禍福は糾える縄の如し
「鬼滅の刃 劇場版〜上弦集結、そして刀鍛冶の里ヘ〜」を観たよ、よかったよ、という話は昨日書いた通りです。
ただ、公開してすぐということで、ネタバレなしのラインで書いたから薄っぺらくなってしまったので、ちょっと深掘りしたこと書きたいなと思いまして。
今回は(次回があるかはわかりませんが)妓夫太郎のセリフから余計なことを考えようと思います。
・・・
揃って首を斬られない限り死なない兄妹鬼・妓夫太郎と堕姫。
しかし、炭治郎と音柱・宇髄天元の奮闘で妓夫太郎が、善逸と猪之助の奮闘で堕姫が首を斬られ、その首は引き寄せられるようにひと所に転がり着く。
鬼殺隊に敗れた悔しさと死にゆく恐怖から互いを罵り合う二人。
炭治郎に諌められている間に、堕姫が先に崩れてしまう。
消えゆく妹に妓夫太郎は必死に呼びかけた。
「梅‼︎」
それは人間だった頃の妹の名。
そこから人間だった頃の妓夫太郎の回想が始まる…
花街の最下層に生まれた妓夫太郎。
生まれる前から虐げられ、生まれた後も罵られ、絶望だけの生活。
救いは美しい妹だけだった。
その妹が武家の怒りを買ったことで生きたまま焼かれてしまう。
妓夫太郎もその武家に斬りつけられながらも仇を討つ。
瀕死の妹を抱きながら自らも瀕死の状態で雪の降る街を歩きながら独りごつ。
「『禍福は糾える縄の如し』じゃないのかよ!いい事も悪い事も代わる代わるこいよ!」
・・・
不幸しかこない身の上を嘆くにはこれしかないという重い言葉。
原作を読んだ時も、テレビアニメで観た時も、この回想シーンのこのセリフで、妓夫太郎と堕姫の鬼とならざるを得なくなった悲しい境遇に心を寄せました。
ただ、映画でまたこのシーンに触れた時、同じような感情のほかに気になったことがありました。
それは「禍福は糾える縄の如し」という言葉についてです。
花街の最下層に生まれ、醜い容姿を蔑まれ、喧嘩の強さだけで身を立てていた妓夫太郎が、きちんとした教育を受けていなかっただろうことは想像に難くありません。
にもかかわらず、現代では中年層でもスラっとは出てこないような言い回しで自らの不遇を叫べるというのは、違和感と言えば違和感になり得ますね。
なぜ妓夫太郎がこのような言い回しで自らの境遇を語れたのか、深掘りしてみます。
さしあたっては、作者がうっかり難しい言い回しを使ってしまったという可能性を勝手に排除します。話が進まなくなるので。
なぜ妓夫太郎は「禍福は糾える縄の如し」という言い回しを知っていて、かつ自らの不遇と重ね合わせることかできたのか。
もしかしたら妓夫太郎は、使っている店の者に憐れまれて言われたのかもしれない。
あるいは身分のある者に蔑まれてこう言われたのかもしれない。
その度に妓夫太郎は「いつか見ててやがれよ」と思い、また「いい事なんていつまでも起こらねぇじゃねぇか」と毒付いたのだろう。
そう深掘りすれば、あの場面であのセリフ遠吐き出すことに違和感がよりなくなると思うのです。
勝手な深読みではありますが、妓夫太郎と堕姫の兄妹が歩んだ人間としての人生の不遇がより色濃くなったような気がします。