ママ、ぎゅうして。
上の子は小学3年生、もうすぐ9歳になる男の子だ。よく「男の子はいつまで経っても甘えん坊で、ママが大好き」なんて言われるが、うちの子はまさにそれ。いまだに夜寝る前になるとすり寄ってきて「ママ、一緒に寝ようよ。おやすみのぎゅうしてよ」と言ってくる。まあ、可愛いといえば可愛い。
ふと、自分がこれくらいの年齢だった頃はどうだったかな、と考えてみた。
わたしは小3の冬、一度転校している。両親が離婚したのち、母が再婚相手と一緒に住むために住居を移し、わたしもそれについて行くかたちになったからだ。ということは、たぶんもう、今の息子くらいの歳の頃には、両親は離婚していたのだろうな。
父が出ていった夜、母は泣きながらわたしをぎゅっと抱きしめたのだけれど、そしてわたしもそれにつられて泣いたのだけれど、「ああ、母に抱きしめてもらうのなんて、ずいぶん久しぶりだ」と感じていたのを覚えている。宙ぶらりんになっている自分の手を、どこに置けばいいのかわからなくて、すごく戸惑っていた。「ぎゅう」のやり方を忘れてしまうほどの長い期間、わたしは親から抱きしめられていなかったのだ。
だからといって、親から愛されていなかったとは思っていない。子どもに対して無関心だった父はどうだか知らないが、少なくとも母は、母なりに愛情を示してくれていたし、わたしもそれをわかっていた。
ただわたしは、子どもらしく甘えることを許されていなかったような気がする。物分かりの良い「いい子」だったわたしを、母は誇らしく感じていたようだったし、同時に、この子ならわかってくれる、という期待もあったのだろう。わたしはいつも、その期待に応えようとしていた。かすかに記憶の残っている幼稚園の頃から、ずっと。
母が3つ下の弟の育児にかかりっきりだったとき、わたしは文句も言わずにひとりで遊んでいた。いくつもパズルを組み立てて、絵本を読んで。親の手を煩わせないよう、できるだけ自分のことは自分でやろう、と。
そうやって頑張れば、褒めてもらえた。えらいね、と。えらい子でいようと、物分かりの良い子でいようとし続けた結果、「ぎゅうして」なんて赤ちゃんみたいな甘え方は、とうにできなくなっていた。
子どもはいつまでも子どものままではない。赤ちゃんの頃は永遠に感じられるほど長い時間を子どもとべったりで過ごしたけれど、子ども達は少しずつ確実に、親から離れていく。今はまだ甘えん坊の息子も、あと少し経てばきっと、母をうざったいと思うようになるのだろう。その頃には、「ぎゅうしよう」と誘ってももう応えてもらえなくなるのだろう。
だからそれまでくらい、子どもが「ぎゅうして」と言ってくる限られた間くらいは、子どもでいさせてあげたいかなと考えている。……と、「しっかりした子」「良い子」を求められ続けた元・子どもとしては思うのだ。