いくつかの顔
本屋で、息子が「あ、天気の子」と声をあげたので視線の先をたどると、新海誠監督の最新作、天気の子の主題歌らしきCDが売られていた。ジャケットに、でかでかと「天気の子」と書かれている。
「ああ、本当だね」とそこを通り過ぎようとしたら、息子がぽつりと「天気の子、観たいなあ」なんて言い出した。え、珍しい。どうした?
うちの子は、(親もだけど)そんなに映画は観ない。見るとしてもせいぜいプリキュアやドラえもんくらいだったから、息子の発言にはたいそう驚かされた。わたし自身が、いわゆるドラえもん系の映画しか観ない子どもだったからかもしれない。
いや、「観ない」だったのか、そもそも「知らない」だったのかはわからない。わたしの親は、子どもに与える情報をかなり制限していたきらいがあるので……。
だから、息子がこんなことを言い出したのにはびっくりしたけれど、尊重したいとも思った。それで急遽映画館に連れていって、2人で仲良く天気の子を観てきた、というわけだ。
たったそれっぽっちのことだけど、所詮親が見ていられる子どもの姿なんて一部なんだなと痛感した。わたしの想像の及ばないところで、彼と彼女はいろんなことを考えているのだと。だからなるべく、「キミはこうでしょ」って決めつけないようにしないとな、と。
10代の頃、母と並んでテレビを見ていた。ちょうど同年代の少年少女が、抱えている悩みについてみんなであれやこれやと話す番組だったと思う。「死にたい」と話す子もいた。当時わたしは、同じように感じることも多かった。だから彼らの話を黙って、真剣に聞いていたんだ。すると母が、ちょっと笑ってこう言った。
「ここになおがいたら、何喋るんだろうね。とりあえずその前髪、ピンで留めなよ、とかかな」と。
母に悪気はないことはわかっていた。しかしわたしはそのとき、雷で撃ち抜かれたほどの衝撃を受けたのだ。
母にとって、この子たちとわたしには共通点がまったくないこと。わたしが「死にたい」と思うほど悩む夜があることを、母はこれっぽっちも想像しないことを知って。
そしてわたしはどうしたか。泣いたか、怒ったか。いや、そうじゃない。曖昧に笑いながら「そうかもね」と答えただけだった。
それなら、そうあろう。母の前で、大人の前でわたしは、「心の中に闇を抱えたことなんてありません」という顔をしていよう。それがきっと、みんなのためなんだ。……そう、思いながら。
子どもには、そういうところがある。彼らは大人が思っているよりずっと聡く、繊細だ。大人と同じように、いくつかの顔を使い分けることだってできる。だから、親のわたしに見せてくれる顔は子どものすべてじゃないことを、理解しておかねばならないと思う。
けれども、できる限りたくさんの顔を知っておきたいし、親のなにげない言動が理由で子どもに「この顔は親には見せるまい」と思わせてしまうのは避けたいな。