国立療養所多磨全生園と、国立ハンセン病資料館に行ってきました

東京都東村山市の、ハンセン病(らい病と呼ばれていました)患者の療養施設国立療養所多磨全生園(こくりつりょうようじょたまぜんしょうえん) と、そこにある国立ハンセン病資料館に行ってきました。凄まじいハンセン病差別の歴史と、今もまだある、そこから続く今と、それでも人生はそこにあることの尊さにあらためて出会います。長くなりますが、ぜひお読みください。もし、興味を持っていただければ、お話もしたいです。

国立ハンセン病資料館の入り口

多磨全生園
https://www.mhlw.go.jp/.../kenkou.../iryou/hansen/zenshoen/

国立ハンセン病資料館
https://www.nhdm.jp/

今「菊池事件」という、すでに死刑が執行されてしまった容疑者不在の事件の再審請求が行われています。まさに今の話です。

菊池事件は、1951年(昭和26年)に熊本県菊池郡で発生した爆破事件および殺人事件です。被告人はハンセン病患者であり、差別に基づく冤罪であったとの指摘があり、後に証拠品の複数で不正が行われていたことが明らかになっています。裁判は「特別法廷」という国立療養所菊池恵楓園などに設けられた特別法廷で審理され、男性は無実を主張したが57年に死刑判決が確定。異例の速さで死刑執行が行われました。この特別法廷での裁判は「違憲」判決が出ています。

東京に行く少し前に、菊池事件弁護団共同代表の方のお話をネットで聞いて、改めてハンセン病差別のことを考えていたのもあって、エイヤッと行ってきました。

(ダイジェスト動画)違憲のハンセン病療養所「特別法廷」判決が揺るがす死刑制度の正当性
https://www.youtube.com/watch?v=siiP7SX7lvw&t=19s

特別法廷「違憲」確定へ、元患者側控訴せず 熊本https://www.nikkei.com/article/DGXMZO56670950R10C20A3ACYZ00/

「菊池事件」再審めぐる審理 刑事法の専門家の証人尋問https://www3.nhk.or.jp/.../kumamoto/20241001/5000023491.html

高校生の頃に北条民雄の「いのちの初夜」を読んでから、私にはそこは特別な場所でした。多磨全生園は北条民雄が1934年から亡くなる1937年まで入所していた場所です。北海道でこの本に出会った私は、武蔵野の季節は、北条民雄の目を通したものから始まっていました。大岡昇平の小説「武蔵野夫人」も読んでいたけれど。悲しみと諦観の風景を心にとどめながら、のちに井の頭で暮らすようになって、新たに武蔵野の自然に出会ったのです。

納骨堂
尊厳回復の碑 「断種」のために葬り去られた胎児の慰霊碑

今回も、晩秋の武蔵野はとても美しかったです。しかし自然が美しければ、彼らはそこに救いを見つけることができたのか、全生園の患者たちが森を育てたその思いはどこに宿るのか、墓の代わりに木を植えたその祈りはどこに帰っていくのか・・・多磨全生園では収容された方たちが植えた『3万本の樹木や春・夏・秋に咲く152種の草花、歴史的・史跡建造物、県木の森、数々の小公園など、全生園全体を「人権の森記念公園」として残し、国民共有の財産、憩いの場所として保存されるよう東村山市をはじめ、緑を守る市民協議会、NPO法人・東村山活き生きまちづくりなど多くの市民団体と共に活動を続けております。』
http://jinkennomori.com/wp/

北海道にいて、屈託なく未来を思って森づくりをしている私は、呆然と立ち止まり空を仰いでしまうのです。

ハンセン病は、「らい菌」という細菌が引き起こす感染症で、末梢神経や皮膚に損傷や顔貌の変化が現れることから、古今差別を受けていました。日本では1931年に「癩予防ニ関スル件」が改正され、全ての患者を強制的に隔離する方針で全国に「強制隔離」のための施設をつくります。そして、「無癩県運動」という、都道府県ごとに患者を炙り出し徹底的に隔離する政策がとられました。「ハンセン病は恐ろしい伝染病である」というイメージが定着、本人だけでなく親族にまで差別が広がりました。そして「断種」という凄まじく悲しいことが行われていました。

しかし、ハンセン病はとても感染力が非常に弱い病気だったことは早くから知られており、この多磨全生園園の長い歴史の中でも、医療者、看護者、職員、誰1人も発病していないそうです。さらに、戦後まもなく、アメリカでプロミンという薬が開発され、ハンセン病は治る病気になりました。療法の確立により隔離政策の廃止が加速していきます。それなのに。

1952年、世界保健機関(WHO)が日本に隔離政策の見直しを勧告しています。しかし、日本政府はそれに全く耳を貸さず、偏見と差別を変えることなく、1953年には、新たに「らい予防法」という法律が成立し、強制隔離は続けられます。(この日本の姿勢は今も同じ、女性差別問題や夫婦同姓を義務づける日本の民法の問題への勧告に対する対応も同じです)

多磨全生園は関東一円の「強制隔離」の場所として作られました。「らい予防法」には退所規定がありません。ハンセン病になったら最後、この施設の中で一生を終えるしかなかった。それをずっとずっと放置し続けたという、どうしてこんな愚かな人権意識なのでしょう。

日本では1996(平成8)年に「らい予防法」が廃止されるまで強制隔離が続きました。ハンセン病が治る病気になってからも、半世紀にわたって強制隔離が続けられていたことになります。

多摩全生園は 1970 年代には「全生園まつり」などがはじまって、少しずつ地域へと開放され、地域住民が全生園を訪れるようになってきたそうです。実は私も、1990年頃に通りすがりにお祭りをやっているのを知って、ちょっとだけ車をとめてもらって眺めたことがあるのだけれど、あの時ゆっくり見学しなかったことを残念に思っていました。それで今回エイヤッと訪ねてきたのです。

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1993年、全国初のハンセン病資料館である高松宮ハンセン病記念館が全生園内に開館。

1996年「らい予防法」廃止。自社さ政権の厚生大臣、菅直人が「らい予防法」の廃止が遅れたことを謝罪。「旧来の疾病像を反映したらい予防法が現に存在し続けたことが、結果としてハンセン病患者、その家族の方々の尊厳を傷つけ、多くの苦しみを与えてきたこと」等について、「誠に遺憾とするところであり、行政としても陳謝の念と深い反省の意を表する」と述べ、衆参両厚生委員会も、廃止法の審議の際の附帯決議において「『らい予防法』の見直しが遅れ、放置されてきたこと等により、長年にわたりハンセン病患者・家族の方々の尊厳を傷つけ、多くの痛みと苦しみを与えてきたことについて、本案の議決に際し、深く遺憾の意を表するところである。」とした。

その後、「らい予防法の廃止に関する法律」が公布され、「癩予防ニ関スル件」から90年近く続いた国の隔離政策が正式に廃止された。

2001年5月11日、熊本地方裁判所において、ハンセン病元患者らが国を被告として提起していた「らい予防法」違憲国家賠償請求訴訟につき、国の責任を全面的に認めて賠償を命じる判決が言い渡され、国の控訴断念により、同判決は同月26日に確定した。

小泉首相(当時)は5月25日に内閣総理大臣談話を発表して、ハンセン病患者・元患者に謝罪するとともに、問題解決に全力を尽くす決意を表明した。また、衆議院では6月7日、参議院では6月8日に「ハンセン病に関する決議」を採択して、患者・回復者に謝罪。6月22日には、「ハンセン病療養所入所者等に対する補償金の支給等に関する法律」が施行された。

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・・・とここまで書いてきたけれど、「とりえず書きたいことをかいつまんで」と思っても、全く書ききれないです。今回訪問しての自分の感想、思いにまで、まだ全く届きません。まずは「行ってきました」という報告です。

最近では映画「あん」、樹木希林さんの遺作なのかな、ハンセン病と多磨全生園を背景とした物語りでした。園内に「あん」の碑もできていました。

知っていますか? ハンセン病問題
https://www.youtube.com/watch?v=5GgIcVND9LI

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