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王道に潜む売れたわけ【鬼滅の刃】

空前の大ヒットという範疇を遥かに越え、社会現象を巻き起こしている「鬼滅の刃」。

前回は売れた理由を外=社会情勢に求めて書いた。

今回は内=鬼滅の設定やストーリーにある売れた理由を探っていきたい。

なお、文中ネタバレする。
これから鬼滅の刃に触れる人はご注意いただきたい。

とりあえず確認しておきたいこと。

「鬼滅の刃」の骨格は、コミックスの王道of王道であるということ。

・何の変哲もない日常が一つの大きな悲劇によって壊されてしまう。
→炭治郎の家族が人喰い鬼に襲われる。

・悲劇の中に微かでかつ厳しいものだが希望がある。
→妹が、鬼にはなってしまったが生きている。

・別の世界に導く存在との出会い
→冨岡義勇との邂逅、鱗滝左近次への師事

・実は主人公には秘められた力がある。
→炭治郎の嗅覚

・最終目標となる敵(ボスキャラ)がいる。
→鬼舞辻無惨

・難しいとされる関門を人外の者に助けられて乗り越える。
→最終選別に臨むための試練を、亡くなっているはずの錆兎と真菰の支えを受けて乗り越え、その仇である手鬼を倒して次のステージへ進む。

・仲間と出会ってさらに進む。
→善逸、伊之助の存在。この二人が炭治郎とは全く異なる個性、能力、生い立ちをもつことも王道

…挙げたらキリがない。
とにかく骨格は典型的と言っていいほどの王道っぷりなのだ。

しかし、その王道っぷりゆえに、世代を選ばずに社会現象にまで大ヒットしたのも、また事実。

しかし、骨格が王道だからこそ、これまでの作品と差別化される設定の妙ももちろんある。以下、列挙していきたい。

大正時代という時代設定

鬼滅の舞台は大正時代の東京。

これはなかなか絶妙だと思う。

鬼という存在が、関係ない人には全く関係ないというのもけっこうキモである。
江戸時代では鬼がもう少し身近な存在となりかねないし、明治時代では帯刀の異端性がやや薄い。昭和まで来ると時代が近くなることと戦争との兼ね合いを書かないことが難しい。
大正という、近代史上注目度が低めの時代を舞台に据えたことは、絶妙なリアリティを物語に与えている。

鬼がもつ性質

人喰い鬼も元は人である。

鬼滅の刃において外せない重要な設定だ。

全くの人外の化け物ではなく、人としての苦悩や後悔、嫉妬や怨嗟が鬼舞辻無惨に利用されることで変貌した姿が鬼だ。
その鬼舞辻無惨もまた、人であった頃の怨念を抱えている。

そして、鬼は不可逆の存在である。
日輪刀で首を刎ねて葬ることでしか鬼たらしめるものから解き放てない。

わけのわからない化け物を勧善懲悪で倒すのではなく、人を鬼にしてしまった様々な怨念の弔いとしての鬼狩り。

特に、炭治郎は、自らの妹が鬼になってしまったにも関わらず、鬼のもつ悲哀にしっかり向き合い、弔う。禰󠄀豆子が人間に戻ることを信じて…

禰󠄀豆子が人間に戻れたのは、他の鬼が抱えていた怨念を一切もっていなかったことも大きいだろう。炭治郎が最後の最後で鬼にされながら戻ったのも然り。

人のもつ怨念の恐ろしさと儚さを伝える鬼の存在が鬼滅の大切な要素でもあるのだ。

終焉に向かっていくストーリー展開

禰󠄀豆子を人に戻すことを目標に進む炭治郎

鬼舞辻無惨を倒すことを目標に進む鬼殺隊

この目標設定ゆえ、物語はしっかり終焉に向かって進んでいく。

連載終了の際には、人気絶頂の時期ゆえ、鬼滅を連載終了に追い込んだ要因について様々な憶測が飛んだ。

しかし、完結まで読み切って感じるのは、過不足なく完結したという潔さだ。

たしかに売れている。
しかし、鬼滅はこのストーリーでこの流れでこの段階をもって完結しなければいけなかった。

そういうストーリー設定なのだ。
それは物語のスタートから運命付けられ約束された終焉なのだ。

もし、大ヒットを受けて終焉を先に伸ばすようなことになれば、物語の矛盾は高まり、白けてしまうだろう。

鬼滅の刃は、多くの犠牲を払いながら、鬼舞辻無惨が存在も精神も滅びることで終焉する。

物語の核になる“柱”までもが次々と命を落とすのは、一見やりすぎにも見えるが、それこそが鬼舞辻の強さと恐ろしさの描写なのだ。

多くの犠牲を払ったからこそ、ここで終焉しなければいけなかった。

鬼滅の刃は、完結するべくして完結したのだ。

その潔さが余韻を生み、まだしばらくは社会現象として続くだろう。

まだ語りたいことがあるので、また項を改めて。

期待は乞わない。

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