おばあちゃんの死に顔
昨年、祖母が逝った。10代の前半で親をなくしたわたしたちきょうだいを、育ててくれた人だった。
最初の頃は祖父母が揃っていたが、少しして祖父は亡くなった。祖父母とわたしと弟の4人暮らしはしばらく続いたように感じていたが、数えてみると、ほんの1~2年だったみたいだ。
20代の半ばまで、わたしの人生は、それはそれは波乱万丈なものだった。比べれば他にもっともっと大変な人はいるだろうけれど、少なくともわたしの周囲に、わたしよりカオスな例は知らない。
けれどそれは同時に、祖母にとっても同じことだったろう。当時はまだ子どもで、自分のことしか考えられなかったけれど、今は少しだけわかる。わたしが母を突然亡くしたように、祖母は一人娘を突然亡くしたのだ。
大切な人を亡くした悲しみは同じだったけれど、わたしは10代だった。自分の未来があった。けれど祖母にとって、自分の未来とは子や、孫の未来だったのではないか。今のわたしにとって、子ども達の成長が何より楽しみなのと同じように。
だとしたら、あの出来事はどんなにか苦しいことだっただろう。突然真っ暗闇の穴の中に突き落とされて、前が見えない、どこへ向かえばいいのかわからない。それでも命がある以上、生きていかねばならない。
一人娘を奪われた悲しみは尽きず、それでも孫2人を育てなければならない。なんで年を取ってからこんなにも人生ハードモードに突入しなければならないんだ、と思ったに違いない。
その後も安寧とはほど遠かっただろう。わたしも、そして弟も、若者あるあるな程度には道を踏み外した。祖母の心労はいかばかりか。今思えばもう少し、祖母に優しくしてあげられなかったんか、と思えなくもない。
けれどまあ、最終的にはひ孫を2人も見せてあげられたし、多少はばあちゃん孝行できたのではないかな。多少は。
そんな、散々な人生の後半戦を送った祖母が、昨年亡くなった。眠っているみたいに穏やかな顔を見ながら、ふと、死ぬとぜーんぶ終わるんだなぁ、と当たり前のことを思った。
わたしの知らない、祖母の若い頃の思い出も、娘を産んで必死で育児したことも、昔の人だからきっと姑いびりされただろうなとかも、孫が生まれて喜んで、かと思えば娘が死んで、孫育てに奔走して、今度はひ孫が生まれて……嬉しいことも悲しいことも全部全部、まるっと終わるんだな、と。
いつか全部終わってしまうのなら、今がんばっても仕方がない。と、思ったわけじゃない。いつか死ぬんだから、それまでどう生きるかが大切だ、という考えは今も変わらない。でも、なんていうのかな。ちょっと力が抜けた気がする。
結局全部なくなるのなら、今自分が本当に求めていることに忠実でいた方が、きっといい。楽しく生きても、我慢して生きても、終わるときは終わるんだ。だからといって、何もかもに投げやりになるのはつまらない。「今」に注力する、「今」を豊かにする、「今」を生きる。それでいいんじゃないの、わたしの人生ごとき。
なんか、そんなふうに思ったんだ。