妻だけど、母だけど、恋をしました。(その3)
真っ暗闇の中を、バスが無言で走っていく。
いつもならそろそろ彼に「おやすみ」と言って布団に入る時間だけれど、今夜は不思議と目が冴えて、眠れる気がしなかった。慣れないバスの中だから、というだけではないのはわかりきっている。
(なんて大胆なコト、しちゃったんだろ…)
予想通り夫は、「旅行に行く」というわたしの言葉を訝ることもなく、二つ返事で了承した。
「あぁ、いいんじゃないか。たまにはゆっくりしてきたら」
夫の優しさがちくりと刺さったまま、ジンジンと痛みが引かない。
ぎゅ。ワンピースを握りしめる。レモンイエローのワンピースも、7センチもあるハイヒールも、今の自分にはひどく不釣り合いに思えた。
それでも独身の頃に一番のお気に入りだったコーディネートは、自分を若く、魅力的に見せてくれる気がした。「もう着られない」と何度思っても捨てられなかったのは、この日のためにずっと出番を待っていたようにすら思える。
――彼は来てくれるだろうか。
来てくれたとして、幻滅されてしまわないだろうか。
傷つくかもしれない。ズタズタになるかもしれない。けれど後悔だけは絶対にしないし、したくない。
胸の痛みはまだ引かない。ぎゅっと目を閉じるけれど、今夜はとても眠れそうにない。
***
「アイちゃん?」
アイちゃん。わたしのことをそう呼ぶのは、母と親友のマナミ。あとは、彼だけだ。
「……はじめまして。って変かな」
彼は、ほぼイメージ通りだった。すらりとした長身、肌の色は白く、清潔感のある黒髪を短く切りそろえている。年齢は、たぶん少し下だ。
シャツからのぞく腕には適度に筋肉がついている。
(細いけど、けっこうたくましいんだな)
そこにうっすらと浮き出た血管も、とてもセクシーだった。
「こんにちは。タカです」
タカ。それがゲーム内の彼の名前。本名も教えてもらったけれど、タカの方が呼びやすいからそのまま呼ばせてもらうことにした。
「アイです。はじめましてっていうのもおかしいけど…はじめまして」
毎晩のように画面越しにチャットしていたけれど、こうして顔を突き合わせて話をするのははじめて。タカは、ゲーム内の印象とあまり変わらないような気がした。
タカに会えた。
やっと会えた。
ただそれだけで、心が踊る。
恋を知ったばかりの少女のようだと、我ながら少し笑えた。
そのあとわたし達は食事をして、お酒を飲んで、当然の流れのようにバーへ入った。
明かりが落ちた店内は「大人」の雰囲気で、自分だっていい年すぎるくらいに大人なのに、なぜだかものすごく場違いなような気がして落ち着かない。
何組かいる客はすべて男女のペアで、その場に漂うねっとりとした空気にどぎまぎしてしまう。
そんな中でも、タカは一度も触れてこない。そんなあたりまえのことに、ひどく落胆している自分に驚く。
(でも、これでいいんだよね)
どうしてドラマチックな展開が起こるなんて、思い込んでいたんだろう。
普通に考えれば、彼とわたしは単なるゲーム友達。ただ会って、ちょっと話して、「また、ゲームでね」とバイバイ。それが一番自然じゃないか。
(何かあるかもなんて、少しでも期待してたのがはずかしいな)
子持ちのおばさんが、つい夢を見てしまっただけ。でもこれでいい。家族に対しての裏切りも、最小限で済んだのだから。せめて罪滅ぼしに、おみやげをたくさん買って帰ろう。
片思いは片思いのまま。キレイな思い出とともに昇華させればいい――
そう決意した、そのとき。
彼の手が、わたしの手と重なった。
その4に続くかもしれない・・・
→続きました。その4はコチラ(最終話です)
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