手探りの日々 見えてきた理想を追う【インタビュー②】
中高時代に触れた職業像が初期衝動
――ノヴァークスのミッション、カネの描くビジョンは、トレーナーとしての経験から生まれていることを前回は聞きました。トレーナーとしてのキャリアを聞く前にそもそも、なった経緯は?
中学の時、職業体験みたいなのに行ったの覚えてる?おれはフィットネスクラブを選んで、そこでトレーナーの仕事に初めて触れて。体験だから高度な何かをやったわけじゃないんだけど、ジムのマシンを触ったり、スカッシュとかをやらせてもらって「こういう業界いいな」て漠然と思ったのが一番最初かな。
高校に進んで、入ったバスケ部にはトレーナーが来ていた。ウエイトトレーニングや怪我のケアを見てくれていて。メニューを組んでもらって、それをわからないなりにやったりしてる中で「あ、中学の時にフィットネスジム行ったな」てことも思い出して。それでその後に進路を考えた時に「トレーナーになりたい」て思ったんだよね。
今思えば、中学校の時にぼんやりと持っていた将来像が、高校生活で具象化した。だから大学進学って選択肢もあったけど、きょうだいも多いので早く社会に出たほうが家族のためにもなるし、就職率が高いという話を聞いて、2年制の専門学校に進んだんだよね。
――職業体験、「総合的な学習」で行ったね。俺たちはゆとり世代のファースト・ジェネレーションで、当時は子供ながらに「教える側も定まってないふわついた授業だな」と個人的には思っていたけど、まさかこんな近くで成果が出ているとは思わなかった笑。進んだ専門学校で、実務的な知識を得始めると。
15年以上前の話で、当時はフィットネスクラブにトレーナーが常駐していることすら一般的じゃなかった。それこそ「パーソナルトレーナーをつける」って行為も、そんなのアスリートしかつけないでしょ?みたいな。今とは市場の規模も、人々の捉え方も全く違った。
トレーナーと言えばチームに所属して、柔道整復や鍼灸とかのメディカルなことも扱える人材が求められていた。一人で十何人をみないといけないような。そこで「自分のやりたかったことって、もう少し密に個人とかかわることだよな」と思って、卒業と同時にパーソナルトレーナーの資格を取った。そっちの方が社会に早く出れる、というのもあって。
――そして専門を卒業して働き始める。
パーソナルトレーナーをジムに派遣している会社に入った。そこで杉並区・下井草の店舗に通って、自分でビラを作り配って、営業をかけて。
そのジムとはあくまでも業務委託契約だから、「場所は使っていいから自分で好きに営業していいよ」って形だった。
――へえ、そういうシステムだったんだ。そこで①で話していた「ファストじゃないつきあい方」につながる考え方も醸成されていった?
そう。「自転車操業は大変だな」てジレンマにも陥りながら、結局4年くらい続けた。その間に違う店舗の立ち上げに携わったり、地域も変わったりしながら。でも、いまだにこの時期からみさせていただいているお客さまもいて、「当時はほんと生意気だったよね」なんて言われる笑。ありがたい話だよね。
――24歳くらいまでそういうサイクルで働いていたと。
気づいた英語の必要性が次の扉を開く
この業界は圧倒的に英語の情報が多いこと、所属した会社がそうした情報や外部セミナーとの接触を積極的にはしないことが見えてきた。なので、自分で情報を取りに行くしかなかった。
それで、正しく膨大な情報を取捨選択できるように、英語を身につけようと思って。
一人ひとりのお客さまとじっくり向き合えるようにするためにも、自分自身の価値を高める必要を感じた。それをせず、薄利多売でセッションの数を増やすだけで売り上げを得ようとすると、自分が疲弊する一方で。本来はこちらが元気を与えなきゃいけない存在なのにさ。
――言い得て妙だね。「個に向き合いたい」がずっとカネの中にあるのも分かってきた。英語は、中学時代に同じ個人塾に通っていた者の意見としては、カネは決していい生徒ではなかったな笑
英語の勉強以前に、まずは英語の勉強の方法からもう一度学ばないといけなかった。セブ島に2カ月くらい滞在して、発音の仕方や初級レベルの文法から学び直して。1日14、15時間は勉強したかな。
――セブ島を経て、カナダ・トロントに1年間の留学。そして帰国し次のステップに進む中で今のカネになってくるのか。
③に続く
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