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人と話すのが苦手だった私は、学生のころから翻訳のアルバイトをしてました。ある程度英語に自信がついたころ、思い切って応募した簡単な通訳のお仕事がきっかけで、大学を卒業してからも私は通訳で生計を立てるようになりました。
人と話すのが苦手、というよりも自分というものに自信がない私がなぜ、もろに人とのコミュニケーションが必要な通訳のお仕事を選ぶのでしょうか。
その問の答えは至ってシンプル。このお仕事は、基本的に私自身がコミュニケーションのメインにはならないのです。
仲介者であり、対象者ではないのです。
一度それに気づくと、通訳というお仕事はある程度気が楽なお仕事です。
私という人を見られませんから。
輝かない私に気づかれませんから。
でもだからといって、輝かないことが大丈夫かといいますと、それはまた別のお話です。
輝いてる人は自信に満ちています。それはそれは羨ましく思えるし、自分が惨めに思えてくるのです。
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今日はバラエティ番組でのお仕事です。外人のタレントさんがゲスト出演されるとかでお仕事の依頼があったのですが、お茶の間で放送される番組なので、初めは当然辞退しました。けれども、参考に見せてもらった過去の放送では、通訳さんはほとんど映像に映らないようカットされていましたし、なによりもギャラが結構よかったので、引き受けてしまいました。
いざお仕事をしてみて、期待通りといいますか幸いにといいますか、あんまり私が注目を受けるということはありませんでした。けれども、全国に顔を知られるタレントさんたちの輝きはあまりにも眩しく、自分のすっぽんぶりを思い知ります。
月と較べることさえ、申し訳ない。
そんな風にうちのめされながらも、なんとかお仕事を終えて一息つこうと、楽屋に戻るときでした。
バラエティ番組って、すごいですね。
撮影が終わってもバラエティです。芸人さんじゃなくても関係ありません。
撮影に使われた熱湯風呂(なんて古典的なんでしょう)の脇を通るとき、興味本位で少しその浴槽を上から覗くように見ていました。
そこへ大きな機材を運んでいた男性のADさんが、私に向かって歩いてきます。機材が死角になって、私のことが見えなかったようです。
私も浴槽に夢中で気付きません。
結果的に。なりゆきてきに。
――機材にぶつかった私は、その熱湯風呂に突っ込んでしまいました。
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服も下着も何もかもびしょびしょになった私は、慌てて楽屋へ戻りました。女性ADさんが持ってきてくれたジャージにとりあえず着替えてようやく落ち着き、鏡を見ます。
お化粧のくずれ方が凄まじいです。熱湯風呂といっても、時間がたてばぬるめのお風呂。お化粧を落とすには最適な温度だったのでしょう。
一度お化粧をすべて落としきって、いちからやり直す必要がありそうです。
そう思ってクレンジングオイルを顔に塗り、十分にお化粧へ滲ませてから顔を洗います。さっぱりした気持ちでタオルに顔をうずめていると、コンコン、と音が聞こえました。誰かが楽屋のドアをノックしたようです。
「はい?」
「失礼します。お好みに合うかわかりませんが、お帰りのための服をお持ちしました」
女性の声です。すっぴんの状態で出るのに少し気が引けましたが、お待たせするのも申し訳ないです。
「わかりました。どうぞ」
「失礼します」
開かれたドアの向こう側をみて、私は顔が引きつりました。
女性ADさんの後ろに男性が――先程私を熱湯風呂に突き落とした男性ADさんがいたのです。
「ほんとうに申し訳ありません! なんと申し上げたら……」
彼は私の顔をみるなり、直角よりやや深い角度で頭を下げました。きっと誠心誠意謝ってくれているのでしょう。ただこのタイミングに来るのは、それはそれで見事な誤りっぷりです。
「……だ、大丈夫ですよ。お湯も大分冷めてましたし」
引きつった顔を懸命に笑顔で繕って、なんとかそう言います。
私はひったくるように女性ADさんから服を受け取って、ペコリとお辞儀をしながらそそくさとドアを閉めました。
「見られた……見られちゃった……うわああああ……」
男性に――すっぴんを。
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私はいつもお化粧に2時間半は掛けます。
お化粧をして、なんとか繕って、ようやく人様の前に出ることができるのです。
ええ。よく通訳なんかやってますよ。ほんとに。
通訳を雇うような人たちは、それは必然的に国際的なコミュニケーションを取るような人たちです。
そういう人たちのほとんどは、やっぱりどこか輝いています。
だから、そんな人たちについ惹かれて、ついついこのお仕事を続けちゃうのでしょう。
そしてそんな人たちの輝きに間近で接して、ついついまた自信を無くしちゃうのです。
飛んで火に入るなんとやら。
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流石にこれから2時間半も楽屋に居座ってお化粧するわけにもいきませんし、男性にすっぴんを見られて半ば投げやりになっていたのも手伝って、この顔のままもう帰っちゃおうかとも思いました。
もうお仕事は終わりましたし、別に私のことを敢えて見ようとする人もいないでしょう。
――そう思いましたが、いざ身支度を整えて楽屋を出ようとすると、ふと鏡に映ったすっぴんの私が、私を引き止めます。
いくらなんでも、ノーメイクは女性としてどうなのかしら。
自分の優柔不断さが嫌になりながら、先程仕舞った化粧ポーチをもう一度取り出してフタを開けます。すると、一本の赤い口紅が顔を覗かせました。
真っ赤な口紅。普段のお化粧では使いません。
ひと月くらい前、衝動的に買ったものです。その輝きに惹かれて思わず買ったものの、いざそれを唇に塗ろうと思うと、なんだか自分には似合わないような、釣り合いが取れような、そんな気がしてしまって、結局使わずに仕舞ってあったものでした。
存在さえ忘れていたものです。
もうどうにでもなれ、という気持ちも手伝って、私はその口紅を塗ることでお化粧した気になろうと思いました。これだけ目立つ色なら、化粧のしていない、繕っていないところも、きっとそれほど気にならないでしょう。
ぬりぬりぬりぬり。
りんご飴のような輝きが、私の唇に宿ります。
「……」
それが、思いのほか、なんというか。
いや、勘違いしてはいけません。これは、この口紅の力です。この赤い輝きの魅力です。魔力です。
けれども不思議な自信を得た私は、このまま楽屋を後にしました。
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「あの、すみません!」
テレビ局を出ようとすると、男性に声を掛けられました。もう今日はあまり男性と面と向かって話したくなかったのですが、無視するわけにもいきません。
といいますか振り返った先にいたのは、先程の男性ADさんでした。
私を(ぬるめの)熱湯風呂に突き落とした人です。
私のすっぴんを見た人です。
「先ほどは、本当に申し訳ありませんでした!」
私は呆れました。そんなに気にすることでも無いはずです。私がずぶ濡れになったところで、何の問題があるのでしょう。
「いえ。ほんとに気になさらず。むしろ、出演されていた女優さんとかでなくってよかったです。そしたらお詫びどころじゃ済まないですね」
「あ、いや、そんなこと……」
若干嫌味っぽくなってしまったのは、自分の卑下によるものでしょうか。狼狽する彼を見て、少しだけ申し訳なくなりました。
けれども、そんな申し訳ない想いは、とんびにアイスクリームを攫われたときのような、そんなあっけなさで吹き飛びました。
「そんなことおっしゃらないでください――女優さんと変わらないくらい、あなたは素敵な方ですから」
……。
は?
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アパートに戻った私は、化粧台の前に座って鏡をぼんやりとみつめていました。
唇は相変わらずりんご飴の輝きを放っています。
ありのままを話すと信じてもらえないかもしれませんが、というか自分でもまだ信じられないのですが、どうやら私は、熱湯風呂に突き落とされた人から、そのお詫びとしてデートに誘われたようなのです。
「このままだと私の気が晴れません――今度美味しいカフェへお連れします」
どんなお詫びですか。ただのナンパじゃないですか。
彼もなかなかの度胸です。私がもし彼の上司や他のADさんにこのことを話せば、今後の彼の進退にも関わってくるかも知れません。
そう呆れながらも視線を落とすと、一枚の名刺が所在なげに化粧台においてあります。
裏に手書きで記された、LINEのIDを上にして。
正直にいいましょう。舞い上がってます。
この方、デートに誘われたのは人生で初めてです。
なのでこういうときにお誘いに応じるべきなのか、それとも断るべきなのか、さっぱりわかりません。ひょっとしたら彼はチャラい男で、道行く女性を熱湯風呂に突き落とし、お詫びにカフェへ連れ込んでいるのかも知れません。
そんな葛藤を経ながらも、やっぱりといいますか予想通りといいますか、気付いたら私は彼に、都合のいい日を送信していました。
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その日はあっという間にやって来ました。
当日、私は早起きをして、お化粧に2時間半の時間をかけました――というのは、嘘です。
よくよく考えてみると、彼は私の素顔しか知らないのです。お風呂に突き落とす前の、お化粧ばっちりの私の姿を知りません――私の姿が見えなかったからこそ、彼は気付かずに私を突き落としたわけですから。
この事実に気付いたとき、私は絶望しました。
2時間半のお化粧は、私を別人に仕立て上げます。ですが、それでは彼が私に気付かないでしょう。
けれども、ありのままの私の顔を見せるなんて勇気も、とても持ち合わせていません。
にっちもさっちも行きません。文字通り合わせる顔がありません。
やっぱりお断りするべきでしょうか――デートが目前に迫るにつれ、そんな思いが募ります。
しかし化粧台の前に座って鏡を見つめていると、ふとあの妙な自信を思い出しました。
テレビ局の楽屋で感じた、あの自信です。
私はこれしかないと直感的に思いました。化粧ポーチを開けて、その輝きにすがります。
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ごった煮の中からお目当ての具を探すようにハチ公前をきょろきょろしていると、手を振ってこちらに駆けてくる影があります。どうやら彼のようです。
「来てくれてありがとうございます。こちらです」
はにかみながら話してくれる彼の姿からは、そんなにチャラさを感じられません。
無邪気で自然体なチャラ男なのかな。
私はやっぱりなぜ自分が誘われたのかがよくわからないので、どうしてもそんなことを考えてしまいます。
けれど不思議と、梅雨明けの澄み切った青空のような、そんなさわやかな気分を感じていました。
「その唇、とっても素敵ですね」
カフェでのんびりとお話をしているときに、彼は突然いいました。
「これですか? 素敵な色ですよね。初めて見たときに思わず買っちゃったんです。この口紅」
私は口紅が褒められたのかと思ってそう言いました。
なにせ、こんな私でもデートに誘ってもらえちゃうくらい、素敵な魔力を秘めた赤色です。
「ええ――あなたのその素敵さを、きっとその赤い輝きが、引き立てているのでしょうね」
ありのままの――あなたの素敵さを。
そう言われて私は気づきました。
彼は、初めに楽屋で私の素顔を見た上で、再び声を掛けてくれたのでした。
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通訳のお仕事は、本来通じ合うことが難しいはずの、人と人とを繋ぐお仕事です。
そうした人たちの、コミュニケーションにおける生命線です。
私はいま、ありのままの私でこのお仕事をしています。
それは、仲介者としての私だからだとか、私がコミュニケーションの対象者ではないからだとかで、繕おうが繕わまいが関係がない、というのが理由ではありません。
どうやら私は、少しだけかも知れませんが、自信を持てるようになったのです。
今日も化粧台の前に座りながら、人と人とを繋ぐこの唇へ、赤い魔法を塗り込みます。
出勤前に寝室を覗くと、昨日も残業だった少しおっちょこちょいの彼が、まだ夢の世界にいるようです。
行ってきますと伝えたかったのですが、返事がないのはちょっと寂しいですね。
そう思ったときに、ふといたずら心が芽生えました。彼に近づいて、頬にそっとキスをします。
計画通り。これでおはようが伝わるでしょう。
頬に残したおはようの印を見て満足した私は、寝室を後にしました。
彼が鏡を見たときの顔を想像すると、ついにやけてしまいます。
こうして私は、今日も私で生きていくのです。
りんご飴の輝きを、その唇に宿しながら。