f : fake
「どうぞよろしくお願いします。あれはうちの美術館で一番の価値を持つ宝石なんです」
白金美術館の館長である溝口は、落ち着きのない様子で東堂警部に言った。
「ええ。我々も万全の対策をします」
東堂警部は手元の資料を見る。そのひとつに、犯行予告の書かれた手紙がある。
『8月10日 24時 少女のルージュをいただく 怪盗X』
犯行予告は怪盗Xからのものだった。『怪盗X』とはなんてベタな名前かと思うが、ベタに称されるということはそれだけ腕も本物である。
今年も8月になるが、この8ヶ月に満たない期間で10件もの盗難事件が各地の美術館で発生していた。そのどれもが怪盗Xの犯行予告に基づくものであった。
「あぁ……ついにうちの美術館にも来てしまったか……」
溝口館長は犯行予告の届いた昨日の8月9日から気が気でない様子だった。白金美術館は国内でも有数の美術館で、世界的に価値ある美術品も多くある。
『少女のルージュ』はその中でも最も価値ある宝石であった。そのため、普段から厳重な管理のもと保管されている。
だが怪盗Xはこれまで、どのような管理下にある美術品においても予告通りに盗んでいた。それはまさに怪奇という他なく、誰もに気づかれず、否、気づいたときには、展示物はそこから姿を消していた。
すでに捜査本部が敷かれて1年になるが、未だにその手口は解明されないままである。
「当日、金庫は厳重に管理しておきます。犯行予告時刻には美術館の周辺の警備を固め、金庫の周りにも配置します」
東堂警部は溝口館長に自信に満ちた様子でいったが、その姿は虚勢に過ぎなかった。だが警察官としても、溝口館長を安心させる意味でも、体裁は繕うようにしなければならない。東堂警部にとっては職業柄、慣れたことでもある。
東堂警部に応えたのは、溝口館長の傍にいた男だった。
「よろしくお願い致します。東堂警部。館長もそんなに心配なさらないでください。これだけ警備も厳重であれば、いくら怪盗Xといえども手を出せないでしょう」
「失礼ですが、あなたは?」東堂警部が訊く。
「私はこの白金美術館の学芸員を努めます郷田と申します」
郷田と名乗る男は、東堂警部が見た印象では20代後半くらいの若さに見えた。歳の割にとても落ち着いているようで、どちらかというと溝口館長の方が頼りなく見える。そのせいか郷田も自然、溝口館長の補佐役とした働きをするのだろう。
「そ、そうかね? 郷田くん。だが、怪盗Xは今まで盗めなかったものはないんだろう?」
「それはたまたま、今までの美術品を盗めていたに過ぎませんよ。今回の警備は徹底してます。いくらなんでも、物理的に不可能でしょう。ね、警部さん?」
ね、と親しげに言われてしまったことに若干の躊躇いを覚えた東堂警部だったが、胸を張って言った。
「はい。奴を甘く見ずに、徹底的に迎え撃ちます。月並みですが、我々警察の威信を掛け、必ず奴を捕まえて見せますよ」
言いながら東堂警部は、右手に握った犯行予告の手紙をひらひらと振った。
そう。今回は、ネズミ一匹逃さないと言っても全く過言でない、徹底した警備体制が敷かれる。昨日に犯行予告が出されて今日直ちにここまでの体制を整えられたのは、東堂警部の手腕によるものも大きかった。
これまでの犯行予告も、全て犯行の行われる前日に手紙という形でなされた。予告から犯行までのその期間の短さから、これまで警察側は十分に警備体制を敷くことができなかった。
東堂警部はこれこそ怪盗Xの思う壺だと思った。わざわざ犯行予告をするなど目立ちたがりの子供のようだが、犯行は確実に行うために警備の薄いうちに行われる。このことに気付いた東堂警部はこの半年間、上層部に掛けあって迅速な警備体制を敷くことのできるよう縦横無尽の働きをした。その甲斐あって、ようやく一夜にしてここまでの警備体制が敷けるようになったのだ。
いくらなんでも今回の怪盗Xの犯行は不可能。
東堂警部もそう思っていた。
深夜8月11日0時――つまり犯行予告『8月10日24時』の時刻になった。
美術館の周りには幾重にも警察官が配備され、誰一人の例外なくその時刻を緊張の面持ちで迎えた。
金庫のある部屋の前には、東堂警部と溝口館長、そして郷田が10人程の警察官と共に立っていた。
溝口館長はいよいよこの時間になって、緊張がクライマックスのようだった。
「大丈夫ですか? 溝口館長」
「だ、だ、大丈夫です……警部さん、……本当に大丈夫ですよね……?」
「ええ。もう犯行予告時刻です。このまま何もなければ、怪盗Xはこの犯行を諦めたということでしょう。何も盗まれなければそれでいいですが、正直に言いますと奴を捕まえられなくなるのは残念ですね」
東堂警部は余裕そうなことを言ったが、顔はその気を緩めない。
「そうですか……残念ですか……」
溝口館長はゆっくり前を向きながら言った。
「そりゃ、残念でしたね。目の前にいたのに捕まえられないなんて」
刹那。
視界が一面の白に包まれた。
「なっ――これは……煙幕!!!???」
叫んだと同時、強烈な睡魔が東堂警部を襲う。
様子こそわからないが、辺りからドサッドサッとまだらに音が聞こえる。
「催眠ガスのようです!!吸ってはいけま……」郷田の叫び声が聞こえたが、ドサッという音と同時に聞こえなくなる。
「あはは。見事に騙されてくれたね。ま、実際に君が会った溝口館長は初めから怪盗Xだったわけだから、騙されるもなにもないのかな」
溝口館長が――偽物!
「くっっそ……ッッ……!!」
――東堂警部の意識は、そこで途切れた。
本物の溝口館長は、本人の自宅で発見された。
強い睡眠薬を飲まされていたようで、東堂警部が美術館にやってきたときには、既に怪盗Xがなりすましていた溝口館長であったということが、後にわかった。
「すみません。私の落ち度です。違和感に気づけませんでした」
やがて意識を取り戻した東堂警部に起こされ、郷田は色を失って言った。
聞いてみると郷田はまだ白金美術館に勤め始めて半年に満たないらしい。
――そうだった。
今までの犯行は怪盗Xの目撃情報自体がなかった。気付いたら盗まれていたからである。
だが、怪盗Xが――これこそベタなことだが、変装の達人であれば。
誰にも違和感なく潜り込み、美術品を盗むことができるかも知れない。
四六時中溝口館長と一緒にいるわけでもなく、ましてや、まだ勤めて半年程の郷田であれば、変装の達人相手に気づける違和感など、たかが知れている。
(――そこを、怪盗Xに突かれたのか)
東堂警部は落胆した。あれだけの人数を動員しながら、目の前にいた怪盗Xを捕らえられなかった。
「……真に申し訳ありません。宝石をお守りすることが出来ませんでした……」
東堂警部は開けられた金庫の前で、郷田に情けなく言った。
「全くですね。見事に盗まれました」
同じく空っぽの金庫を見ながら、郷田は言った。若干の馴れ馴れしさが宿るその声は、東堂警部へ嫌味のように響いた。
「……まぁ、偽物だったのは、お互い様です。お気になさらず。東堂警部」
――?
東堂警部は、郷田の顔色がそこまで悪くないことに気づいた。その声の馴れ馴れしさは、嫌味というよりも冗談っぽさが漂う。
「お互い様とは、どういうことですか? 偽物だったのは、溝口館長でしょう?」
「まぁこちらに来てください」
そう言って郷田は金庫のある部屋を出て、東堂警部をある部屋に案内した――『贋作保管室』と入り口に書かれている。
「美術品には、しばしば贋作があるのは東堂警部もご存知でしょう。ああいったものが流通すると、芸術業界そのものの価値が下がります。なのでうちの美術館では、贋作の美術品を発見したら、この部屋で管理することになっているのです」
そういって郷田は部屋に入り、壁一面にある棚のうち、奥から2番目の棚の前に立ち止まった。目線ほどの高さにある引き出しを開け、中から木箱を取り出す。
「……!! それは、『少女のルージュ』!?」
東堂警部は目を見開いた。
目の前で開かれた木箱には、美しい赤色の輝きを放つ楕円形の宝石があった。
「ええ、本物のね。犯行予告があった昨日の夜、ふと思い立ってこっそり入れ替えておいたのです。こう言ってはなんですが、贋作もとても良い出来で、我々も初め騙されましたからね」
騙されたことを誇ってどうする。
そう思う東堂警部だったが、自慢気の郷田を見て、虚勢さえ張れなくなった胸をほっと撫で下ろした。