
妻だけど、母だけど、恋をしました。(その4・最終話)
久しぶりにお酒を飲んだせいだろうか。
全身が熱く、ぼうっとする。
そんなほてったてのひらに置かれたタカの手は、ちょっとだけひんやりとしていて。
なんだか気持ちがいい。
(え、えっ?)
こんな状況、もう何年も陥っていない。
どう反応したらいいのかわからないし、もしかしたら夢なんじゃないの?
彼の手は少しカサついていて、それでいて男の人らしく、ゴツゴツと骨ばっている。
画面上で話していたときには絶対に感じることのできない、生きた人間の感触だ。
「思ってた通り。かわいい人だね、アイちゃんって」
タカが口を開く。はじかれたように、わたしは彼の顔を見る。
微笑んでいるけれど、冗談を言っているようではない。
頬がちょっぴり赤く見えるのは、お酒のせいだろうか。
「かわいいなんて。もうそんなトシじゃないって、わかってるでしょ」
好きな男に褒められて、イヤな気になる女はいない。
それでもこんな言葉が出てしまうのは、たぶん傷つくのが怖いから。
(年を取るって、臆病になるってことなんだな……)
と、わたしの中に亡霊のように生きている、「女」のわたしの声がした。
そうよ。年を取って、家庭を持って、守るべきものができると、臆病になるの。
若い頃のように、無鉄砲ではいられないの。
(じゃあ、どうしてここまで来たの?)
また、声が聞こえる。
(守りたいものを捨ててでも、欲しいって思っちゃったんじゃないの?)
うるさい。家族以上に大事なものなんて、欲しいものなんて。
(ない……よね?)
でも、現にわたしは家を飛び出してきてしまった。
他の誰でもない、この男に会うためだけに。
「アイちゃんがいくつなのかは知らないけど、そんなの関係ないでしょ」
タカが、手の甲にキスをする。
おとぎ話のプリンセスになったみたい。
胸が、トクンとはねた。
(こんなところに、キスされたのはじめてかも……)
生まれてはじめてネイルサロンへ行って整えてもらった指先。
品の良いピンクベージュをベースに、いくつかストーンを乗せてもらった。
おばさんの若作りに見えないように、家事のジャマにはならないように……
これが今のわたしにできる、精一杯のおしゃれ。
もちろん、夫はまったく気づいていなかったけれど。
「かわいい」
彼が触れる指先が、熱い。
心臓が、バクバクとうるさい。
夫との前にも、何度か恋はした。
けれどこんなにも熱っぽく、愛おしげに見つめてくる男を、わたしは知らない。
(こんなにまっすぐ見つめられたこと、ないよ…)
それでも、こんな状況でも、わたしの中の一部は妻であり母だ。
「これ以上はダメ」
と必死で訴えかける声が、遠くで聞こえる。
ーー聞こえるのに。
女のわたしは耳をふさいで、聞こえないふりをし続ける。
彼ともっと近づきたい、彼にもっと触れたい。
女の本能が昂ぶって、仕方がない。
誰か止めて、と思うのに、止まりたくない。こんな気持ちははじめてだ。
「そろそろ、出ようか」
わたしの気持ちを知ってか知らずか、タカは涼しい顔に戻って席を立つ。
「あ…う、うん」
あまりに突然すぎて、ちょっと間抜けな声が出てしまった。
(ドキドキが、止まらないよ…)
彼の触れていた指先が、まだ熱を持っている。
――足りない。もっと。
体が、そう言っているかのようだ。
店の外に出ると、タカはまるでいつもそうしているかのように自然に、するりと手を絡めてきた。
振りほどかなきゃヤバイ、このまま流されてしまう。
と思うのに、体は正直だ。
されるがまま、グッと体を引き寄せられて、彼の顔がすぐ近くにくる。
ふわり。
夫のものではない、今まで嗅いだことのない、”他の男”の香りに、クラクラした。
タカは一瞬まわりを見回してから、
「キスしてもいい?」
耳元でささやいた。
「……っ」
ダメ。
ダメだって、言わないと。
だってわたしには夫も、子どももいる。
でもどうしても、拒む言葉が出てこない。わたしは、このひとに、溺れてしまいたいのだ。
言葉に詰まって黙っていると、わたしを見つめるタカの瞳が、ほんのちょっとだけ不安げに揺れる。
けど、次の瞬間には
「その顔、ずるいな」
ちょっとだけ困ったように、そう言って。
そしてとびきり甘く微笑んで、彼はわたしにキスをした。
(…ああ)
やってしまった。
不思議と、後悔はない。
わたしはまるで、そうなることを望んでいたように、自然に目をつぶっていた。
(まるで、じゃない)
わたしは、タカとこうなることを望んでいた。
タカに触れてほしい、女として扱ってもらいたい。
その気持ちだけを抱きしめて、ここまで来たんだから。
夫とは、もう何年もキスなんてしていない。
決して嫌いではないけれど、夫はすでにわたしの中で、男ではない。
今触れているこのひとは、たしかに男の人で。
そしてわたしは、たしかに女だった。
妻でもない、母でもない。ただの、わたしという女だった。
タカの唇が離れると、お互いのまつ毛が触れるくらいの距離でうっすらと目が合う。
そしてもう一度、今度はさっきよりも強く、唇が押しつけられた。
――どれくらいそうしていたのか。
彼のたくましい腕に抱かれながら、彼のついばむようなキスを受けながら、このまま時間が止まってしまえばいいと願った。
帰りのバスになんか乗りたくない。
現実になんか戻りたくない。
女のままでいたい。
全身が、熱い。
奥の方から、熱が、感情が、あふれてこぼれそう。
それはもう何年も、忘れていた感覚だった。
タカの舌がぬるりとすべりこんできた。
その途端、わたしの中から欲情がこぼれだす。
彼の動きに必死に応えるように、わたしも舌を動かした。
あたたかくて、やわらかくて、すごく気持ちがいい。
このまますべてをからめ取られてしまいたい、そう思わせてくれる、ひたすらに甘くて、情熱的なキス。
理性が飛ぶ。
今すぐここで「抱きたい」と言われたら、躊躇なくブラのホックをはずせる自信があった。
ふと、
(たばこの味がしないキスだ……)
そう思った、瞬間。
脳裏に浮かんだのは、たばこをふかす夫と子どもの笑顔だった。
浮かんでしまったら最後、もう、引き剥がせない。
友達と旅行と言って出てきたわたしを、笑顔で送り出してくれた夫、子ども。
なのにわたしは今、何をしているの――?
「……ごめんなさい」
気づけば、タカの胸を押し返していた。
このひとに会いたくて来た。そしてわたしはこうなることを、この後起こるであろうことを、期待していた。
けれど――
「家で、夫と子どもが待ってるの。もう、帰らないと……」
タカが何か言いかけたような気がするけれど、わたしはもうそこにはいられなくて。
そのまま回れ右して、夜の街に向かって走る。
これ以上彼の顔を見ていると、みっともなく泣いてしまいそうだった。
(……ごめんなさい)
誰に?
わたしは誰に対して謝っているんだろう?
まだ熱を持った体と、脳裏にはりついた家族の顔と。
どこまでもアンバランスなこの状況に、いっそ消えてしまいたいと思った。
***
(いつまでも、女でいたいなんて……ね)
いつだったか、雑誌で読んだフレーズ。
『結婚しても、ママになっても、女の子でいたいもんっ!』
そう書かれていたのを、今になって思い出す。
(わかるわかる、とうなずいたものだったけど)
「ママ」は、本気で女になろうとしてはいけなかったのだ。
女になったら、男を求めてしまう。
見るだけじゃなくて、話すだけじゃなくて。
触れてほしいと、一つになりたいと思ってしまう、どうしたって。
(……ごめんなさい)
バスが無言で走る。
窓の外は、来たときと同じように真っ暗だ。
一線は越えなかった。
とは言えこれから一生、この罪悪感を心に住まわせて生きていかなくてはならない。
それでも……それでも。
(一度だけでも、会えてよかった)
わたしはどこまでも、愚かな女だ。
もう二度と、禁断の果実に手は伸ばさない。
けれど抱いた恋心は、たしかに本物だった。
思い出だけをそっとしまって、これからは慎ましやかに生きていこう。
(起きたら、もう全部いつも通り)
そうしてわたしは、ぎゅっと目をつぶった。
***
家に帰ると、笑っちゃうくらいに「いつも通り」だった。
子どもはもちろん、夫ですら、わたしが他の男と会っていただなんて微塵にも疑っていない。
安心すると同時に、なんだか腹が立つ。
(わたしにはもう女としての魅力がないと思ってるのね?)
だから不倫なんてできっこない、そうタカをくくっているのだろう。
夫はいつものように、換気扇の下でたばこを吸う。
(また部屋がヤニ臭くなるじゃない)
夫の吐く息はいつもたばこの匂いがして、不快だ。
とてもそばに行く気にはならない。
恋人だった頃は、その匂いすらも愛おしく感じたものだったけれど。
今は、ただただ不快なだけだった。
(この人とキスなんて……絶対に無理)
タカはたばこを吸わなかった。
だからそばに寄ると、タカの匂いだけがした。
はじめて会って、ほんの少しの間肌を合わせただけの相手だけれど、不思議とあの匂いは一生忘れないような気がした。
(……ひと晩だけでも、抱かれておけばよかったかな)
あのときは衝動的に帰ってしまったけれど、よく考えたらもったいなかった気がする。
ひと晩だけでも女に戻りたい、そう思っていたはずなのに。
いま目の前の夫を見ても、これっぽっちも欲情しない。
タカの前であれほど昂ぶっていた女としての本能は、すっかり影を潜めてしまっていた。
(……失敗した、かな)
そのとき、スマホがブルブルと震えた。
画面を見ると、もう来ないと思っていたタカからのメッセージが表示されている。
昨夜、バスの中で決めたこと。それは「タカとはもう連絡を取らない」「ゲーム内でも会わない」ということだった。
だけど……
わたしはとっさにスマホをポケットにつっこんで、 夫が乱暴に吸い殻を投げたせいで散らばった灰を片付ける。
それを見ても「ありがとう」も「悪いな」もない。
いつものことだ。
首元が伸びきったTシャツの上からでもわかる、だらしのない体型。
やっぱりどう頑張っても、このさき夫に欲情することはありえないだろう。
(…はあ)
昨夜わたしを抱きしめてくれた腕は、ほどよく引き締まっていて、とてもセクシーで。
髪を優しく撫でてくれた大きなてのひら、男の人にしては長いまつ毛。
食べられてしまいそうなキスを思い出しただけで、体の奥の方がじゅうっとする。
(ゲームの中で、会うくらいなら……)
いいよね?
ゲーム内の出来事は、所詮現実世界のイミテーションみたいなもの。
なら、裏切りとは言えないよね?
うん。
心を決めて、わたしはタカからのメッセージに返事を打った。
夫の前では妻でいよう。
子どもの前では母でいよう。
愛しい男の前では、女に戻る。それだけだ。
そして女のわたしは、今夜もまた愛しい男に会いに行く。
リアルを超えた、バーチャルな世界で。
***
おしまいっ