アートメモ 独学者の哲学
無意味性との対峙。このことに昨今は躍起になっている。
アートから時流や資本主義を取っ払って、最後に残る対峙に思う。
たしかに、アートワールドでうまく行っている場合なら、このことを考える必要はない。それ自体が指標だからだ。だが、おそらく、自分のように、95%以上の作家は、アートワールド(資本等)と疎遠なところでアート活動を継続しなければ、成立しない。
そこに意味はあるのか、ということに対して、どのように、対峙し、意味化しうるのか、ということが、問われているわけである。自分には。
こんな破格な問いに対して、真っ向から向き合うこと事態が、ナンセンスなのではあるが、思うこともある。
ひとつは、オルタナティブの可能性を拓いていくことについては、優位がある。言うまでもなくアートワールドに属すれば属するほど、今、という時代に所属することになるので、オルタナティブを考える余地も必要もない。
要は、描く対象や様式などについて、複雑に生み出さなくても、時代から、需要があり、ある程度、顧客志向が自動的に働くからだ。
そんなことはない、という反論もありうるが、アートワールドにいるということは、無意識にでも、その影響を必ず受けていることに思う。
然して、少なくともポストポストモダン、ある程度でもオルターモダン、当然としてはそれ以外、というところに、自分の余地を流出させていかなければならないのだろう。
だが、これだけでも、弱い。同じようなことを考えている芸大卒作家は多いだろう。つまり、ポストポストモダンやオルターモダンアートという地平においても、相当に先手を打てなければ、殆どその到来とともに芸大卒と闘わなければならなくなる。その際には芸大卒が、少なくとも、量的には勝利するだろう。
つまり、独学者は、独学者としての普遍的な強みを見出さなければならないのかもしれない。
もし、独学者に普遍的な強みというものが存在しているのであれば、常に芸大卒との均衡の力関係を創出できる、ということになる。
今思うのは、タコツボ状に独学の根を生やすこと、だと思っている。
各々の分野での作品提示の際に、作品それそのものに、いくつかの分野の学際的結果が、生じていれば、それは、少なくとも、専門家(芸大)的ではなく、学際的(独学)的だ。
何を言っているかと言えば、そもそも、学際的な領域を真面目に追求する立場とは、独学者以外には、難しい、という利点について、である。
専門家は、その領域における、100点中の95点から100点の間の5点をとるために、膨大なリソースを動員する。他の分野について追求するリソースがないのだ(と考える)。
さらに言えば、専門的追求の世界に入れば、逆に学際的雰囲気のものは、純度を上げるために排除されるということがある。
独学者は、100点をとることはできないが、80点をいくつか複合したものを100点相当として提出する、というものに思う。
つまり、独学の作家は、80点を取れば、以降、そのゲームのなかでは、100点を目指しては、駄目、なのだ。
芸大卒が、80点の地点から、100点を目指し始めた瞬間に、独学者は、フィールドを替えて、他の部位で再び80点をとることを始める、ということを繰り返すほうがよいように考えている。
実力の問題もあるにせよ、それ以上に、出自の問題が、響く。96点か97点か、という微妙な1点については、印象、によることが多い。デッサンの評価なども、印象、のほうが、優先される。その、印象、とはやはり学歴だろう。そんなことは、この社会(アートワールド)では、言うまでもなく、当然のことに思う。
30点と70点の違いについては、誰でも分かる。ゆえに、独学者も芸大卒も、勝負になる。だが、96点と97点の差異は、実はほぼ分からない。結果的に、出自(学歴)が照合され、そこでいずれが、勝者か決まる。
画力、アート力が80点を超えたら、もはや、別分野との+αを考えるべきで、アートワールド"外"に遊学し、アートワールドならざるヘンさを表出させていくということ。
これが、独学作家の哲学ではないだろうか。
※そうなるとnoteは結構重要になる
つまり、独学者は独学者であることをまず強烈に意識し、自覚し、専門家とは、異なるという事実を理解しなければならない(絶望する勇気)。
その時に、独学者に変身したプレイヤー同士が、連帯できるのだと思う。
そこで、はじめて、オルタナティブなものが、生まれ、文明の表層に立てるのではないだろうか。