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全部を賭けない恋なんて
恋が人を狂わせるのか、人が狂うと恋をするのか。
作家・稲田万理のデビュー作、「全部を賭けない恋がはじまれば」。
先日の出版記念イベントの余韻もそのままに、その日買ってサインももらった一冊を読了。
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noteの文章から感じていた軽快な文体はそのままに、きちんと文学に昇華している。
ワタナベアニさんは、本になったことで「薄まった」と評していた。
それは、そうかもしれない。
それでもパワーを感じるのは、稲田万理さんの放つ熱量、本人の言を取れば、“怒り”が弱まってはいないからなのではないか。
とはいえ、怒りを怒りとしてぶちまけているのではない。
怒りを自分の中から取り出して、初めはweb上に、そしてついには紙の上に文章として乗せることで、怒りを、その怒りの基となった恋を、供養しているのだ、と感じた。
「全部を賭けない恋がはじまれば」は、文学であり、経典である。
言い過ぎか。
ふと翻って、稲田万理さんが“怒り”を基に文章を書くのなら、私は何を基に書けるだろう?と考える。
正直、これまで何に対してもあまり怒ってはこなかった。
単発短時間怒りが沸くことはあるけれど、それはすぐに蒸発してしまう。
度々抱えながら、心に沈んで残るもの。
私にとって、それは“悔い”だ。
“悔い”を基に何か書けるだろうか。
稲田万理さんのように…は難しくとも、何某かの形にし切れるだろうか。
でも、私の“悔い”も、どこかで供養してやりたい。
創作という経典に仕上げて、私は“悔い”を文学にする。
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サインに添えられたSEXY♡の真意は?
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勝手に尻を叩かれた気分に
記憶から消せない“悔い”を物語にしよう。
ところで、稲田万理さんは、本当に「全部を賭けない恋がはじまれば」と願っているのだろうか。
一つひとつの物語をなぞった時、むしろ作中の“私”は恋に全部を賭けたいともがいているように感じる。
全身全霊を賭けて恋をしたい、愛にしたい。
その想いに「のに」がついてきてしまうもどかしさこそ、稲田万理さんの抱える怒りなのではないか。
ならば初めから「賭けない恋」にしたい。
それなのにいつの間にか…
全部を賭けない恋なんて、手元に何も残さない。
それなのに…
生で稲田万理さんにお目にかかったからこそ、その生の魅力に触れたからこそ、うまく言えないけど、もどかしい。
もしかしたら、私が稲田万理さんに恋をしたのかもしれない。
全部を賭けない恋がはじまれば。
そう願うのは、そう願っていないとうっかり全部を賭けてしまう自分が怖いから。
そうなのではないだろうか。
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全部を賭けない恋がはじまればいいな。