「おままごと」すらまだだった
「メモの魔力」(前田裕二・著)や「佐藤可士和の打ち合わせ」(佐藤可士和・著)などのヒット作を手がけた編集者・竹村俊助さん。
Twitterもnoteもフォローしているのだけど、先日Twitterでご自身の過去のnoteエントリをあげてらしたので拝読した。
こちら↓
なんというか、私は竹村さんに今後の人生について相談したっけ?という気になった。
それくらい、自分に向けられたような文章だった。
特にそう感じたのがこの一文である。↓
すでに成功しているもの、世に受け入れられているものと自分のチャレンジを比べてしまえば、どうしたって自分の挑戦は「しょぼく」思えてしまう。「こんなもの意味ないのではないか」と早合点してしまう。そこで、せっかく始めたチャレンジをやめてしまう人も多い。
ハイパー児童館ぷれいすのことを考える時、いつも思うのがこれだ。
「思いばっかりで、結局やってもしょぼくしかならないんじゃない?」
いろいろなしがらみと妻のブレーキがあって、チャレンジを始めてすらいないのに、いや始めていないから、しょぼくしかならないならやんない方がいいかなとか言って逃げる。
そう、ハイパー児童館ぷれいすに関しては、まだおままごとさえ始めていないのだ。
文中では「中二病であれ」という話も出る。
実は、私は中二病の時期を過ごさないまま大人になってしまった。
熱烈にやりたいことを見いだせない中学生は、見いだせないまま高校時代を過ごし、なんとなく教師を目指して大学に入り、ただただ楽しい学生生活を終え、教師以外にこれといってアテもないので教採浪人という名のフリーターになり、少し亜流な形で教育に職を得た。
で、結婚して子宝にも恵まれた。
そしたらそのまま平穏で平坦な人生をのんびりやり過ごせばよかったのに、仕事を通して新たな熱意が芽生えてしまい、人生で初めての熱烈にやりたいこと=ハイパー児童館ぷれいすを夢想するに至った。
夢を追いかけるには手枷足枷しがらみに絡まった状態で、遅れてきた中二病にかかっているような感じである。多分。
できるだろうか。
たとえおままごとでも。
そんな思いに駆られながら最後まで読むと、こんな結びに出会う。↓
どうせ「おままごと」なら「最強のおままごと」をすればいいのだ。バカにされても、意味ないよと言われても、ぼくらは歩みを止めてはいけない。
死ぬこと以外かすり傷ってホントかな?
今、すごく現実から逃避したい状況で、しかもしばらく続く。下手すればもっと厳しい状況になるかもしれない。
だからますます中二病が酷くなる。
「家族を露頭に迷わせてはいけない」という父としての使命感と、「社会にハイパー児童館ぷれいすは必要だろう?オレがやらなきゃ誰がやる?」という謎の使命感の間で引き裂かれそうなほど揺れている。
いつか最強のおままごとを始めなければ。
その「いつか」はいつなのか?
モタモタしてたら、先に命が尽きてしまうぞ!