壁のこちら側でガーガーと啼いているカナリアたち −カナリアーズ『ガガたち』劇評−

うわぁ、何が起きているのか理解ができない。でも、何かが起こっている。scoolの空間に斜めにリノリウムが敷かれている。私はそのすぐそばに置かれた座布団の席に座っているのだけど、目の前で役者たちが右往左往しながら何かをしている。たまにはぶつかりそうになるので身体を逸らして避けたりもする。その時のことを残したいなと思うので、ここに記すことにする。

俳優の矢野昌幸が新たに立ち上げた『カナリアーズ』の第一回公演『ガガたち』は2022年6月23日から26日まで計6回、三鷹にあるSCOOLで上演された演劇作品である。まず会場内は土足禁止である。会場内は長方形のリノリウムを斜めに置かれているだけ。そのリノリウムの挟んだ左右に座布団が置かれ、その座布団席の後ろに椅子の席が並べられている。私は座布団に座って観ることにした。

時間になると米川幸リオンが現れ、会場の説明を始めた。床に敷かれたリノリウムは花道であること、その花道が突き当たる壁の先に舞台があることを伝える。そしてこのように語りだす。

この花道の醍醐味はなんといってもその近さ、相互に<見られている>芸として成り立つものです。「演劇本来の場は、舞台でなくて道であり、固定でな」
開演のブザーがなりました。それでは開演です。

そうして壁と対面にある花道に続く部屋に下がっていく。
 久保田響介が倒立したような姿勢で部屋から出てきてブリッジで花道を進んでいく。そして何かことばを呟く。次は舞台のあるとされる方向の壁にプロジェクターを使って福井夏なライブ配信が映し出される。そして観客を視聴者に見立てて何かを喋り、駆け抜けていく。次は永山由理恵が現れ、パソコンチェアに座り、グルグルと回る。そして何かを語る。当日パンフレットには参考文献が書いてあるので、それらのことばを用いているのだと思われる。しかし、それだけではないと思われる。花道でことばを一生懸命喋る役者たちは、目の前というとても近い所に存在している。最前列で見ている私は観客というパフォーマンスの外の存在となりきることができないため、きくことにもみることにも客観的に集中することができない。誰かに共感して舞台上に存在するのではなく、私のままパフォーマンスエリアにいるような感覚となる。そのため、役者と私は並列な関係にあるように感じる。そのため、私が彼らをどのようにみるのかに落ち着くのである。そうして見えてくるのは、ことばに翻弄される役者たちの身体である。喋っていることばには借りてきたものの他に自分のことばも含まれているのではないだろうか。そして、そのことばが示すコロナ禍の状況は役者自身も翻弄されていたのではなかろうか。つまりはコロナ禍で翻弄される役者自身がそこに展示されているのである。特に面白かったのは久保田がしゃべるマイナンバーのエピソードである。上半身のシャツをはだけながら壁にもたれかかり、身分証を作りに来たのに、身分証がないと作れないと喋るその姿には、不条理さをとても感じたのである。

そのような作品の中、矢野昌幸は黒衣として存在している。黒いTシャツに黒い短パン姿の彼はパソコンチェアに座っていたり、プロジェクターをオンにしたり、ライブ配信されているオセロをやって盤面を全部白にしたりと色んなことをやっている。そして徐ろに語り出し、倒れ込んだりしたりもしている。その姿はとても独特なのだ。矢野はオフィスマウンテンの作品に何度も出演している。そのため矢野は山縣太一の影響を受けている。それなのに、彼は山縣に似ていないのだ。山縣がやっていることはことばを基点にからだとせりふを作っていくものだとすると、矢野がやっていることは別々に存在することばとからだを無理やり繋ぎ合わせ、その軋みを炙り出しているように思う。そこにはことばへの疑念があるのかもしれない。だからこそ、ことばとからだを対立させている。そのため、人間的でも動物的でもない、物質的な存在を感じるのである。それがなんとも面白いなと思わされる。

この上演は、福井夏と永山由理恵がコロナ禍での俳優としての話を語り合う所で唐突に終わる。空間が急に日常に戻る。そのことに衝撃を受ける。目の前で行われていたものはなんだったのだろう。そのような感想がまず浮かんでくる。そして、これはコロナ禍を描いた作品だったと納得する。役者がしゃべっているのはコロナ禍を連想させるものである。舞台に繋がる花道は、壁で遮られている。その壁に映し出されるのは配信映像である。観客と役者との距離の近さは、コロナ禍によって観客は連絡先を伝えなければならなくなったことにより部外者でいられなくなった現状を表しているとすることもできる。そのような上演を催したのは誰かといえば、矢野昌幸である。そして、このような生活を強いているのは新型コロナウィルスである。つまり矢野は新型コロナウィルスを演じているのである。現に黒衣として花道の周りにはいるのに、役者たちには見えない存在なのだ。それはまさに見えないけれど存在する新型コロナウィルスそのものではないか。公演のサイトに矢野はこのような文章を表している。

カナリアーズは新型コロナウィルスが猛威を振るい始めた2020年6月に旗揚げをし、炭鉱のカナリアのように、コロナ禍で演劇の公演が相次いで中止となる中、最初に公演をする劇団になろうと決意し、“カナリアーズ”と命名、

そもそもコロナを意識して設立した劇団なのだ。矢野が新型コロナウイルスを演じているという見立てはそこまで突飛なことではないと思うのである。

なんとも不可思議で存在感を感じる作品を作ったものだなぁと思わされる。でも、これは果たして演劇なのだろうかという疑問がちょっと浮かんでくる。それは3月18日から21日まで計6回、BankARTStationで上演された伊藤キム+フィジカルシアターカンパニーGEROの『カラダノオト』である。この作品で伊藤キムは矢野のように観客用の椅子を配置していたりと今作の黒衣のようななことをしていた。そしてその空間でダンサーは駆け回ったり、ハイハイをしたり、マイクを使って叫んだりと色んなことをやっていた。この作品はダンスであるとされている。であるならこの『ガガたち』もダンス作品と言えるのかもしれない。演劇であり、ダンスでもあるといえるかもしれない。いやいや、そもそもその区分けをすること自体が無意味じゃないか。楽しいパフォーマンスを堪能した。これで十分なのだ。

次のカナリアーズはどのようなパフォーマンスを見せてくれるのか、それを楽しみに待つことにする。
これにて、『ガガたち』の劇評、または矢野昌幸へのファンレターを終えることにする。

愛を込めました。

どっとはらい。

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