綻のように、人間に襲い来る
・言葉を変えれば、人間という脆弱な存在にとって、合理は合理的ではない、ということであるし、科学すら、科学的ではない、ということである(つまるところ、弁証法はどこかの時点で、否定弁証法をしか生まなくなるのである)
・「人間にとって」という自体性の喪失こそ、人間の深刻な病である
・もはや、超越、空前絶後、超合理性、超越的なイエス・キリストの力、と言われたときに、なぜ、どのようにして、対抗をし続けられるのか、ということなのである
■まだ日の浅い人々のために
・日の浅さは、手続き的なもの、を実在としてそのまま信じてしまう傾向を生んでしまう
・どれもこれも、実在を疑い得、底が抜けている(いわく、空であり無である)ということは、神を除き真理どころか事実である
・ホワイトヘッドはアクチュアルエンティティ(活動的実在)という言い方で、疑い得ない実在を担保しようとしたが、だが、それは、人間にとって、どこまで耐えうるメタ真実であるのだろうか
・そもそも、われわれに、疑い、は必要なのである。ある完全なる実在の前に、疑い、なき実在とは洗脳それそのことである
・最高度の疑いがある、"にも関わらず"、というもの以外に、人間にとって、"意味のある実在"には辿り着かない、ということである
・人間から疑いを差し引くことで、実在を担保しようとすることは、それの行き着く果ては、無、であり、人間とはなんら関わりがない
・"意味のある実在"とは、言い換えれば、"人間にとっての実在"ということである
・人間にとっての実在における実在、のみが、実在である。このことの意味することは、われわれが、人間である、ということである
・繰り返そう。あらゆる理論や言説は、前提、のもとに可能になる。前提、を欠いたとき、あらゆる理論や言説は、不可能、になる
・さて、つまり、あらゆる実在は、ある前提のもとに成立している。それは、われわれが、人間である、ということである
・人間である、というこの前提において、意味のある実在論以外は、人間にとって関係のない実在論、ということになり、実在ではなくなる。なぜなら、人間と関係がないからである。人間と関係がない、とは、前提を喪失している、ということである
・実在論のほうが強度を増して、いつしか、その前提(人間)ということを放棄したときに、それらは泡になって消失する、ということである。人間の破断による実在の破滅
・だが、なぜ、イエス・キリストは最大の実在であるのか、人間の死(数多殉教者)、という人間という前提の喪失の接点で、殉死、ということで、人間の死、という人間のあり方の前提において、前提を喪失させる境界線で、イエス・キリストという実在を実在たらしめてきたことによる
・メイヤスーやマルクス・ガブリエルのために、または、がゆえに、死ぬ人間は存在しない。だが、イエス・キリストのために、または、がゆえに、死ぬ人間は数多存在してきたし、これからも、途絶えることはありえないのである
・前提(人間)ということと、実在(神)ということの両者が破断し破滅するスレスレ、というか、その境界線上に、人間の殉死と神の実在、という、人間にとって忘れることの不可能な、人間の死ぬこと、という事実を以って、対抗して立ち続けているのが、イエス・キリストの十字架なのである
■魔法としてのあらゆる
・たとえば、魔法があり、わたしの苦しみやそういったものが、一掃できたとしよう(資本主義、民主主義、芸術、薬物、トランスヒューマニズム、シンギュラリティ他)
・苦しみは一掃された。だが、残存するのは、ではなぜ、苦しみが一掃されるまでは苦しみ続けなければならなかったのか、ということである
・苦しみの一掃されたわたし、は、もはやわたしではないし、人間ではない
・これが、ゼウス的なもの、であり、この世の神の姿なのである
・苦しみを一掃するかわりに、それまで苦しんだという履歴や記憶、つまり、人間自体を一掃してしまうのである
・この繰返しのなかで、人間は自己であることを喪失する。"人間である必要"や"人間である根拠"を喪失するのである
・これが、頽落、の真の姿である
・あまた真理が人間の行く先に立ちはだかり、誘惑をして、そのまがい物の真理を掴ませるかわりに、人間ではない根無し草に変えてしまうのである(悪魔、サタンということ)
・なぜ、イエス・キリストなのか
・人間のために死んだから、である。神にも関わらず、われわれの苦しみを一掃などせず、ともに苦しみ、ついに、人間のために死んだ神。神にも関わらず人間のために死ぬということは、愛ゆえにしか不可能なのである(総理大臣や誰それは人間のためには死ねないだろう。にも関わらず、神にも関わらず人間のために死んだのである)
・そして、まだ弱き人々のために、使徒は遣わされた
・少なくとも、パウロということ
・イエス・キリストのために死んだのである(殉死)
・頽落した人間は何かのためには、死ねない。寿命が来て、死ぬばかりである
・三島由紀夫は国のために死んだ。だが、パウロは、それ以上ということがありえない、神のために死んだ
・そして、国は三島由紀夫のためには死ななかった。だが、神は人間のために死んだ
・これで十分なのである
・どこに愛があるのか、のみが、人間の認識の意味である
・さらに十二分に言おう
・神はたしかに、万神同一説において正しい。つまり、何教の神も、結局のところはあるひとつの神の見え方の違いに、過ぎない
・だが、人間との契、人間との関係、つまり、人間との間に、実在を担保するところの、愛、がどのようにあったのか、という、まさに、神と人間との関係(愛)の在不在、そして強度、が求められるのである
・どの神も人間のためには死ななかった。死んだとて、どれほどに苦しんだかは今ひとつわからない
・神は自らの独り子(それは自分より愛する自らの息子)、イエス・キリストという人間にして神なる方を、人間のために、寄越して、あらゆる人間が引き被ってきた苦しみを体験させ、自らも彼を裏切り、殺させた
・これだけで十二分である
・さらに充足させるのなら、そのイエス・キリストは死んで復活したのである
■なぜ、これほど希薄なイエス・キリスト
・しかしながら、神であるのなら、イエス・キリストということは、もっとはっきりと明瞭に史的根拠を有してよかったのではないか、と思われるのである
・同時に処刑されたイエスという人物がいた、ということのみが、表在的な証拠なのである
・より神を考えたときに、もし、明瞭にイエス・キリストがいたことが明らかであったときに、人間は愛ではなく、力への崇拝に陥るだろう、と思うのである
・それは、使徒たち以降が、そのために殉死してきた必要や、そもそもの殉死ということの未発生を意味するだろう
・殉死に支えられていない十字架は、それは、おそらく、イエス・キリストという神が、奇跡を行った、という部分のみへの崇拝、言うなれば、あたらしい科学や医療技術の登場への崇拝と何の違いも見いだせない。この世の神に、イエス・キリストが没落することをしか意味しない
・神の力への崇拝を生み、より言えば、神の愛、が「神の愛という"力"」として顕現してしまい、愛の部分が消失して、結果的に、愛というのは名ばかりの実質、力への崇拝を意味する他になくなるのである
・つまり、信仰、は不要になり、神と人間の距離は0になり、人間は神に蒸発してしまうのである
・愛による愛、の発生は、使徒以降の信仰や殉死によって、その見えないものが見えるようになる、という物語性以外においては不可能である
・愛にみえるただの力(イエス・キリストがビデオに撮られて今もすべてを見ることが可能だった場合)、の発生は、使徒以降の信仰も殉死も必要とせず、「ああ、あのイエス・キリストという愛に満ちた神は実在しましたね。それで?」という無愛想な人間の反応しか引き出さないことを、わたしは知っている
・つまり、イエス・キリストが、ビデオに撮られて、今でもそのすべてを確認できた場合、そのために死ぬ、という愛による愛、の発生の余地を人間に残さないのである
・万が一、そのために死ぬ、ということが起こり得た場合においても、イエス・キリストの"正しさ"がゆえに、死なざるを得ない、という正しさへの崇拝、にしかならないのである(イエス・キリスト全体主義)
・イエス・キリストということはその意味で、殆ど、隠されている必要、があるのである
・でなければ、イエス・キリストは、よりリアルな宗教的な戒律、に成り下がり、一時期の(あるいは慢性的な)教会共同体の陥る、愛なき信仰、つまり、正しさや力への崇拝、に失墜してしまうのである
・神が実在、であることは一部の人々というより有史以来、殆どすべての人間にとっては、明らかなことである
・実は神の実在性など、人類からして、すでに問題ではないのである
・問題というか命題になりうるのは、では、その神と、この人間が、どのような関係にありうるのか、より言って、その関係は愛なのか、ということ"のみ"である
・この"のみ"において、イエス・キリストが、派遣され殺され、復活したのである
・たとえば、復活信仰が、信仰ではなく、科学的事実になった場合、われわれは、即座に、イエス・キリストを放棄するだろう
・事実を超えた事実、以外に、人間は、不安と退屈以外の何を感覚すればよいのか
・復活を信じる必然性とはこのようなことなのである