3.3声明の概要

昭和40年、京都府立ろう学校で生徒たちは学校の授業の進め方と教師たちの態度に不満を募らせていた。
授業は聞こえる人たちである教師らによって口話で行われていたため、聞こえない生徒たちは教師の唇の形を読み取りながら授業を受けていた。読み取りが難しく授業のすべてを理解するのが困難なうえに、読み取れた生徒に合わせて授業が進められてしまい、付いて行けない生徒は置き去りにされていた。しかも、聞こえる教師たちは聞こえない生徒らを見下して理不尽な態度を取っており、生徒を疑ったり、質問に真摯に答えずにはぐらかすことがあった。
そのために教師と生徒たちの間にトラブルがいくつか起きていた。和裁の宿題が多すぎて女子生徒と教師が衝突したり、プールの清掃をめぐって生徒が濡れ衣を着せられたり、重要な学校行事である写生会が卓球大会と重なっていることで生徒が日程変更を要求しても拒否されたりしていた。
これらの問題について生徒会が学校側に話し合いを要求したが、学校側は話し合いに応じると約束しながらも行事に伴う忙しさを理由に延期を繰り返し、そのまま数ヶ月が過ぎた。そして昭和40年11月に生徒会は、写生会の日程を変更できないなら、その理由を学校側から生徒全員に対して説明してほしいと詰め寄った。すると学校側の態度は一転し、生徒会の要求は失礼だと言って感情的に反撃した。
それを見た生徒たちは高等部の生徒全員で写生会の参加拒否を決め、自分らの考えを文章にまとめたビラを作って配った。しかし、それが学校側の怒りを買い、生徒側と学校側は膠着状態に陥ってしまった。その状況を打開するために生徒会長が京都府ろうあ協会に手紙を送り支援を要請した。
ろうあ協会の対応は早かった。多人数で学校に乗り込み生徒たちを擁護し、さらに教育委員会あてに質問状を送付したうえで、昭和41年3月3日に京都府立ろう学校同窓会との連名で声明文を発表した。「ろう教育の民主化をすすめるために―「ろうあ者の差別」を中心として」というその声明には、これら一連の出来事をろう者への重大な差別と捉え、それを許さない姿勢がはっきりと表れている。ろう学校、教育委員会、ひいては文部省が問題解決に取り組むことを要求し、すべての差別問題を解決して、ろう者の失われた人権を取り戻すことを要求している。そして、それを日本中のろう者の届かない抗議を代表するとした。これを3・3声明という。
                               以上

参考資料 
声明文「ろう教育の民主化をすすめるために―「ろうあ者の差別」を中心として」
DVD「壁を拓く 社会を開くⅠ 昭和30年~40年代のろうあ運動」

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