孤独な絶望、からの希望       –範宙遊泳『ディグ・ディグ・フレイミング!〜私はロボットではありません〜』劇評

おお、びっくり。今までと全然違うじゃないか。とても明るい。登場人物たちも自由な感じになっている。これまでは読書体験という印象が強かったのに、今回はそんなことを一切感じない。その変化に冒頭ではちょっとびっくりしたけれど、見終わった後には範宙遊泳だったなぁという感想となった。

範宙遊泳の『ディグ・ディグ・フレイミング!〜私はロボットではありません〜』を観てきたので、感想を書いてみようかなと思います。この作品は2022年6月25日から7月3日の計10回、東京芸術劇場のシアターイーストで上演された作品です。あらすじはこんな感じです。

リーダーのキング塚本(小濱昭博)、撮影と編集の藤壺インセクト(埜本幸良)、ツッコミの根津バッファロー根津(福原冠)、おバカ担当のエキセントリック与太郎(百瀬朔)から構成されるインフルエンサー集団「MenBose-男坊主-」は何かをきっかけに炎上していた。だけどその何かが分からない。怪我をしていたスズメを飼っていたからか、町の看板を蹴り倒していたからか、コラボをしたホームレス美大生のアラレ・ビヨンド(李そじん)の行動が突飛だったからか、色々原因を考えるも答えが出ない。エキセントリック与太郎は自分が原因なのだと思い悩まされる。実は彼は不思議な力を持っていて、その力を晒すか死ぬかを選べという言葉が見えている。また、動画のコメント欄にも謝罪をしろという言葉が書かれている。
 キング塚本はその画面に向かって手を伸ばすと、お化けのように白い服を着たロクちゃんの母親(村岡希美)が現れた。箱をかぶっている女の子の6ちゃんねるのロクちゃん(亀上空花)がMenBoseとコラボした時に無理やり箱を奪われたことをきっかけに部屋に閉じこもることになったことへの謝罪をしろと問い詰めているのである。しかし、それは6ちゃんの母親の思い込みで、実際は6ちゃん自らが箱を取っていたこと、6ちゃんが閉じこもっていたのは、自分の素顔を自分のタイミングではなく、6ちゃんの母親のパソコンがハッキングされたことによって拡散されていたことによるものであった。それでも与太郎には自身を苦しめる言葉は見えている。「死」というその言葉が苦しめてくる。だが、キングのその死を与えてくる存在を認めた上で与太郎と一緒に立ち向かうという言葉でようやく与太郎はその言葉に苛まれることがなくなるのである。

これまで山本さんが描いてきたものは、個人が社会や世間というものにどれだけ苛まれているのかというもの、そして社会や世間が個人を苛むくせにそれをあっという間に忘れていくというものを主題にし、そのものへの怒りを描くものが多かったのです。例えば『#禁じられたた遊び』は世間からの観られ方によって変質していく話であるし、代表作の『幼女X』もこの世の悪と戦う人物が最後には死んでしまうのが話の主軸の一つです。そしてその怒りを描くため、出演する俳優たちは言葉というものの下に置かれていて、山本卓卓の世界という静かで硬質的なものを作りあげ、まるで小説を読むような印象の上演をしていた印象を私は持っています。本来とは違う意味で2.5D演劇と称されていたのは、それだけ文字の存在が強かったからこそだと思うのです。
 でも、今作は違いました。作中で「小劇場演劇」というセリフを何度も使っていたように、強引な状況変化、話に関わらない唐突なシーンなど、とても「小劇場演劇」的な生々しさが現れていました。そのため今までのような小説を読んでいるような印象が全くなかったのです。冒頭の根津バッファロー根津がバイトを仕事と言い張るシーンは、戯曲上で1行しかないのだけれど、何か即興ですることになっているのか、時間をかけて寸劇を行いました。そのことで根津バッファロー根津を演じている福原冠さんそのものが溢れてしまっています。そしてその即興についつい他の役者も吹き出してしまいます。また、物語の本筋から離れたようなセリフが藤壺インセクトを演じる埜本幸良さんから急に客席側に投げられます。そのことにより、舞台上の役者と観客の人としての心理的距離が縮まります。その結果、客席に孤独に座る個人からその舞台を楽しんでいる観衆という集団となるような意識を抱くことになります。そうしてラストでは、言葉に苛まれる与太郎に対してキングは共に立ち向かう仲間として一緒にいることを語り、その与太郎が仲間の存在をしっかり意識することができたことで言葉に苛まれることがなくなるのです。そしてそれは舞台上から自分たちは仲間なんだというメッセージであると言えるのではないでしょうか。

実はこの作品は2年前の2020年4月に上演される予定の作品でした。コロナ禍により上演が中止になったのです。ACC2018年グランティアーティストとして2019年9月から2020年2月までニューヨーク留学をしていた山本さんは留学中に半分、帰国後に半分書き上げて戯曲を完成させる予定でした。もしコロナ禍で中止にならなかったら、与太郎が最後に死んでしまって世の中の気楽な悪意が人を殺す作品になっていたのではないかなと私は思うのです。現に2021年末に山本さんの戯曲を川口智子さんの演出で上演された『心の声など聞こえるか』はスキャンダルによる炎上の結果、最後には死を選ぶ人々の物語でした。なので、そんなに見当違いではないと思うのです。でも、今作は死を乗り越える希望の物語となっていました。なぜそうなったのだろう。そこには2020年4月以降の山本さんの活動があるように思います。
 2020年4月。新型コロナの感染拡大で多くのライブ公演が中止になっている最中でした。先に述べたように、『ディグ・ディグ・ブレイミング』の上演は中止になりました。また、飲食店の営業も自粛が求められ、出社も控えるようにという状況となっていました。劇場で上演をすることが不可能となりました。そのような中で、ZOOMを使った会話劇を行う団体も出てきました。
 2020年5月某日、山本さんは「むこう側の演劇宣言」というものを掲げました。それは、インターネット上に新たな「場」を作る試みでした。インターネットというものをテーマに多くの作品を作ってきた山本さんらしい考えです。その考えのもと、『バナナの花』を4回(2020年9月30日午後4時21分に公開終了)とシリーズ旅の旅『無音の旅』というものを公開しました。あと、範宙遊泳ラジオというものを何度か行いました。
 2020年10月、precogが行なっているコネリング・スタディにて、全5回の「虚体験ファシリテーションワークショップ」が開催されました。虚体験とはファシリテーションを扱うミミクリデザイン(現MIMIGURI)に所属するアートエデュケーターの夏川真里奈さんが考案した、実際にも現実にも体験していないことを、あたかも経験しているような体験をすることで、そのワークショップに山本さんは参加していました。コネリング・スタディの2019年から2021年の活動報告に、そのワークショップを受けたことで新たな知見を得たと答えています。
 2021年3月『バナナの花は食べられる』を森下スタジオで上演。むこう側の演劇の『バナナの花』を元に作られたこの作品は、世界を変えようとしていた男が死んだ後でも意志を継いだ仲間たちによって小さな悲劇を食い止めるものでした。生きていく上で苛まれていたものが救われる物語は観客の心も救ったように思うのです。
 2021年7月、『ももたろうのつづき』を文京区シビックホールの公式チャンネルで配信を行いました。
 2021年8月、コネリング・スタディの一つとして『ももたろうのつづきのつづき』を作るオンラインワークショップを行いました。こどもだけとこどもとおとなが参加できる2回行われ、私はおとなも参加できる部に参加しました。どのような物語が良いのか、それぞれが案を出し合います。それが全然違うのです。出された案に対しさらに案を出したり山本さんが演出してどうにかできあがった物語はだれも想像もしないような変なものでした。
 2021年10月、渋谷にある10代のクリエーションの学び舎「GAKU」にて行う『うまれてないからまだしねない』のサイドストーリーを作り上げる全7回のワークショップ「新しい演劇のつくり方」のためのトークイベントが行われました。ここで山本さんがなぜ演劇教育に踏み込むのかについて語っておりました。
 2021年11月から2022年の2月まで、『うまれてないからまだしねない』のサイドストーリーを作り上げる全7回のワークショップを行いました。
 2021年12月『心の声など聞こえるか』を東京芸術劇場のシアターイーストで上演。戯曲を書くことに集中するため、演出を川口智子さんに依頼。そうして出来上がった作品は、ゴミで作ったパペットを使ったもので、わちゃわちゃとガチャガチャととにかく騒がしかったのでした。そして役者のみなさんがとても生き生きと役を演じており、山本さんの戯曲をこのように演出できるのか、それを範宙遊泳の公演としてやるのかという驚きに満ちたものでした。
 2022年3月、新潮にてエッセイ『(未来の)文豪のための戯曲の書き方入門』を発表しました。
 2022年4月、『バナナの花は食べられる』で岸田戯曲賞を受賞しました。今回の公演に向けての記事を読むと、審査員から出た色んな選考評を山本さんは吸収したのだそうです。
 2022年5月、ストレンジシード静岡にて『かぐやひめのつづき』を上演しました。かぐや姫には地域によって複数のバージョンが存在しており、そこから多様性というものがなんなのかを物語る作品となっておりました。
 2022年5月、神奈川芸術劇場の『鬼頭健吾展』の関連企画として『オブジェクト・ストーリー』を展示。劇場内の至る所に言葉を忍ばせ、それを探索する物語で、建物自身がものを語る存在へと立ち上がっていく印象をすごく感じるものでした。
2022年6月、これらを経て今回の『ディグ・ディグ・ブレイミング〜私はロボットではありません〜』を上演しました。

山本さんはこのようにコロナ禍の2年間を演劇の外を含めた色んな人々と関わってきました。人を傷つけるのは人である。しかし人を癒すのもまた人である。演劇を使って現実の絶望を描くから、物語の希望を描くに、人にお願いして作品を作るから、人にお任せして作品を作るように変化したのかなと思うのです。今までの山本さんの演出では役者が山本さんの言葉の語り部を担っていた部分があったように思います。なので、『心の声など聞こえるか』も川口智子さんによって山本さんの言葉を違う側面から光を当てたと思うのですけど、山本さんの言葉を伝えきれていないのではないかという思いもどこかありました。でも、今作を観て、それは山本さんでないと伝えきれない山本さんの言葉の弱さだったのかもしれないなと思わされたのです。
 そうして強くなった言葉を使って役者たちは自由に演じていたように思います。いつもはどこか抑えめな印象の埜本さんはとても楽しそうにはっちゃけてました。豆柴の演技も可愛らしかったのです。福原さんも冒頭で任されているであろうシーンがとにかく挑戦しているようでとても良かったのです。小濱さんも所属している劇団のカラーもあって、とにかく力強い。百瀬さんの表す絶望感も、李さんが表す優しさ、村岡さんが表す怒り、亀上さんが表す覚悟、自由になった役者たちは、山本さんの言葉を自分の言葉として伝えてきます。そしてそこには演じている役以上の役者自身の個性が表れているように思いました。それは戯曲にとってノイズかもしれないけれど、演劇にとってとても重要な要素だと思います。それがいつもより溢れていた。そのため、観劇中は「範宙遊泳」ではなく、どことなく「こまつ座」の上演を観ているような気になりました。そして観終わった後も「こまつ座」の上演を観終えたような感覚であり、徐々に「範宙遊泳」を観たんだなというものに変わっていきました。

山本さんは観客に現実の絶望をぶつけてきたけれど、観客と物語の希望を共有しようと変わってきたんだなぁ。

そんなことも思うのです。それは以下の山本さんのツイートからも分かるのではないかと思います。山本さんはtwitterを改めて使い出した時、他の人との距離感をおきたいとアカウント名を山本卓卓の左手賭していました。それが今は山本卓卓となっているのもポイントです。
 
 昨日は7ステ目ありがとうございました!今日は残り3ステージ。今日が終われば千秋楽 質問疑問があれば #範宙遊泳  へどうぞ。僕が応答します。SNSなのに人肌を感じられる不思議な感覚です。僕自身もこの公演を経て成長している実感があります。ほんとに。
 2022/7/2 12:08
 
 当たり前のことだが観客の人生はひとりひとり違う。その違いを尊重できずに何が演劇か。という思いがある。あの空間にいるすべての人が、キャラクターたち含め、すべてが尊重される。そんな演劇がつくれたらと思っている。そんな世界はみたことないから。せめて演劇で。#範宙ディグ演出
 2022/7/4 8:17

観客の言葉が、やっぱり次をつくるエネルギーになるというか。今回はすごくそれを感じた。この交流している感覚、大事に、力を蓄えて、誰もつくったことのない、純粋演劇をひたすらこれからも追求します。といいつつこの夏は小説を書くのですけど!
 2022/7/4 9:35

人は変わることができると言っている山本さんは今作でとても変わりました。山本さんがこれからどのような物語を描いていくのか、とても楽しみにしています。次は小説を書くのかぁ。どんなものになるのか想像もつかないので、そちらもとても楽しみにしています。

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