Striking Anew vol. 165「隣人」
Striking Anew vol. 165「隣人」です。
*作者からの許諾が得られた作品のみ掲載しています。
テーマ作品
登校は登山「愛しき隣人」
その朝、ある文豪が郵便箱の音と共に目を覚ましたのは、普段よりは一時間も早い時間だった。男は元より新聞は取っていなかったし、この現代に態々手紙で連絡をよこすような人も居なかった。それ故に、男はその事実に少し気掛かりな感じを覚えながら、まず水を一杯飲み干し、顎の髭を剃り、自慢のミルで挽いた豆でコーヒーを淹れ、トーストと共に飲み、それからようやく郵便箱の確認へと向かった。
果たして、男が郵便箱から取り上げたのは一つの茶封筒だった。切手も、消印も、差出人の名前すら無い事からして、誰かが直接投函したのだろう。男はもう長いこと作家をしていて、古い時代には出版社を通して住所が誰でも分かるような物になっていたから、それも特段犯罪を疑うようなことでも無かった。大方、ファンレターのような物だろう。しかしそうだとしても、そういう物は一度出版社に送られ、それから自分の元に届くのが常だったので、やはりどこか奇妙だった。
無差別なセールスなら捨てれば良い、何か怪しい内容なら警察か消費者庁にでも相談でもすれば良いかしら、等と考えながら、男は二杯目のコーヒーを片手に茶封筒を破った。
第一の手紙
あるところに、アランという作家がおりました。アランの書く小説は、少し恐ろしくて、不思議で、しかし心温まる、そういう物語でした。アランの元には、彼の書いた物語が大好きな人から毎日のように手紙が届きます。それを読みながら朝を過ごすのが、アランの日課でした。
『夜、眠れない息子のためにあなたの本を読んでいます。彼はいつも全部読む前に眠ってしまうから、物語の結末を知りません。ただ、怖いばかりの話だと思っています。息子がもう少し大きくなって、自分で全部を読めるようになったら、この物語について語り合って、そうしているうちに少し夜更かしをして、少し笑って、それから眠るような日が訪れるはずです。そういう日を、私は楽しみにしています』
こんな手紙が何通も届いた日には、アランはもうたまらなく嬉しくなって、踊るような足取りでその日を過ごすのでした。
そんなアランには、誰も知らない秘密がありました。
毎朝、アランがポストの手紙を受け取ったあとやることは、彼のペットのお世話でした。でも、そのペットが少し普通ではないのです。真っ黒の毛に覆われた、一つ目の毛むくじゃら。それが、アランの家のペットでした。初めは猫だと思って、そのまま「真っ黒」と呼んで可愛がっていたのですが、しばらくお世話をするとすぐに大きくなり、猫の大きさはとっくに超してしまいました。そうしてどんどん大きくなって、今ではアランの倍は大きな体を持っています。そして、一番不思議なことには、この子がどこから来たのか、まったく見当が付かないのです。いつの間にか家にいた、という他にないのです。
それでも、アランとその真っ黒は仲良しでした。最初は気味が悪かったし、今でも少し怖いのですが、真っ黒もまさかアランを食べてしまうようなこともなく、いつもは部屋の隅っこでじっとしていて、朝と晩にパンとミルクを用意してやるととても喜ぶ、それだけでした。
そうして一番の秘密は、アランの書く小説は、アラン自身がこの真っ黒と過ごした体験を、もっと面白くなるように飾った物だということでした。アランの小説に出てくる不思議な生き物は、すべてこの真っ黒がモデルになっていました。
だからアランは、真っ黒に感謝していました。売れない作家だったアランを、人気の作家まで押し上げてくれたのは真っ黒でした。
それなのに、その日は何かが違いました。
その日アランが目を覚ますと、家がいつもよりしんと静まっているのに気がつきました。アランには一緒に暮らす人はいませんでしたが、それでも真っ黒が寝ている声や、あるいは起きていたらご飯をねだる声が聞こえてくるはずでした。それなのに、その日は何の音もせずに、ただ静まりかえっているだけでした。
通りに出てみると、ちょうどその日は蚤の市がやっていて人で溢れていましたから、そんな所に真っ黒が居るはずもありませんでした。ペルシアでしょうか、きらびやかな金の刺繍の入った上等な真っ赤の絨毯、賑やかなブリキの機械人形、そうしてそれを売って、また欲しいものを買いにゆく人々が目に入りました。活気に満ち満ちた町が、アランをいっそう焦らせました。
少し歩いて、アランは町の外れの方まで来ました。このあたりにはひとつひっそりと湖のあるだけで、すぐ奥には鬱蒼とした森が町を閉じ込めるように広がっていますから、誰も彼も気味悪がって、なかなか近づくような人は居ないのでした。
その湖のほとりに、どうしたことか、今日は一人男が立っていました。「やあ、珍しいですね。こんなところに」
くしゃくしゃの山高帽を被った男は、男と言うよりは老人と呼んだ方が正しい出で立ちで、腰は曲がり、鼻は折れ、帽子の隙間からは真っ白な髪が覗いていました。老人はアランを見ると、そう呼びかけながらこちらへ徐に近付いて来ました。
「ここいらは、そら、そこの森を怖がって人が来ませんから」
そう言って、老人はその方を杖で指すと、咳き込むように少し笑いました。それから、アランの顔をじっと覗いて、
「何かお探しですか。そういう顔だ。犬か、猫か。何か逃げましたね。そういう顔をしている」
アランはにわかにこの老人が恐ろしくなって、振り払うように「いえ」と答えました。それから、しかしあまり違わないのだと思い直して、「猫でも、犬でも無いのです」と付け加えました。
「真っ黒で、私の倍ほどの大きさの、一つ大きな瞳のある毛むくじゃらの奴を見ませんでしたか。私は、それを探しているのです」
老人はそれを冗談と思ったのでしょうか、少しのけぞって、「そんな恐ろしい生き物は聞いたことが無い」と言って笑いました。
「ええ、私にも恐ろしい。しかし、私はもはや、奴なしでは生きてゆけないのです。疎ましいのに、奴が居なければ生活が立ちゆかないのです」
老人は曲がった眉を一層顰めました。
「ははあ、冗談では無いと見える。あなた、気を違えたか。」
「なに、そんな訳がないでしょう」
アランはむっとして言い返しました。
「居もしないものを恐れて、それなのに、そいつを探し求めている。わたしから見れば、あなたは立派な気違いだ。あなた、医者へお行きなさい。それで、しばらくは静かに過ごしていなさい」
老人は哀れむようにそう言うと、アランの肩にそっと手を置きました。老人が去って行った後も、アランはしばらくそこに立ったままでいました。
どこを探してみても、どこにも真っ黒は居ませんでした。人にどんな物を探しているか尋ねられても、あの老人の事を思い出すと、誰にも言えませんでした。そうして、疲れ果ててまた誰も居ない部屋に帰ってくると、その日は夕食も食べないまま眠ってしまいました。
翌朝、アランが目を覚ましてみても、やっぱり真っ黒は居ませんでした。アランは息を一つ吐いて、それからポストの手紙を確認に行きました。そこには、いくつかの手紙に合わせて、アランの小説を印刷して売り出している会社からのものがありました。いろいろと難しいことが書いてありましたが、要するに、そろそろ新しい小説を書いて下さい、という事でした。
アランは困ってしまいました。小説の元になる真っ黒との暮らしは、もうありません。そうすると、アランは小説が書けません。小説が書けないと、アランは暮らしてゆけません。暮らしてゆけないのは困ります。でも、小説は書けないのです。アランは、二日の間にして、真っ黒を失った悲しみと、暮らしてゆけなくなる苦しみの二つを抱えることになってしまいました。
アランは悩みました。どうしたら良いだろう、と考えて、眠って、また考えて、眠って、ポストの手紙を確認する暇もない程考えて、それから一つの事を思いつきました。
自分を主人公にするのです。
突然不思議な生き物を家に見つけて、その暮らしを面白く書いた小説で人気になったのに、ある日その生き物を失ってしまった、悲しい作家の話を書くのです。
アランはどうにかそれを書き終えると、「もうこれ以上小説は書けません」と言って、会社にそれを渡しました。
それからアランはすっかり塞ぎ込んでしまって、今はこれまでの小説が売れたお金の残りと、会社から送られてくる最後の小説が売れた少しのお金を頼りに、一人でとても貧しい暮らしをしています。真っ黒が戻ってくる日は、来るのでしょうか。
第二の手紙
拝啓。
突然お手紙を送りつける無礼を、まずはお許し下さい。助けて欲しいのです。書けなくなってしまいました。アランは、私です。何を書こうとも、筆が動かないのです。これだって、昔の文豪ぶって、音声入力で口述筆記の真似事なんかしているのです。
はじめから、順を追って、お話しします。
私は、売れない作家でした。自分で言っても悲しくない程に、売れない作家です。地方の大学に入って、それにも禄に行かないまま中退して、他にできることが無いから筆を執ったような、どうしようもない奴です。
元より、文章を書くことそのものは、私にとって数少ない人並みにできる事でした。生活の中で生まれた、不安や、誰も居ないのに急かされるような心地、爪の間に入り込んだクレヨンのような不快、或いは、水の中に墨を一滴落として、それが広がっていくような気味の悪さを言葉に起こしているうちに、ある程度は人間並みの事としてできるようになって、それが私のなけなしの自尊心の支えにもなっていました。
それが、書けなくなったのです。
すこし前に、貯金が底をつきました。親族からも見放されたと見えて、仕送りも無くなっていました。これでは生きてゆけないので、物を書く合間にアルバイトを始めます。すると、それですっかり疲れ切ってしまって、それが終わると、シャワーも浴びないままに泥のように眠って、それからまた次のシフトの前に起きて、人前に立つのですから当然シャワーを浴びて、働いて、眠っての繰り返しです。
勿論、休みの日はあります。それなのに、体が弱いのでしょうか、眠って、疲れを取って、物を書く気力も無いのでぼうっと天井を眺めていたりすると、それで休みが終わってしまいます。
ここまでお話しして、身に合わない労働で心身疲弊した男の話だとお思いでしょう。しかし、そうでは無いのです。むしろ、逆なのです。
確かに、働いた後は疲れています。しかし、私にはその疲れがむしろ心地よいとすら感じているのです。ランナーズ・ハイとかそういう物なのでございましょうか、要するには、不安という物が無くなってしまったのです。
私の創作を支えていた物は、不安でした。真っ黒とは、それです。いつの間にか私の心に居着いたそれについて感ずるままに、心が動くのにまかせて書いていれば、ある程度の物が書けました。私は、そう自負していました。
売れないのだから、どうせ自己満足の作です。それでも、その自己満足が私を人間たらしめていました。それが、消えてしまったのです。それで、何も書けなくなりました。
漫然と生活に堕している人間は、無価値です。生きてて偉いなんて言葉は、あれは嘘だ。とんでもない大嘘だ。夏目漱石をご存じでしょう。「精神的に向上心のない者はばかだ」。あれは、恋愛と、自己研鑽の話ですが、人間なにもそれだけじゃない。とにかく、そのばかに、身を窶してしまいました。何も書けないのです。ただ、日々労働に明け暮れて、ただ生き延びるだけの金を稼いで、それをすり減らして生きているだけになってしまいました。私を人間たらしめる自己満足が、消え失せてしまったのです。
それが、すこし前までの話です。今は、少しだけなら清貧な暮らしができるだけの金を貯めたので、仕事を休んでいます。来月にはまた働き始めるか、飢えて死んでいるでしょう。
同封したのが、絵本の脚本にでもなれば良いと思って書いた、私の話です。これ以上に、もう何も書けません。長く私に暗いもやをかけていた不安は、実際のところ、私の最愛の隣人ですらあったのです。物が書けないという不安は、私にそれ以上の何も齎してくれないのです。私は、どうしたらいいのでしょうか。
とりとめの無いことを書きました。汚い文章だと分かっているから、読み返さず送ります。お許し下さい。 敬具
第三の手紙
拝復。気取った悩みですね、と、きっと太宰治がお好きなのでしょうから返しておきます。
実際私も、あなたに同情するような所はありません。そんなことをしなくても、あなたは人間以上の何物でも無く、また人間以下の何物でも無いでしょう。
古代思想をお学びになって、エピクロスや、老子や荘子をたずねてご覧なさい。
自分を守るために自分の世界を狭くするという事は、きっとあなたが思っているより悪いことでは無いのですよ。その言葉にあなたが霹靂を云々と、とにかく、それがあなたの支えになれば良いのですが。
それに、それだけ書ければ上等でしょう。
貴方が苦しまずにいられることを、隣人として祈っております。不尽。
透瀬いと「あの日映した空を掬う」
青く澄み渡った空に、白く沸き立つ入道雲が輝いていた。
生い茂った木々が生き生きと健康的な緑を讃えて、この先の盛夏を力強く予感させている。
ふいにざあっと風が吹いて、並べた上履きがうっかり飛んでいきそうに見えた。そんな些末なことがなぜか気になった。
ここは気持ちがいい。だからこそ、今ここで終わりにしたい。
汐音は屋上のフェンスから手を離して、ふらっと身を乗り出す。
夏の眩い校舎のどこからだろうか、蝉が鼓膜を突き破らんばかりの五月蝿さで啼いている。それは命尽きる間際、懸命に何かを訴えかけているようで、汐音の耳底に潮騒が生まれた。ますます大きくなる潮騒に身を任せ、瞳を閉じる。
眩い太陽に瞼を焼かれると同時に、激しい鼓動が胸を打つ。この取り返しのつかなさを、どうか。
宙に身体を預けようとした、そのときだった。
——カシャッ。
突然、背後でシャッター音が鳴った。
あまりにも軽快で空気を読まないその音に、汐音はまるで金縛りのように動けなくなる。思わず開いてしまった瞳の、その視界の先に広がる依然とした現実世界。確実な絶望と、どこか安堵感が、汗ばむ彼女の心臓をじんわりと包んだ。
汐音は首だけをねじって後ろを振り返る。そこには、カメラを構えた水城がいた。
青空に溶けるような金髪が眩しくて、主人公は思わず目を眇めた。視界の隙間で水城は口角を上げ、笑いを内包した声であっけらかんと呟いた。
「おもしろい写真」
「おもしろい、って……」
一瞬何を言われたのかわからず、反応が遅れてしまう。そんな様子の汐音を見て、水城は改めて、心の底から楽しそうに笑った。
彼女がひとしきり笑った後、汐音にとっては耐えがたく気まずい沈黙が訪れる。この奇妙な状況になんと言えばいいのか見当もつかないが、汐音はとりあえず、目の前に立つ少女の名をおずおずと口にする。
「——水城、さん」
「お。なんで知ってんの?」
「……有名だから。美人だって」
「美人で怖いって?」
「……まぁ」
——腑抜けた会話だ、と我ながら思った。すべてを終わらせる気でここに来たというのに、わたしはいったい何をしているのだろう。こうやって無駄に時間を浪費して、生きられる時間を少しでも引き延ばすことに果たして意味はあるのか。
「二組って、いじめあったっけ」
「ないよ。……別に、いじめとかじゃない」
水城が自分のクラスを知っているということに多少驚いたが、一方で彼女が自分の事情に土足で踏み入ろうとしている気配を感じて煩わしく思った。しかしそれも束の間、水城はふぅん、と意外にも気のない返事をする。
「——もういいでしょ、放っておいてよ」
掴みどころのない会話に痺れを切らし、汐音は声色に苛立ちを滲ませながら小さく言う。
「放っておいてって言われても」
水城は不思議そうに片眉を傾けて、あたかも当然かのように続ける。
「私、ここで食べるから」
愕然とした。言葉が出なかった。そのうちにも水城は、本当に弁当を広げだした。
彼女はただ立ち尽くす汐音の前で平然と飯を食い、挙句の果てにはこちらも見ないまま粗雑に言い放った。
「そこ、あんたの場所じゃないんだけど」
言われた瞬間、急激に自分のことが恥ずかしくなった。途端に顔が熱くなり、フェンスを掴んでいる指先に力が入る。しかし、その力もすぐに緩んだ。
——あぁ、このひとは、信じていないんだな。
どうせ飛び降りなんてしないのだろうと、口先だけのことだろうと侮っている。だからこそ彼女は、これほどまでに傍若無人に振る舞える。
「……やれるから」
低く唸るような汐音の震える声に、水城は相変わらず取り合わない。
「どうせやれないって思ってるんでしょ! やれるから。いくらでも証明してあげるんだから!」
もはや隠しようもないほどに、声も、指先も震えていて。汐音は実に痛々しく、狂人的に叫ぶ。しかしそれでも、水城はこちらに見向きもしない。ついに汐音は、半泣きになって訴える。
「お弁当なんて、わたしが飛び降りるのを待ってから食べなさいよ!」
水城がぴたりと動きを止めて、目を丸くした。次の瞬間、
「——ぷっ、あはははは!」
実に爽快な笑い声だった。心の底から弾けるように笑うその姿はあまりにも唐突で、汐音はぽかんとしてしまった。
「飛び降りてから食べろって——はぁ、おもしろ」
水城は息が上がるほど笑った後で呼吸を整えると、
「ねぇ、せっかくだから、死ぬ前に一緒に食べようよ」
「どうして、あなたと」
こんな戸惑いを孕んだ言葉とは比べ物にならないほどのさらなる攻撃的な言葉を投げかけて答えに困窮させてやりたいのに、目の前の彼女の笑顔があまりにさっぱりとして綺麗で、これを崩してしまうのはもったいなく思われた。それに、いくら態度で攻撃をしたところで水城には効かないだろう。今だって、汐音の返答など待たずに食事を再開して、その美味しさに顔をほころばせている。彼女がこんな調子では、沸々と煮えていた怒りも失せてしまうというものだ。
「はぁ……。もう」
思わず洩れ出てしまった溜め息とともに、汐音は人ひとりがかがんで通れるフェンスの隙間から、水城のほうへと仕方なく歩いていく。彼女の隣に腰を下ろすと、お弁当の匂いとは別に、檸檬のような爽やかさとバニラのような繊細さを併せ持つ不思議な香りが、鼻先にすぅっと溶けていった。水城が普段から纏っている香水だろうか。良い意味でも悪い意味でもとにかく自由奔放な彼女には、とてもよく似合っている気がした。
視線を移して彼女の手元を見ると、グレーを基調とした落ち着いた色合いの弁当箱に、カラフルな野菜に彩られたなんとも魅惑的な肉料理が、甘辛いタレの匂いとともにまるで宝石のように詰め込まれていた。てらてらと輝くその存在感に汐音は不本意ながらも食欲をそそられて、思わずごくりと唾を飲む。——と、すぐにはっとして魅惑を断ち切るように、首を激しく横に振った。
「ねぇこれ見て。一見お洒落に見えて、実際は手抜きなやつ。今朝寝坊して、寝惚けた頭で作ったけど、上手く誤魔化せてるでしょ」
水城は弾んだ声で主役の肉料理を指差し、人懐っこくて悪戯な笑みを見せる。こう無邪気にされてはどうにも断りづらい。汐音は促されるままそれを箸でつまみ、おずおずと口に運んだ。そして僅かに瞳を泳がせて逡巡すると、控えめに感想を告げる。
「おいしい」
「嘘」
——心臓が、ドクンと跳ねた。
すべて見抜かれているかもしれないという不安を、そんなはずはないという侮りでわざと欺瞞した。しかしいたってナチュラルに続けられた一言により、不安は現実のものとなって降り注ぐ。
「味覚ないでしょ」
水城はあくまでさらりと言ったが、汐音にとって、今まで守り抜いてきた秘密を容易く暴かれたことは衝撃だった。身体を強張らせ、黙って俯く汐音の頭上をひこうき雲がひとすじ穏やかに流れていく。
「いつから?」
「……わかんない。どうでもいいよ」
汐音は観念したように、半ば投げやりな態度で答える。口元に浮かぶ薄い笑みに反して、彼女の瞳はなんの色も映さない。
いつからか食べ物の味を感じなくなったのは、もしかすると日常のすべてが灰色にくすんで見え始めたあの頃なのかもしれない、と汐音はぼんやり考える。あの頃から汐音を形成するあらゆる感覚は鈍ってしまって、手始めに空腹という概念がまるでなくなり、汐音の身体はごく少量の食べ物しか受けつけてくれなくなった。そんなことを走馬灯のように思いだす。
「確かにどうでもいいけど、嘘だけはつかないでね」
こちらの事情も知らないくせに相変わらずの身勝手ぶりだったが、普通の人のふりをしなくてもいいと赦しをもらえたような気がして、汐音はなんとなく気が楽になった。
その日から、二人の不思議な邂逅は続いた。
夏の生気に包まれた賑やかな校舎のなかで、二人がすれ違うことはなかった。会えるのは青空の下、透き通った空気を反射して眩しく光る、真っ白な屋上でだけ。互いに打ち合わせることもなく、時間になるとそれぞれが昼食を食べた。汐音は食べる日と食べない日があった。そのことに関して、水城は特に何も言及しなかった。私たちはただ、当たり前のように隣にいた。
「来なくてよかったのに」
ある時、いつものように屋上に行くと、珍しくヘッドフォンを首から下げ、ここではない遠くを眺める水城にそう言われた。水城と一緒にいるのにそろそろ慣れてきた汐音は、どういうわけでそう言われたのかすぐにわかった。一応、尋ねてみる。
「水城さん、お弁当は」
「忘れた」
決まった単語をなぞるような口ぶりから、彼女が単なるうっかりで弁当を忘れてきたわけではないことは容易にわかった。しかしそれがわかったところでそれ以上踏み込む必要性を感じなかったし、水城が自ら話す気がないのなら聞くべきではないと思った。
「汐音」
初めて名前を呼ばれた。
「なに?」
「購買行く。ついてきて」
何の変哲もないその言葉に、汐音は眉を上げて驚いた。水城は校舎のなかでは汐音と一緒にいる気がないのだと思っていたから。目をぱちくりさせながらも、水城の後に続いて階段に向かう。
化学実験室の前を横切ると、薄暗い廊下の湿った匂いにほんのりアルコールの匂いが加わった。校内でもこの辺りはほとんどひとけがない。夏の校舎の息苦しさを逃がすように唯一開け放たれた窓から、生暖かい風が流れ込んで汐音の腕をやんわり撫でた。
「この場所はいつも静かだよね。賑やかな廊下より好きだな」
「わかるよ」
水城が同調してくれるのがなんとなく意外で、それがただの相槌じゃなく、本心だったらいいなと思った。
階段を下ってやや歩くと、視聴覚室から授業の声が断片的に漏れ聞こえていた。案内板を見ると、ピンク色の太文字で『いのちの倫理』と書かれている。マイクに乗った途切れ途切れの声は、湿った廊下の壁や窓に反響して汐音を取り囲む。
「——生命の尊さはですね…………は尊く、無駄にする……は馬鹿な————……ほども……したように、生命は……ひとりのものでは……ですから、粗末にするなんて——生命を…………」
途端に、足元が眩んだ。
誇張でなく、これ以上一歩たりとも踏み出せなくなった。できることなら傍にある窓を今すぐに開けて、宙に飛び出してしまいたい気分だった。
汐音が急激に生気を失って立ち尽くしているうちにも、聞こえの良い言葉たちは凶悪なナイフとなって汐音の魂を身勝手に抉り取る。綺麗事の羅列で講釈を垂れ流して楽しいか。そう言ってやりたいものの、弱い人間が赦されないのがお決まりすぎて、それに呼応して苦しくなることすら陳腐に思える。
はは、は。もう、わかったから、これ以上否定しないで。
尊い生命を粗末にすることが赦されないのなら。無駄にすることは馬鹿だとレッテルを貼られるのなら。わたしはきっと大罪人で、いないほうがいい。
わたしは今、きっと、高所にいる。綺麗で残酷な言葉たちに、善意という名の害悪に背を押されている。窒息しそうに苦しい。
——突然、鼓膜を叩きつけていた言葉の雨が止んだ。
徐々に息苦しさがなくなって、汐音の瞳に光が戻る。大きく息を吸って、吐く。そのとき初めて、鳥肌が立っていたことに気がついた。
耳元に手をやると、水城のヘッドフォンがそこにあった。水城は隣に立って、窓の外を見ている。水城の表情はわからないが、汐音が落ち着くのを待ってくれているような気がした。汐音はゆっくりと深呼吸を繰り返す。
「水城さん」
いつもと変わらない表情で、彼女が振り向く。そんな彼女に安堵する。
「ありがとう」
覚えず、言葉尻が震えた。
ないまぜになった様々な気持ちが今にも決壊しそうで、けれど呼吸は楽だ。
水城は一瞬困惑したような顔をして、そのまま引き寄せられるように、汐音の顔に流れた髪を優しく掬う。そのとき、階段からどっと人が流れだしてきた。
「——わたしたちも早く行かなきゃ」
ふいに汐音の意識が逸れて、水城の手が離れる。瞬間、水城の表情が泣き出しそうに見えたのは、気のせいだっただろうか。確かめられないまま、ふたりは人波をかき分けて進む。互いの姿を見失わないよう、祈りながら。
ぷかぷか、ぷかぷか。
宙に浮かぶ透明なシャボン玉は、陽の光を反射して不思議に煌めきながら、時折透明な空の色を映す。シャボン玉越しに見る世界はとても優しくて、この世界じゃないみたいだと汐音は思う。フェンスにもたれて、吹き上がるそれらを眺めつつ、ゆっくり瞼を閉じる。目をつぶっても見えそうだと思ったのだが、そんなわけはない。
「うっ……うっ……」
水城が、泣いている。
『人に翼があったらな……空に飛び出して、そのままどこにでも行けるのにな……』
『そんなこと言っても、きみに翼は生えないよ』
『きみはどうしてそう、夢のないことばかり言うんだい。ぼくはきみの想像力の乏しさが嘆かわしいよ』
『なんだよ、失敬な。それじゃあ、きみは空が飛べたとしてどこに行きたいんだい』
『そんなの、ずっとずぅ~っと遠くに決まってるだろがい!』
「泣くとこじゃなくない?」
汐音はつい、思ったままを口にする。水城は聞こえているのかいないのか、「泣ける……」とだけ呟いて手元の絵本から目を離さない。
汐音はこれ以上の彼女との交信を諦めて、再びシャボン玉に専念することにした。空を見上げ、先ほどより遠くへとシャボン玉を飛ばしてみる。微睡むように旅立っていった彼らは、そのまま対面にある棟にぶつかって一瞬にして破裂した。ふと、思い出したように振り向くと、水城に軽く告げる。
「明日、委員会入ってて。たぶん来られない。それだけ言っとく」
「んー……」
相変わらずの気のない返事だが、伝わっただろう。この屋上に汐音が来るかどうかというのは、水城にとってたいした重要事項ではないのだろうなと汐音は考える。特に寂しいとも思わないし、そもそも水城はそういう人だ。純粋で、身勝手で、いつもわたしを振り回す。けれど彼女に振り回されることが、いつのまにか嫌じゃなくなっていた。気兼ねのない今の関係が、心地よい。
——だからこそ、わからなかった。
彼女が今、フェンスの向こうにいるのが一体どうしてなのか。
空は抜けるように青く、汐音の心をかき乱した。
今日は昼に出席していた委員会により、屋上に行くのが普段より遅くなった。もう昼休憩も終わる頃だ。おそらく来られないだろうことは昨日のうちに水城に伝えておいた。水城はすでにクラスに戻っているとは思うが、ここ最近ですっかり習慣づいた両足は汐音を屋上へと向かわせた。
いつものように扉を開けると、外の風がぶわっと気持ちよく入ってくる。夏の日差しを全身に浴びて唐突な眩しさに目を眇めていると、透きとおる青空に一点、いるはずのない影が見えた。
「——ぇ」
ただの見間違いで済ませたくて、汐音はまるで暗闇の中で縋るように、その影に近づく。けれど近づけば近づくほど、日光は角度を変えて彼女の姿を、現実をありありと照らし出す。
「……どう、して」
「——言ったでしょ? あんたの場所じゃないって」
雷に打たれたようだった。
確かにこの場所で彼女に言われたのを、この耳が覚えていた。しかし今は、そのときとはまるで違う、孤独と切なさを孕んだ声が虚ろに響き渡っている。そのさらりとした言いようが、いやに耳底にざらついて残った。
フェンスの向こうに佇む水城は、笑っていた。
——扉を開けた一秒後、水城は予想外の光景に固まった。
青く澄み渡った空に、白く沸き立つ入道雲が輝いている。屋上のフェンスの向こうで、黒髪をまっすぐ下ろした少女が不安定に揺れていた。
「はは」
驚くほど自然な笑みが漏れた。やられた、と思った。すべてを終わらせようと衝動的にこの場所へ来たが、まさか先客がいるとは思わなかった。水城はこれ以上なく爽やかな敗北感のなかで、気がつけばカメラを構えていた。レンズに映る少女の立ち姿は、まるで鏡に映る自分のようだった。
——カシャッ。
空気を読まない軽快なシャッター音に、目の前の少女が身体を強張らせる。おそるおそる振り返ったその顔に、見覚えがあった。これまでに話したことはないが、顔を見たことはある。その程度の認識だった。
「おもしろい写真」
気まぐれに芽生えた興味が水城に、もう少しだけ生きようと思わせた。
空は雲ひとつない快晴で、そこに不安定に佇む水城は美しかった。
フェンスの向こうで風に揺られ、セレストブルーの空に溶ける金髪に、なぜだか胸が締めつけられる思いがした。彼女の髪は生まれつきの地毛なのだと、水城は以前に話してくれた。あのときの彼女の笑顔が、もう一度見たかった。こんな、虚ろな笑みじゃなくて。
「私たち、いつも隣にいたのにね」
水城が口にしたその言葉はこれ以上なく残酷な響きを孕んでいて、汐音の胸は罪悪感で溢れた。どうして気づけなかったのだろう。誰よりも近くにいたはずなのに。ぽつり、ぽつりと後悔の種が植えられていく。
瞳を昏く揺らして押し黙る汐音の様子に、水城は胸がぎゅっと苦しくなったのを感じた。目を伏せて、小さく呟く。
「……ほんと、なんで声かけちゃったのかな」
その呻きは、汐音には届かない。それでいいと、水城は思う。
「じゃあね」
フェンスにかけられている水城の手から、徐々に力が抜けていくのがわかる。行き場のない焦りが、汐音の胸を駆り立てた。
その時、汐音はあるものの存在に気づいた。それは——、
「……カメラ」
水城の首に下げられた、大きなカメラ。初めてここで水城と出会った際にも、彼女はこれを持っていた。
謎の強烈な既視感に襲われ、汐音の視界が眩んだ。そう、確かあの日も今日のような晴天で、けれど真昼の月が出ていた。
幼少期の汐音は、海沿いの小さなアパートに住んでいた。それなりに古びた外装で、潮風を受けてところどころ色褪せていたが、閑静な街並みにはよく馴染んでいた。アパートを出て少し歩くと公園があって、両親が共働きの汐音はよくそこで暇を潰していた。ひとりは寂しくなかったから別に構わなかったが——あの子は違った。記憶の糸を手繰り寄せて、かつての風景を頭のなかに描いていく。
彼女は公園のブランコに座り、退屈そうに両足を揺らしていた。姿を見てすぐに誰かわかった。隣の部屋に越してきた、同い年くらいの女の子だった。声をかけたのは、特別な理由があってのことじゃなかった。あえて理由を探すならきっと、汐音もひとりだったから。
「——それなぁに?」
顔を上げた彼女がどんな表情をしていたかは、今となっては思いだせない。やわらかそうな金髪が彼女の肩上でさらりと揺れた。首に下げられた大きなカメラにその小さな両手を添えると、彼女は口を開いた。
「ママがくれたお守り。かっこいいからすきなの」
「お守りっぽくないね」
「うん。でもこれのボタン押すとね、ママの笑ってるかおが見られるの。ママがくれたから、ずっと持ってるんだもん」
彼女は実に嬉しそうにはにかんで、けれど次第に、その両目から大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。
突然のことに驚いて、どうしたの、などと声をかけたと思う。彼女は小さな体躯で、震える唇で、ただひとつの願いをそっと口にした。
「ママ、あいたい」
瞳に溢れてこぼれた雫が、空の光を映して透明に煌めいていた。
——潮の匂いがする。
「待って!」
「なっ……」
返事も聞かずに、駆け出した。フェンスの隙間を通り抜け、水城の隣に立つ。ほら、もうこんなに、彼女の近くにいる。
「なにして——、なんのつもり」
「水城さん」
それがどんなに残酷に響くとも、汐音は伝えなければならない。目の前で不安げに瞳を揺らす少女に、そして——あの日ブランコで泣いていた女の子に、今度こそ。
「ひとりで泣かないで」
その瞬間、水城はひどく傷ついた表情で瞳を大きく見開いた。常にまっすぐなその瞳が、初めて嫌悪の色を見せている。至極当然の反応だ。何と軽薄で聞き飽きた決まり文句だろうと自分でも思う。それでも、汐音はこの先を続ける必要がある。
「本当は、泣いてほしくなかったの」
「……なに、を」
「泣き止んでほしかったけど、方法がわからなかった」
眉根を寄せて警戒の意識を向ける水城に、汐音は素直に笑いかける。
「今も大切にしてるんだね。そのお守り」
「どうして、知って……」
嫌悪の色が弱まり、瞳には戸惑いが浮かんだ。泣きだしそうにさえ見えるその表情にいつかの彼女が重なって、汐音はやはり懐かしいような、あるいは汐音自身があのときの公園に戻ったような、不思議な気持ちに包まれる。この瞬間ここにいるのは、在りし夏の日の水城と汐音だ。
「わたしが水城さんを止めようなんて勝手だって、わかってる。でも、覚えてる? 水城さんが最初にわたしを止めたんだよ」
そう。人生最後のはずだった昼休み、気まぐれなシャッター音に汐音の願いは潰され、生きることを強いられた。水城による、最初の身勝手だ。その身勝手をきっかけにわたしたちは、忘れていたあの夏を再びなぞっている。
「だからきっと、おあいこ。そうでしょ?」
「なにして——!」
フェンスから手を離して身を乗り出した汐音に、水城が悲鳴を上げた。彼女のここまで焦った表情は初めて見る。
「やめて! どうしてこんなこと——」
「脅してるの」
汐音は清淵のように凪いだ瞳で、きっぱりと言い切った。
怖くないわけがない。足は震えていて、今にも倒れてしまいそうだ。けれどそんなことはどうでもいい。今はただ、願っている。
「水城さん」
最大級の我儘に、願いのすべてをこめて。
「わたしの先を、越さないで」
水城の意識が汐音に吸い込まれた。
汐音は救済者ではない。むしろ他人の命を左右しようとする、傲慢な人間だ。しかし彼女は誰よりもそれを自覚していて、己の傲慢さを隠さず、表面を取り繕わない。自己を正当化せず、綺麗事は決して選ばない。これが汐音の強さなのだと、こうやって向き合って初めて思い知らされた。
「ふ」
つい、笑みがこぼれた。これは観念するしかないと、どこか清々しい心持でそう思った。
「——仕方ないな」
仕方なくなんてない。今からでも、自分の命をどうするかは自分で選べる。選択の余地は、汐音が残してくれた。
けれど、心はすでに決まっている。
「もう少し、待ってあげる」
告げた水城に、汐音は一瞬ぽかんとして、やがて安堵の表情を浮かべて深く息を吐いた。
特別な夏を、特別なあなたとともに過ごしていく。
青く煌めく世界で、あの日の潮鳴りが聞こえたような気がした。
ドクダミ「いつだっていつかは」
やりたいことをやりたいようにやっているのに
私の体も心も重い
やりたかったことができなかったのを
執着としてずっと引きずっている
暇すぎても闇が心を覆うのに
忙しすぎても闇が心を覆う
自分には何もとりえがないのではないかと思って
自分には何も残らないかもしれないのではないかと思って
私は私が何者なのか分からない
私は私が何をしたいのか分からない
あなたに出会ってから
強くなったような気がしたけど
それもどうなのか、
最近分からなくなってしまった
いつだっていつかは、
あなたのことだって忘れてしまうのに
いつだっていつかは、
あなたもいなくなってしまうのに
当たり前にある当たり前をあたりまえと思って
それがいつなのか、
私は流れるときのなかを過ごすしかない
あなたは私の全てを理解できない
私だって、私の全てが分からない
それでも、
あなたがいなくなるのが怖い
あなたを失いたくない
私の隣人
あなたの前でしか弱くなれないから
いつまでも、私の心の隣に住んでいて
餅屋「暗く湿った場所で」
ああ……なんということだ、いくらこの頃黒人奴隷の確保が難しくなっているとはいえ、白人の農夫である私まで襲われ、奴隷船に積み込まれるとは。
真っ暗な船内は何階層にも分かれ、夥しい数の奴隷がそこに敷き詰められている。隣を見ると、ガタイの良い黒人奴隷が一人。ボブという澄んだ目をした男だ。それにしても糞尿の臭いには慣れたが、背中の痛みがひどい。四六時中鎖に縛り続けられているせいで、寝返りひとつ打てやしないのだ。止まない痛みに頭がおかしくなりそうである。しかしながらボブはまだ元気そうで、船員にばれないような声で近くの奴らと歌を歌ったりしていた。
「なあボブ、なんでお前はそんなに楽しそうにしてるんだ?」
「■■■、■■■■■■■、■■■■■。」
何度聞いてもこいつらの話す言葉はわからん。出航してから三日、ずっとこの言語に浸っているというのに! 周りからボブと呼ばれているから名前は多分ボブなのだろう。まあ、ヴォブかボヴかもしれんが。にしてもこれだけ丈夫そうな奴らもバタバタ死ぬのが奴隷船と聞く。果たして私は生き残れるのだろうか。そしてこの船は何処へ向かうのだろうか。
船内は暗いので時間の感覚がなくなる。飯がこれまでで合計十回ほど与えられたので、出航してから十日ぐらいなのだろう。
「ボブ、今日はやけに騒がしいが何かあったのか?」
「■■■■、■3gn■■死ぬft■■」
ボブたちの言葉も次第にわかるようになってきた。奴隷が三人死んだようだ。この頃ぽつぽつと死人が出るようになった。この環境なら栄養失調なども起こるだろう。しかし、一日に三人は多い。噂に聞く原因不明の呪いの病「壊血病」でなければ良いが。
その夜、ボブが飯を少し分けてくれた、「君にも生き残ってほしいんだ」みたいなことを言っていた。周りの奴らはあまり良くは思わなかったようで、止めさせようとする者もいたが、ボブは慈愛に満ちた目をしながら私に食料を差し出してくれた。
彼を虐げたであろう者どもと同じ肌の色をした私に対し、あれほど優しいまなざしを向けてくれるとは。水分補給も兼ねたあのビショビショのパンを旨いと感じたのは長い航海の中でも初めてのことだった。この気持ちは一生忘れることはないだろう。
この男のためにも私は死ぬわけにはいかない。
暇になった。航海開始から十五日と少し、体調がいい時など存在しないのだが、この生活に慣れはしてきた。加えて、ようやく船員の鼻も機能しなくなったようで、奴隷のいる貨物スペースにいやな顔せず入ってくるようになった。おかげで排泄物の掃除をするのを一週間に一回から五日に一回に許可してくれたし、奴らの機嫌がいい時なんか船のハッチを開けて換気までしてくれるのだ。
ただ、船員との距離が近づくにつれ、自分のことを惨めに思うようになってきた。勿論、私も白人であるのにこの様な仕打ちを受けるのはおかしいという意味の惨めさもある。しかし、次第にあんなにも澄んだ目をしたボブ達を虐げる道理が肌の色の差でしかないこと、そしてその野蛮な行為の免罪符を私も持っていることが酷く私を傷つけた。
二十日を過ぎただろうか、喉が焼けるように熱い。船員に聞くと熱病だそうだ。船にある薬は使い切り、助かる見込みはない。残念そうな顔を作りながら奴は言った。
この頃、死人が多く出たのはこれが理由だったか。のどの痛みに加え、視界もぼやけてきた。ああ、ボブ……何か俺にしゃべってくれてるんだな。すまない、もう何も聞こえないんだ。振り返ってみると、この奴隷船も悪くなかったよ……この生活の衝撃は、自分の価値観を電撃的に変えたし、そのことを喜ばしく思う。それにこれほど優しい友人を持つことができた。すべて、田舎の農夫として生涯を終えたら出会うことのできなかったものだ。
「ボブ……あ、りがとう……元気、にや、れよ」
「■■■■! 死ん■■だめ■■■■、■生きろ■■!」
——————
男1「……死んだぞ、ヴォヴ」
ヴォヴ「ああ、そのようだな」
男2「なぜこいつが生き残る方に賭けたんだ?こんな痩せた白人、途中で死ぬに決まってるだろ」
ヴォヴ「俺は大穴を狙うタイプなんだ。それに、なかなか持った方だと思うぞ」
男3「それはお前が飯を分けたからだろうが。あれはルール違反だ! おかげで俺の予想が外れたじゃねえか」
ヴォヴ「いいだろ、結局負けたのは俺で、お前は何も払わねぇんだから。ああ、準備できたか。人差し指だったな、一思いにやってくれよ——」
ボキッ
ヴォヴ「ああああああっ!」
李音「出会いは突然に」
私が彼に出会ったのは大学生になったときだ。私こと坂下茉莉(さかしたまつり)はこの春、念願だった第一志望の大学に合格した。ただ、県外だったため、大学側が斡旋しているマンションに引っ越しした。私が住む部屋の隣に住んでいたのが彼だったのだ。彼は月上紫季(つきがみしき)といい、私よりも一歳年上の先輩だった。月上先輩はとても気さくさ方で、時々挨拶したりする仲になった。そんな感じで、私の大学生活は始まった。彼と出会ってから半年間ほどが経った。今では、私が紫季先輩、先輩が私を茉莉と呼び合うようになった。私が、緊張しながら授業が始まるのを待っていると隣の席によく見知った人がやってきた。月上先輩だった。ただ違ったのは、先輩の隣に女性がいたこと。親しそうに話している姿に少しだけ先輩との距離を感じた。いつもはあんなに近くにいるのに、今はほんの数メートルしか離れていない距離がとても遠く感じた。そんな憂鬱な心境に先ほどまで感じていた緊張など吹っ飛んでしまった。授業が始まっても頭の中は月上先輩と仲のいい女性は誰だろうとそれでいっぱいだった。だからといって、先輩に「あの女性は誰ですか」と聞いたところで、私は先輩の彼女ではいないし、それにただマンションの隣に住んでいるだけの先輩後輩の関係でしかないのだから。交友関係に首を突っ込むのは非常識にしかなりえない。それに、その女性こそがもし先輩の彼女だったらもっと立ち直れない。私はいつからこんなにも先輩のことが気になっているのだろう。ただ、確信したのは私が、先輩に親しみ以上の感情を抱いているということ。それが好意なのかはわからないけれど……。そんな思いを抱えたまま、一日が過ぎた。そして、私はマンションに帰宅したときに、先輩があの女性と共に部屋にはいっていくのを見てしまった。あの女性が先輩の彼女だと先輩に確かめることなくわかった。だって、先輩が自分の部屋に人を入れている姿なんて私が知っている中でも中々なかったから。
数日が立ち、すっかり私はあの事を忘れていた。突然、あの女性が私を訪ねてきたのだ。そもそも何で、私の家を知っているのかもわからない。私が一方的に存在を知っているようにあっちも知っていたのだろうか。とりあえず、家の中に入れてほしいというので、家の中に上げることにした。先輩の彼女(わたしが思うに)さんの名前は宮下(みやした) 麻里(まり)明(あ)というらしい。年は先輩と同じ21歳で同じ学部でずっと先輩に片思いしていたらしい。勇気を出して告白したところ、先輩には他に好きな人がいることが発覚、失恋してしまったそうだ。そこで、疑問が出てくる。「先輩の好きな人って誰?」。宮下先輩もそれが誰だかわからなくて、とりあえずマンションの隣人にでも聞いてみようと思ったらしい。ただ残念なことに私にもさっぱりわからない。だって、ついさっきまで宮下先輩こそが先輩の彼女だと思っていたのだから。二人で思索に耽っていると先輩が帰宅する音がきこえた。宮下先輩がドアを開けて出ていった。外からは、何かもめているような声が聞こえてくる。私は、心配になって、部屋から出た。
俺が帰宅すると、何故か家の前に宮下がいた。宮下は俺のことを認識すると詰め寄ってきた。
「ねぇ、紫季君の好きな人って誰?」
「それを俺が君にいう義務はないはずだけど。」
「私はあなたに振られたのよ。知る権利くらいあると思うのだけど。」
「俺の好きな人を聞いて、君は本当に満足するの?」
宮下はこくこくと頷いた。俺は仕方なく、口を開いた。
「俺の好きな人は坂下茉莉さんだよ。君の知らない人だと思うけど。」
すると、宮下の背後で何かが落ちる音がした。俺が彼女の背後に目を向けると茉莉が物を落としていた。茉莉は俺と目が合うと顔を真っ赤にして走り出した。俺は宮下に簡単に断りを入れてあとを追いかけた。
先輩が私を好きっていったの?驚きで思わずその場から逃げてしまった。でも、どうしてそんな素振り全くなかった。マンションから近い公園で一人思案に耽っていると先輩がやってきた。先輩は私の存在を見つけると真っ直ぐ、つかつかと歩いてきた。逃げるにしても公園自体そんなに広くないしとか考えている間に先輩との距離はあっという間になくなってしまった。先輩がおもむろに話し始めた。
「俺が茉莉を好きというのは本当のことだ。信じられないかもしれないけど、初めて会った時に君に一目惚れした。全然格好つかないけど、俺と付き合ってくれませんか?」
本当に?夢でなければ、先輩から交際を申し込まれた気がする。「あの、私の頬をつねってくれませんか?幻みたい感じがして。」と私がお願いすると先輩は不思議そうにしながらもつねってくれた。痛みが走った。つまり、さっきの出来事は現実ということになる。そう認識した途端に嬉しさがこみあげてきて私は気づくと先輩に抱きついていた。先輩が耳元で「返事聞かせて?」と囁いた。私が答えると、先輩は顔を綻ばせて私を抱きしめ返してくれた。
完
自由作品
尾井あおい「ハッカ飴」
さわやかでもらったハッカ飴、ハッカ、かわいそうって言って舐めてた。
かわいそうって言ってるうちから、ハッカ、渇いて、スーッとした。
スーッとしたら、ハッとして、スーツ姿の私はさわやか。
さわやかな私が、デロンデロン舐められている。
ビャンビャン麺怜悧「未完成交響曲」
Ⅰ 子供の情景
<無機的な立方体が左右に行儀よく並び立ち
ガラス質やコンクリート質が冷淡に日差しを反射して、この上なく白々しい。
無駄に浩々とした大通りも塩素殺菌をすましたように、暖かな人生の匂いを消し去り
絶えず私のほうに無感動を投げかけている。
伏見通、不愉快な町だ。
あやうく私はこの町に押し屈められそうになる。
こんな禍々しい通りにいつまでもいるわけにはいかない。盲の金持ちはこのような所を好むのだろう。…………>
不意に覚えて、伏見通の只中に立ち止まった
自身の思考に不快感を感ずる。
しかし自分の意志でここまでの思考をしたのではない。
では誰の思考なのか
言うまでもなく私である。
ただし、厳密に述べるとすれば、
<自発的に>考えたのではない。
考えさせられたにすぎない、
汗で張り付くズボンと、いやに高くなった湿度、その様な種々の不快によって。
ここ最近では私の思考が何らかの確かな形を取って組み上げられることは少ない。
何某かの感慨、言葉、或いはその成り損い、それらが意識の地平を流れ行く。
毎日少なからぬ時間を漠然として不快な怒りに気を取られている気がする。
以前はもっと自由にものを見て、そして、考えていた筈である。
もう何年も、滅多なことでは文字を読まず、そして、書かないのだからそれが理由かもしれない。或いは初めから自由になど考えてなどいなかったのかもしれない。
ハンカチで汗を拭う。
腹の脂肪とベルトとがギチギチと擦れて痛む。
頭痛と共に耳鳴りが訪れる。
体が重い。
年を取ったと思う。
昔は作家になりたかったのだった。
当時は可能性にまみれていた。
自由が血管を駆け巡り、
作家としての人生を送るものだと確信していた。
しかし、少しずつ可能性が
削げ落ちて、学生の隠れ蓑も失った。
後に残ったのはぶよぶよした肌色の私だけだった。
そして最後の分岐点で慄いた。
自身を欺いたのはこの一度だけである。
最後の判断で、退き、諦めたのである。
首を振り、また思考を拉げた。
昔の事ばかり想起するのはずっと前からの悪癖である。
この点だけは変わらない。
自嘲気味の精神はそして再び歩き始めた。
大通りを一つ逸れて、暫く行き、行先に辿り着いた。
古くからの友人のその息子に家庭教師の約束をしてしまって、そしてここにいる。
呼び鈴を鳴らすと、甲高い、装った声が帰って来た。
「はい」御内儀が顔を出した。
Ⅱ 愛のまこと
「はい」
扉を開けると禿びの中年が立っていた
旦那の昔馴染の男で、子の家庭教師役をやっている。
息子も、この男をひどく気に入っているようで、彼といるときは、私と話す時とは比べ物にならない程、よく笑っていた。
「先生いらっしゃいましたよ」
大声で息子を呼ぶ。
「では先生よろしくお願いしますね。」
私は鞄だけを持って、いれかわりに外へ出た。 男が来る時、私は外に出る。そういうことになっている。
同じ家にいるなんて、とてもたえられるものではないし。
厚ぼったく、たれ下がった顔で、そのまま、自由がなんだと幼稚な事を好んで言いふらしている。そのくせ自分は宮吏で、安定した暮らしぶり あの子があんな気の違ったようなことをしはじめたのも奴のあいだ影響だと思う。
コンビニに寄ってコーヒーとサンドウィッチ、そして、下らない雑誌を買い、公園のいつものベンチに座った
「あの子達はまだ来ていないみたい」丁度そう思った所。
遠くから自転車がやってきて、半袖、半ズボンが公園にあつまった。
私は心が脈打つのを感じて、雑誌を開いた ピンボケした文字の上で、私は遠くの愛らしい足を眺めた。
足は、ふいにくるっと回転して後ろを向いた。
膝の裏が私の目に飛び込んで来た。
私は又、ドキリとして眺めた。ふくらはぎと太腿がスーッとなだらかな丘のように広がって膝の裏のくぼみに入っていく。
私もそこに吸い込まれそうな気がした。
「この危うさがいい」
何にも染まっていない硝子のような笑顔、
しかし近づいてしまえば簡単に砕けてしまいそう。
私は心にかみしめた。
もし愛が完全なものへの欲求だとしたら、私は間違ってない
あの子は私にはもうないものを、一番欲しい物を持っているから。
私は自分の手の甲をみつめた。
あの頃私にも、旦那にも若さがあった。
衝動の流れがあった。
でも今はため池のようで、すこしずつ淀んでいくだけ。
愛は永遠ではない。過ぎ去ってしまえば何の意味もない。
今の彼には何も感じない。
それでも愛は偉大だ、ただそこにある愛だけが問題だから。
今のあの子はかがやいてみえる。
「四半世紀分の年下」
そう言って見るとひどく不気味に感じるけれど
でも今ここにある愛はそれがどの様なものでも、それ自身で美しい。
そうしてしばらく眺めていた。
辺りがだんだんと橙に染まり始め、皆自転車に跨り立ち漕ぎで、前のめりに帰っていった。
周囲にはもう誰もいない。
私はまだ少し夢を見ているような気持ちで
立ち上がり、コーヒーの残りを飲み干した。
「今ここにある愛、でもそれでなにが変わるというわけでもないけれど、大人なんだから。」
冷めきったコーヒーは酸っぱく、苦くなっていた。
Ⅲ 我がまどろみはいよいよ浅く
「こんにちは、先生」杖を手に取り廊下へ出た。
「意外に元気そうだね」先生はスリッパを履いて、僕の前へ向き直った
「ええ、まあまあです。 僕は紅茶を淹れますから、先に部屋へどうぞ」
杖で階段を指しつつ言った。 紅茶を淹れて部屋に入る。盆を片手で持ちつつ杖で扉を開けた。
杖を使いはじめてからすこぶる身のこなしが器用になった 「先生、マルコ・ポーロが入ったんです。紅茶のですよ、マルコ・ポーロ 。マシュマロの味がするんです」
僕達は紅茶で一息ついたが、まだ勉強する気にはならなかった。
「二階の窓から落ちたと聞いたけれど、何があったの?」
先生は徐ろに聞いてきた。
興味を隠そうとして、隠しきれていなかったみたいだ。
「失礼ですね、落ちたんじゃないですよ、降りたんです」
「何の為に?」
「先生、ヨハネスニギーゼマンを御存じで?」
「作曲家の? 先月亡くなったとかいう」先生は音楽には明るくないようだった
「ええ、そうです。それを聞いてですね、思ったんです。大きな物語は終ったって、音楽だけではないですよ、
何でもそうです、二十一世紀は。ルソーもチャーチルも
マネも、もう誰もいないんですよ」
先生は不思議そうな顔で何も言わずに聞いていたので、僕は続けた。
「でも僕は漫然と生きたくはないんです。うっすらと消えて行くよりは、 死んだ方がいくらかマシでしょう、そう考えていたら、足がもう窓枠にあったんです。あとは下に落ちるだけです。」
「急展開ですね、空を飛びたかったんですか?
死にたかったんですか?」
「飛びたかったんだと思いますけどね、昔から空は好きですから。よく分らないですね、自分の行動なのに。 とは言え後悔はしてないですよ、僕は挑戦したんだから、僕は少しだけでも飛んだんですよ。
入院費はかさんだみたいですけどね。
先生はどう思いますか?」
嬉しそうに聞いていた先生は少し考えてから口を開いた。
「二十一世紀がどうかは私には分らないけど、君の衝動は貴重だと思うよ。 実際、何度も、目指さない、どこへも向かわない人生は生きられているだけで、 生きてはいないからね」
「でも何をしたらいいか、これが分らないんですよ。
僕はただ大人に成りたくないだけかも知れませんね 上座、下座だの、名刺交換のマナーだの本当に下らないですね。こんな無意味な生き方はないですよ。
あぁ先生の事ではないですよ。
先生は別です。
僕が言っているのは丁度、母さんみたいな人のことです」
「言っておくけれどね、私はどこかへ向かう人でなければならないとは言っていないよ」
「本当ですか?その割に先生は母さんの事を嫌っていると思いますけど」
「正直に言えばね、確かに私はあの人が嫌いだけれどね、 でもその嫌悪の中に、どんな他のどんな判断も差しはさまないんだよ。
君の母さんには自由に生きる自由と同時に、死んだように生きる自由もあると考えるからね。もったいないとは思うけれどね。どんな信念も生活も理論的に間違っていない限り否定することは間違っているからね。
しかも君のお母さんも私のことが嫌いだろうからね。ここには相対的な相互規定の関係があるんだよ。」
先生は諭すように言った。
「煙に巻かれたような気がしますね」
「とにかく君のやりたいことも、やるべき事も君の内側に 見つけるのでなければ、意味ないからね、人に聞いても無駄だよ。」
先生は折に触れて、自由を賛美したが、自身についてはあまり語ろうとしなかった。
僕は先生についての好奇心が心のうちに膨れ始めたのを感じた。
一方少しのためらいもあったがそれでも勢いに任せて自分の口をつかせてやることにした。
「先生は作家志望でしたっけ? 今はもう書いていないんですか?」
先生は虚を突かれたような顔をした。
「私はもう公務員だからね、大学院生時代に判断を間違えたんだよ。決断の時はすぎてしまった。 そして」
「そして?」
しかし先生は口を噤んでしまった。
しばらく押し黙って考え込んで、
そしてとうとう口を開いた。
Ⅳ Frei Aber ……
一通り授業を終わらせ、丸の内を後にする頃には、日が沈みかけていた。
昼間にはあれほど高圧的だった伏見通も今では、敗残兵の様にうなだれて沈み込んでいる。
「光とは色彩である」
そういう事なのだろう。
しかしそのようなことはどうでもいい。
自身の内に生じた一つの観念を理解できないでいた。
明らかに先ほどの授業前に生まれたものに違いないのだが
なにが意識の地平に引っ掛かり続けているのだろう。
「自由、公務員、窓枠、判断、時間」
わけのわからない単語が意識を通過していく。
地下鉄名城線に揺られ、矢田駅で降りる。
そのまま香流川沿いを歩き続ける。
高校生時代に通っていたから勝手に足が向かったのだろう。
足が勝手に。そう勝手に。勝手に?
運命は往々にして音を立てずに迫ってくるものである。
不意のこと、何の前ぶれもなく、自身を困惑させていたその観念に触れたような気がした。
そして遂に呟いた。
「私は作家になるのか?」
それに呼応して、気体の軽さと液体の衝撃を持った奇妙な何かが体をかけあがって、目を見開いた。
私の眼前には
土手に連なる木々が、ガードレールが<在った>
黒光りする香流川が<在った>。
そして川を照らす月が木々の上に<在った>
ずっと川沿いを歩いていた。
だから川沿いは最初からずっとあった。
しかし今ではもっとありありと<在って>、
動かないまま私のほうに飛び込んでくる。
いまや私は川沿いに<居る>
静かな驚きの中で、自分の方に降り直った。
「私は作家になるのか?」
提出された疑問は私をぎょっとさせた。
私は今まで自分が自由だと思っていた。
しかし私はいつの間にか無意識の毛布にくるまって、
うたた寝をしていたのだ。
脚本の無い映画を延々見ていたような心持だった。
ところが今やもう<私は>再び自分の上に舞い戻ってきた。
「作家になるのか、ならないのか」この判断は十余年前の私が最終判断を下したものだ、とそう思っていた。
それも間違った判断を。
私は、「私は○○である。」という言葉を使って
「私は○○ではない」ということを否定するばかりか
「私は○○でなくて××でありうる。」という事すらも
否定し、多くの物事をあるがままに承認していたのである。
しかし、<私>が私の元に帰還した今では、私は絶えず
撰ぶことが出来る、そして撰ばねばならない。
問いはもう投げかけられている。
私は何になるのか。
私は自分の血管の内に昔のような希望が、もう一度流れ出していたのを感じていた。
しかし一方で同時に恐怖も眼前に現れていた。
そもそも、この問いを私が誤魔化し続けていたのはそのような不安のためなのだろう。
作家になると言って、遊びの旅ではない。
もしやるならば、私は地位、安定、友好、財産
その多くを賭さねばならない。
私はそれらを賭すべきだろうか
答えは、まだ存在しない。
だから私が作らねばならない。
このような場合に、私には絶対に可能だと夢想することも、不可能だと絶望することも
同様に間違っているように思える。
ことが起こるまでは事が起こるかはわからないのだから、希望も絶望も一つの態度にすぎない。
私はどう転ぶかわからない。
この不安の中で私は自身を引きずりつつ撰ばなければならない。
「或いは私は深夜の狂熱にあてられているだけなのかもしれない」その様な不安さえある。
私には私のことがよく分からないのだ。
明日の朝になれば私は今日のこの感動と苦悩とに
頭痛と共に、醒めた目線を投げかけるかもしれない。
私が作家を目指すか、そして私が作家になりたいかは、 私が事実本を書き上げることによってしか分らないのだ。
<しかしそれはどうあれ、それは<私の>判断なのだ>。
私は顔をあげ、これらの不安を持って、再び歩き始めた。
月はもう雲に隠れ、黒々と流れる香流川の行く先は闇闇として、容易に見通せはしなかった
北海道牛乳プリン「街の風呂屋」
はじめて街のお風呂屋を見た時、なぜ煙突がついているのかわからなかった。なぜなら私はずっと山奥に住んでいて、お風呂といえば、いつも温泉に入っていたから。湯は湧き出るものではなく、沸かすものなのだと、十一の時にはじめて知った。
引き戸を開けると、人が七、八人入ればいっぱいになるくらいの部屋があった。碁盤の目のように区切られ、そのマスひとつひとつに番号がふられている大きな木箱が、客を囲むように聳え立っている。花嫁箪笥ほどの高さがあるが、奥行きはそれほどない。
「いらっしゃい」
白字で「男湯」「女湯」と書かれた、紺色と朱色の暖簾がぶらさがっている。その中央に、還暦を超えたかと思われるおばちゃんが、赤い半纏を着て台越しに座っていた。
「見かけないお嬢さんだねぇ、ここははじめてかい?」
「へえ」
よく出稼ぎで街に下りている吉川のおっちゃんから、お風呂屋に行ったらまず下駄箱に履物を入れるのだと、番頭に金を払うのだと、女は洗髪代もちゃんと払うのだと、教えてもらった数々の事項を思い出した。番頭とは男性かと思っていたが、このおばちゃんが番頭なのだろうか。
「履物はそこに入れるんだよ。扉が付いてるだろう?」
私があまりにもきょろきょろして、まごついていたものだから、私がこのお風呂屋に来るのがはじめてなだけでなく、そもそも「お風呂屋」というものがはじめてだということを、おばちゃんは見破ったのだろう。おばちゃんの指さす方向へ目をやると、先ほどの木箱のマスひとつひとつに銀の取っ手が付いていて、全てが扉になっているのだと、そのときはじめて気がついた。私は
「あ、ありがとうございます」
と口走って、さっさと履き物を脱いだ。「12」の扉を開けて、靴を置き、扉を閉める。
「あ、そうそう。札抜くと鍵しまるからァ」
おばちゃんは勘定台の下にもぐりこんで、なにかごそごそやりながら声を張った。
札を抜く……?
よく見ると、同じく「12」ともうすぐ消えそうな文字で書かれた木札が、取っ手と扉の狭間でカラカラしているのがわかる。札の先端をつまみ、そのまま垂直にふういっと持ち上げてみる。それから取っ手を引っ張ってみると、扉は開かなかった。
脱衣所に入ると、内側を障子のように仕切られた棚が並んでいた。浴場につながる扉の隣には、体重計と足つぼ板が設置されている。番頭のおばちゃんの背後に飲み物があるのが目に入った。中身の透ける冷蔵庫の中で、茶色の飲み物が入った牛乳瓶が見える。
「そこの籠使っていいから。棚使って、服入れてから入りな」
私は、今から服を脱ぐこの脱衣所は、おばちゃんが玄関口の方を向いていないかぎり、常に番台から丸見えだということに気がついた。先ほどまで「番頭とは男性ではないのだろうか」と釈然としなかったが、こういうことなら、番頭がおばちゃんで良かったと思った。けれど、あの茶色の飲み物を見たいがためにおばちゃんの背後に回るには、なんとなく気が引けて、あの珍しい飲み物をじっくり見ることができないのは、少し残念だった。
白く曇った引き戸を開けると、全身にぶわっと今までに感じたことのない、強い熱気を感じた。私は戸を閉めて、濡れたタイルの上を歩いていく。明るい。天井が高い。コーンという桶の音と、タイルに湯の叩きつけられる音がよく響く。じわりと汗がにじんでくる。湯気の向こうには、何十人も入れそうなほどの大きな浴槽に、既に三人ほど人が入っている。その頭上には、白く雪の積もった富士の絵が、壁いっぱいに描かれている。
洗い場で一人、体を流している女性がいた。三十代くらいに見える。人工的な明るさの下で、濡れて漆のような艶を放つ黒髪が腰くらいまで伸びている。私はその人の隣には座らないで、もう一つ隣の洗い場に椅子を置いて座った。あまりじろじろ見すぎないように、その人の蛇口の使い方を横目で見ながら、私は蛇口をひねって湯を出すことに成功した。
鏡の下にポンプ式の容器が二つある。それぞれ「フラワーシャンプー」「ボディソープ」というラベルが貼られている。ボディは「フラワー」ではないのか……、とささやかな絶望をしてしまう。洗い場全体を見渡してみれば、これと同じものが全ての鏡の下に設置されているのがわかる。十六年山奥に住んでいて、お世辞にも良い石鹸を使っていたとは言えない私だが、いかにも大衆浴場で使われるだけのために工場で安く大量生産されたような、安っぽい石鹸だと思った。しかし実際に使ってみると、ふわりといい香りがして、花の、都会らしい香りの石鹸で髪からだを洗うことができるという、とても贅沢な気持ちになった。
いちばん大きなお風呂に入ってみた。湯がなかなか熱い。底が思っていたよりもツルツルしている。浴槽の壁にもたれて肩を湯に埋め、脚をのばす。うすく開いた目で湯気を確認し、その向こうの富士を眺める。目を閉じれば、熱は体の芯を十分に刺激し、湯に浸かっているところから全身が温まっていく。
人の体を温めるための熱である。骨の髄から末端まで、全てを温めるための熱である。この熱を作り出すのに、あの煙突がはたらいているのだろう。もくもくとせわしく煙を出して、はたらいているのだろう。
それにしても、部屋のこんなに明るいのが私は不思議でならない。目を閉じても明るいと感じられるほどである。それから、こういう湯の吹き溜まりに行くと必ずするあの匂いが、どこからも感じられない。体を温めてくれる熱は確かにあるし、音もよく響く。湯の存在は確かに感じられるのに、匂いだけが、足りない。
しゃべり声が聞こえる。二人組が浴場に入ってきた。会話に耳を澄ましていると、なにやら東京に出稼ぎに行った子供について、お互いに近況報告をしているらしい。
私はそこで、少々自分のことを考えてみる。明日からの工場勤めで、上手くやっていけるだろうか。安定して仕送りできるだろうか。理不尽な上司に遇わないだろうか。友達はできるだろうか。仲間外れにはされないだろうか……。
二分ほど経っただろうか。桃色の富士が壁に描かれる小さな浴槽が目に留まる。かわいらしい絵だと思った。そちらのお風呂にも入ろうと、私はいちど湯から上がった。
あの番頭と同じくらいの年齢と見えるおばちゃんが、目を閉じて一人で浸かっている。私が右足を入れると、思いのほか熱くて、あわてて足を抜いた。水を足してもいいだろうかと思ったが、おばちゃんは何事もなかったかのようにただじっと湯に浸かっている。湯からとっくに上がっているのに、私の足はまだヒリヒリしている。
私はこのかわいらしいお風呂に入るのを諦めた。どうしてあのおばちゃんはあんなに熱い湯に平然と浸かっていられるのだろう。私も年を取れば、あの熱い湯を心地いいと思えるようになるのだろうか、などと、取るに足らないばかなことばかりに思いを巡らせていた。
私が湯から上がった時には客がかなり増えて、脱衣所は込み合っていた。私は人を避けながら自分の籠を置いた棚へ歩いていき、服を着る。
あまりにも人が多すぎて、あのおばちゃんの背後の茶色い飲み物をじっくり観察できる余裕がない。せめて名前だけでも知りたいと思い、脱衣所を抜ける際に、ちらと冷蔵庫に貼られたラベルの文字を確認した。
コーヒー牛乳
そう書かれていた。
はじめてお給金をいただいた日に、あの「コーヒー牛乳」を買おう。
まだ髪に残るフラワーシャンプーの香りに心を躍らせながら、私は濡れた手ぬぐいを掛けた桶を両手に抱え、復興した街の中を、赤い夕陽の方へ歩いて行った。
都会も悪くない。
そう思った。
宿身代の悪魔「不撓の高潔と未熟な純血」 前編
「君、大丈夫かい?」
——降りしきる雨の中、腰が抜けて立てない私に差し伸べられた手。この光景を忘れることは、二度と無いだろう。それほどまでに彼女……『高潔なるマグノリア』との出会いは鮮烈で、かけがえのないものだった。
一.邂逅
「い……いや、来ないで……」
普段は天頂で輝く銀月の光も雲で遮られ微かなものとなり、冷たい雨と闇に包まれながら、少女リリィは絶体絶命の窮地を迎えていた。入り組んだ遺跡で逃げ惑っていたが、遂にひと際大きな碑に逃げ道を塞がれた場所で囲まれてしまったのだ。周囲には四対の黄色い光が爛々と揺らめいている。
大ネズミ——永遠の満月に照らされし地、ゼーゲタディのいたるところに生息する、この地の数ある脅威の一つ。一対一では大したことはないが、常に複数体の群れを形成し数の力で獲物を貪る。熟練の戦士であっても油断をすれば後れを取りかねない危険な相手に、現れたばかりの『いしずえ人』であるリリィが敵うはずはなかった。
右手で『闇鉄の短剣』を闇雲に振り回すもあっさりと躱され、為す術無く押し倒されてしまった。リリィを抑えるひと際大きな個体が牙を剝く。歪な門歯が眼前に迫り、あまりの恐怖に思わず目を瞑ってしまったその時。
「はあぁぁぁぁっ!!」
「——ぇ」
ぐしゃっ、という音とともに、不意に身体の重みが消え失せた。気づけば周囲のネズミ共の気配も消えている。恐る恐る瞼を上げると、一人の若い女性がそこにいた。
一七鱗(一鱗=10㎝、一七鱗は170㎝)ほどの背丈の半ばほどまで伸びた紫色の長髪。胸甲を身に着けた胴からは、微かな橙と青の二色の光が放たれている。そして何より、髪と同じ色の双眸に宿る、強烈な意志の煌めき。
「君、大丈夫かい?」
その瞳の輝きに目を奪われながら、リリィはこれまでのことを思い出していた。
【石ころ】
何の変哲もない路傍の石。目端の利く者は投擲に向いた形状のものを的確に選び抜き、貴重な遠距離武器として携帯する。
石ころ集めを笑う者は、野鳥の脅威を知らぬ未熟者である。
二.始まり
「…………ん、んぅ……、っ!?
こ、ここは……?」
白髪の少女、リリィが目を覚ますと、そこはまるで見覚えのない場所だった。精緻な彫刻が施された柱が規則正しく立ち並び、壁に灯る翠色の灯が内部を優しく照らす。部屋の中央にはそれ自体もぼんやりと光っている棒のようなものが突き立てられていた。ふと振り返るとそこには祭壇があり、周囲と同じく翠色に輝く珠が鎮座していた。
思わず手を伸ばしたその時、背中から声がかけられた。
「目を覚まされたのですね、いしずえ人よ」
「ひゃっ!」
思わず肩を跳ねさせ、慌てて振り返ったリリィの目に映ったのは、闇から滲み出たような深い黒色の衣を纏った女性だった。フードを深く被り、口元しか伺うことが出来ない。どこから出てきたかもわからない彼女に思わず後退ったリリィに構わず、その女性は語りを続けた。
「私は『闇の巫女』。新たに現出なさったいしずえ人様をお導きする役割を担っております。新たなる『いしずえ人』よ、貴女は与えられた祝福と使命について、知らなくてはなりません」
「使命……?祝福……?」
「はい。貴女方『いしずえ人』は、闇竜様の加護を受けし存在。しかし、その祝福は同時に使命までも齎すのです」
そういうと、『闇の巫女』と名乗った女性はまるで状況が呑み込めずにいるリリィの前に跪き、手を差し出した。
「どうかこの手をお取りください。さすれば、自ずと理解なされるでしょう」
言われるが儘にその手を握った瞬間、リリィの視界は闇に呑まれた。
辺りの全てが真っ黒。一筋の光明もなく、足元の感覚すらも失われ、ただ闇に揺蕩う自分だけが認識出来る、そんな世界の中で。リリィは確かに、闇竜の声を聞いたのだ。
ふと気づけば、リリィは元居た場所に戻ってきていた。目の前には跪き、こちらの手を握ったままの『闇の巫女』が頭を垂れているのが見える。不思議なほどに落ち着いた心持ちで、リリィは静かに手を振りほどき、自らの身体を確認した。軽い布の服に、動きを阻害しないように膝上丈のスカート。そして足を守るロングブーツ。
ぼんやりと両の掌を見つめていると、『闇の巫女』が立ち上がった。
「……無事、ご自覚なされたようですね」
「はい。……まだ、実感は湧きませんけど」
「それはそうでしょうとも。しかし貴女は、確かに今、『いしずえ人』として覚醒したのです」
「最後の確認をしましょう。貴女の使命はなんですか?」
「……この帳の下りた地、ゼーゲタディの各地を巡り、五つの『竜の試練』を乗り越え、竜光を身に宿すこと。そして、この地に下ろされた闇の帳を祓うこと」
「素晴らしい。二百と一六の命持つ貴女達『いしずえ人』は、その恩寵を以てこの地の希望となるのです」
「でも、わたしはなんにも持っていませんし、なんにも知りません。本当に、わたしなんかがそんなこと出来るんでしょうか?」
不安そうに言うリリィに、『闇の巫女』は口元を緩めた。
「謙虚であるのは素晴らしいことです。しかし、怯える必要はありません。ご存じの通り、貴女には闇竜様の加護がある。戦いを経験する度に、自ずとその力は身につくはずです。それに──」
そこで一旦言葉を切ると、『闇の巫女』はローブから何かを取り出した。リリィの手に収まってしまう程の大きさの闇色の球体。なんとなくだが、大きさこそ小ぶりだが、背後の祭壇に鎮座する珠に似ているようにも感じられた。
「それは……?」
「これから旅立つ貴女への、闇竜様からの贈り物です。資格ある者が持てば、その者に相応しき姿へと形を変える宝珠。これはその一つです」
「相応しき、姿……」
息を飲んだリリィに、『闇の巫女』はその珠を差し出した。
「さぁ、手に取って。貴女より先に旅立った『いしずえ人』も皆、この『始まりの宝珠』を受け取って歩き出したのです」
「わ、わかりました。ありがとうござい──って、え?」
それはリリィの手に渡った瞬間に姿を変じた。真っ黒の鞘に包まれた、刃渡り三鱗(30㎝)程の短剣。抜き放ってみれば、その刃までもが明るさを一切感じさせない黒色だった。
「『闇(やみ)鉄(がね)の短剣』……。これが、わたしに相応しいものなんですか?」
「はい。貴女が今、それの名を口にされたことこそがその証。名前だけでなく、その謂れをもひとりでに理解なさっているのでしょう?」
「……なるほど」
しばらく刀身に映った自分の顔をじっと見つめていたリリィだったが、自分の中で整理がついたのか、短剣を鞘に戻し腰に吊るした。
「……わかりました。まだちょっと飲み込めていないこともありますが、なんとか頑張ってみようと思います」
「大変素晴らしいことです。……それでは、私の役目はこれで終わりとなります。貴女が無事に使命を果たされんことを願っています」
「あ……色々とありがとうございました。あの……また会えますか?」
「さぁ、貴女が使命を全うせんとするならば、もしかしたら会えることがあるかもしれませんね。貴女が『最後の英雄』足りえる器であることを願っています」
最後に一礼し、『闇の巫女』はその姿を霧散させた。リリィは先ほど聞いた闇竜の声、そして『闇鉄の短剣』を思い出しながら、部屋の中央にある棒に向けて一歩踏み出すのだった。
【始まりの宝珠】
竜の力の一端が込められた宝珠、その特別なもの。旅立つ『いしずえ人』に対する、闇竜からの餞別。その者にとって相応しい形へと姿を変える。
竜の眼は全てを見通す。その者の本質も、そして背に負う運命さえも。
三.教導
「──なるほど。君はついさっき現れたばかりの『いしずえ人』なんだね」
「はい。まだその、最低限の知識しかなくて……よかったら、色々教えてくれませんか?」
大ネズミ共から救われた後。リリィと恩人の女性は、つい先ほどリリィが現れた場所を拠点とし、腰を下ろして休んでいた。
「勿論だよ。じゃあ、そうだね……まずは、いま私たちが拠点にしているこの棒については理解しているかい?」
「えっと、これは『竜の楔』っていって、わたし達『いしずえ人』のために闇竜……様?が設置してくれたもので、これがある場所には獣や亡者が近づけない……で、合ってますよね?」
「その通り。この『竜の楔』はここみたいな神殿や道のはずれ、森や洞窟の中など、この地の至る所に分布しているんだ。私達が旅をするときは、まずこれを探すところから始めるべきだとされているね」
自らの理解が正しかったことを確認出来てほっと息をつくリリィ。その後も二人は知識の確認を行った。先程の大ネズミのような敵を手にかけると、その『魂の光』を吸収して少しずつ自らの力が増していくこと。しかしその強化には上限があり、竜光を一つ集める度にその天井が上がるということ。『いしずえ人』は疲労や怪我こそするものの、排泄も睡眠も、食事さえも必要とせず、疲労したり傷ついたりした身体は『竜の楔』の光を浴びる他、一定量の『魂の光』を吸収することで癒すことが出来るということ。また、『いしずえ人』の身体年齢は普通では成長せず、複数の竜光を手にしたときにそれが許されるようになるが、それは少なくとも二つでは足りないということなど、闇竜から授かった知識の確認はなおも続いた。
「うん、これだけ確認すれば大丈夫。知識の心配は要らなかったね」
「本当ですか!良かった……」
ほっと息をついたリリィに微笑むと、彼女は傍らに置いていた剣を持って腰を上げた。
「じゃあ、次は『こっち』の確認をしようか」
「えっ……でも、『竜の楔』の辺りでは『不戦の誓い』が敷かれているから戦えないんじゃないんですか?」
「それはそうだけど、お互いの合意があれば、一時的にその縛りがなくなるんだ。勿論、殺したりはしないよ?生き返ることが出来る回数だって有限だしね」
「……そういうことなら、お願いします」
そうしてリリィも立ち上がり、二人はそれぞれ得物を持って向き合った。
「そういえば自己紹介がまだだったね。私はマグノリア。しがない『いしずえ人』さ」
「リリィです。……あの、お手柔らかにお願いします」
「それは約束出来ないけど、私には相手を無駄に痛めつけたりする趣味はないと言っておこうかな。
──先手は譲ろう。どこからでもかかってくるといい」
そう告げた瞬間、マグノリアの纏う空気が変わった。リリィに攻めて来て貰うために隙だらけではあるが、苛烈な戦意は本物だった。そして本物過ぎたがゆえに、
「………………………………」
「……………えっと、君の実力を見たいから、君の方から攻めて来て欲しいんだけど……」
大ネズミ共に追い掛け回されたこと以外の戦闘経験を持たないリリィには刺激が強すぎ、震えながら固まってしまった。
「じゃあ適当に構えているから、思うままに打ち込んで来てくれ」
「は、はぃっ」
大ネズミに貪られかけた時の恐怖までぶり返してしまったリリィを抱き締めたり頭を撫でたりと何とか慰め、改めて二人は向かい合う。ほぼ棒立ちで大剣を構えただけのマグノリアに、リリィが斬りかかる形で推し量る運びとなった。しかし、ここでもマグノリアは苦笑を禁じ得なかった。
「てやぁぁぁぁっ!」
僅かに逡巡した後、喊声を上げて突貫してきたのだ。それも、短剣を両手で握りしめ、身体の前に構えたままで。当然マグノリアが軽く刃を払い除けるだけでバランスを崩し、「あうっ」と横に倒れこんでしまった。
「ああ、大丈夫?ごめん、力加減を誤ってしまったみたいだね。しかし……うーん」
「だ、大丈夫です。……あの、どうかしましたか?」
「いや、大したことじゃないよ。実は私はずっとこの大剣を使ってきたから、短剣みたいな軽い武器の扱いをうまく教えられそうか不安だったんだけど、かなり基本的なことから教える必要がありそうだから当面は心配しなくていいかなって、それだけのことさ」
かなり言葉を選んではいたものの、結局『お前はド素人だ』と遠回しに言われていることにしっかり気づいてダメージを受けたリリィに苦笑し、改めてこう告げた。
「というわけで、特訓といこう。あぁ、遠慮はしなくていいよ。私達には時間の制約なんてないんだから」
「はいっ、よろしくお願いします!」
【ドラゴンウェポン】
大いなる竜の御業、その一端が込められた武器の総称。『竜業武器』とも呼ばれる。
ドラゴンウェポンは担い手を選ぶ。その身を預けるに足ると武器に認められないうちは、手に入れても通常の武器と変わらない性能しか発揮出来ない。
竜とは即ち現象である。栄光、絶望、惨劇、奇跡。全ては竜と共にあるのだ。
四.覚醒
「やああぁぁぁぁっ!」
裂帛の気合を上げて『闇鉄の短剣』を突き込む。頭部に渾身の一撃を受けた大ネズミは、断末魔と共に倒れ伏した。
「やったぁ!倒せました!」
「おめでとう。ようやく『らしく』なってきたんじゃない?」
「これもマグノリアさんのおかげです!」
「そう言われると照れ臭いね。その腕甲も、上手く扱えているみたいだし」
飛び跳ねて喜ぶリリィの左腕には、マグノリアが贈った腕甲『流水のヴァンブレイス』が装着されていた。短剣を両手で振り回すのは、柔軟な動きが出来るという長所を台無しにしている。そこで、彼女が使っていなかった左手に装着できる装備を試しに使わせてみたのだ。
「はい!攻撃をこれで受けたら、するってネズミが流れて行って、もうすごかったです!」
「見ていたよ。私はそんなに上手く扱えなかったからダメで元々だったんだけど、想像以上だった。才能があるのかな?」
感心したように頷くマグノリア。それもそのはず、リリィは少し説明しただけのぶっつけ本番で『流水のヴァンブレイス』を使いこなして見せたのだ。
この腕甲は表面が滑らかな曲線を描いており、相手の攻撃を受け流すことに特化している。上手い角度で受ければ、ある程度の衝撃までなら殆ど腕に負担をかけずに逸らすことが出来るのだ。しかしその難易度は非常に高く、マグノリアには使いこなすことが出来なかった。
(最初は想像も出来なかったけれど、もしかしたらこの子は、途轍もない才能を秘めているのかも知れない)
無邪気に喜ぶリリィに目を細めつつ、マグノリアは大きな予感に知らず身を震わせるのだった。
その後、拠点としていた『風の竜殿』を離れて至近の集落跡地に向かった二人は、そこで亡者、そして死肉を漁る野犬・野鳥を相手に戦闘訓練を行った。リリィは素人殺しと名高い野犬には苦戦したものの一度も死ぬことはなく、マグノリアが最後の課題とした複数戦に挑戦した。
そして、右手の短剣で二匹の犬を牽制しつつ的確な石礫で鳥を撃墜。しばし睨みあっていたが、焦れて突っ込んで来た片方の犬の突進を腕甲で受けて後ろに受け流す。更にその勢いを利用して大きく踏み出し、思わず怯んだもう一匹の犬の眼球を強かに斬り裂いた。後は最後に残った犬を丁寧に処理し、鮮やかに一対三を切り抜けたのだ。
「凄いな、リリィ!犬と鳥をこんなに簡単に捌き切るなんて、とても駆け出しとは思えないよ」
「えへへ、ありがとうございます。これもマグノリアさんのおかげです」
「もうすっかり一人前だね。本当に見違えたよ。とてもさっきまで短剣を両手で振り回していたとは思えないくらいだ」
「もう、意地悪しないでください」
マグノリアからの手放しの賛辞に満面の笑みを浮かべるリリィだったが、続く言葉で表情が凍り付いた。
「これなら、一人でもやっていけそうかな」
「えっ……」
「私が野犬一頭を綺麗に倒せるようになるまで、どれだけかかったことか。完全な独学では無いことを加味しても、君の才能は私のそれを大きく超えて──っとと、急にどうしたの?」
マグノリアが喋っているのも耳に入らず、頭が真っ白になったリリィは、気づけばマグノリアに抱き着いていた。
「~~~~~~っ!!」
「ちょ、ちょっと……本当にどうしたの?ほら、あんまりやると、可愛い顔が傷付いてしまうよ?」
鼻を潰さんばかりに胸甲に顔を押し付け続けるリリィに困惑したマグノリアだったが、やがて困ったように笑うとそっと抱き締め返し、あやすように語りかけた。
「そこまで慕ってくれるのは嬉しいけど、ここで別れるのは君の為でもあるんだ。ここより先、竜殿の加護の及ばない地では、既に竜光を二つ宿している私を狙ってより凶暴かつ強大な敵が襲ってくる。さっき戦ったのと同じような野犬でも、手強さが桁違いなんだ。まだ一つも竜光を持たない君にとっては、あまりに荷が重い旅路になってしまう」
だからここで別れたほうが良い、と諭すマグノリアに、リリィが返したのは拒絶の意志だった。
「……それでも。それでも、私は貴女と一緒にいきたい。貴女の隣を歩きたい!」
声を震わせ、目の端には涙を浮かべながら、それでもリリィは顔を上げ、マグノリアと目を合わせた。あの時惹かれたのと同じ、純紫に煌めくその瞳から勇気を貰うために。
「強くなる。わたし、強くなります。貴女に並び立つために。貴女と共に、使命を全うするために!だからお願い、わたしを一緒に連れて行って!」
その時、確かにマグノリアは見た。惑いを抱えていた少女の黒瞳に、覚悟の炎が宿るのを。艱難辛苦を撥ね除けんとする、確固たる意志の煌めきを。
そしてそれと同時に、少女の覚醒を寿ぐように、リリィが腰に吊るしていた『闇鉄の短剣』が一瞬だけ熱を持った。
「きゃっ……って、え?竜、業……?」
「なにが……なぜそれを?まさか、その短剣はドラゴンウェポンだったのか?」
初めに『闇鉄の短剣』を持った時と同様にひとりでに頭に浮かんできた言葉を口に出したリリィに、マグノリアは目の色を変えた。
「ドラゴンウェポンは『竜の試練』を超えた時にしか手に入らないと思っていたけど、『始まりの竜珠』が変化することもあるんだね。しかし……」
「マグノリアさん。わたし、また強くなりました。この武器と、この『竜業』があれば、もっともっと強くなれます。
それでも……一緒にいちゃダメですか?」
ぎゅっと拳を握って問いかけるリリィ。懇願にも似たその問いに、マグノリアはしばらく黙り込んだ後、根負けしたように眉尻を下げた。
「……わかった。そこまで言うなら、一緒に行こうか」
ぱっと顔を輝かせたリリィに釘を刺すように、ピッと指を立てた。
「ただし!ちゃんと私の指示には従うこと。私が『逃げろ』って言ったら、私を置いてでも一旦逃げるんだよ。約束出来る?」
「う……でも……」
「約束出来るね?」
「……はい」
『圧』に押されて渋々承諾したリリィに満足げに頷くと、マグノリアは西を指さした。
「それでこれからだけど、取り敢えずあっちに進もうと思っているよ。君も感じているだろう?『竜の試練』を受けるために必要な三つの鍵、その一つがあっちにあると」
「はい。何か惹かれるような感じがします」
「よし。その感覚は覚えておいた方がいい。鍵の在処に近づくと、今みたいに大まかな方角を教えてくれるからね。
それじゃあこの集落をもう一回探索したら出発しようか。君の『竜業』の確認もしたいし」
「はいっ!」
そして歩き出したマグノリアだったが、ふと何かを思いついたように立ち止まってこう言った。
「あぁ、それと。私のことは『リア』でいいよ。これからは一緒に旅をする仲間だ、堅苦しいのは無しにしよう」
「えっ……いいんですか!?」
「勿論。戦闘中に声を掛け合うことを考えても短い方が都合が良いし、気兼ねなく呼んでくれ」
その時のリリィの表情を評して、後にマグノリアは「まさに花が咲いたような、という言葉がぴったりの、こちらまで嬉しくなってしまうような笑みだったよ」と述べたという。
【闇(やみ)鉄(がね)の短剣】
闇に蝕まれ、尚も強靭さを失わなかった類稀な鉄で造られた短剣。漆黒に艶めく刃は闇の片鱗を宿し、その真の力を解放した時、与えた傷口からは血だけでなく魂までもが滴り落ちるという。
竜業は『必滅の誓い』。刃の切っ先を相手に向け、確殺の覚悟を身体に刻む。
身体能力が大きく向上し、疲労を感じにくくなる。連続では使用できず、相手を仕留めるか逃げ切られるまで効果は持続する。
闇鉄は運命の激流に惹かれ、それで造られた武器を振るう者もまた、熾烈な運命を背負うとされる。
或いは、運命が闇鉄に引き寄せられるのだろうか。
あとがき
登校は登山「愛しき隣人」
お初にお目にかかります。登校は登山と申します。八事日赤からだと勾配がきつくて辛いです。
もともとは自己紹介代わりに文学研究会の説明会に持って行こうとしていた掌編が間に合いそうに無かったので、ここでの公開となりました。こういう文章を書く人間です。どうぞ一つ、よろしくお願いします。
透瀬いと「あの日映した空を掬う」
はじめまして。
執筆したものを誰かに読んでもらうということがほぼ初めてなので緊張しています。
これまでライトノベルやグロテスク、SFばかり書いてきたので今回のお話は初めてのジャンルだったのですが、こういうのも悪くないなと思いました。
ドクダミ「いつだっていつかは」
作品というよりかは現在の心情になってしまいました。この作品が部誌に掲載されるころには少しでも改善されていることを祈ります。
餅屋「暗く湿った場所で」
初めて小説というものを書きました。処女作のわりにテーマ決定の時に浮かんだアイディアだけで突っ走ってしまい、粗が目立っていないか心配です。温かい目でご覧ください。ちなみに私は賭け事の中で競馬が一番好きです。自分の指を賭けるほど、のめり込みたくはないですね。
李音「出会いは突然に」
大学に入ってなかなか作品を作る時間がありませんでした。ですので、クオリティは高くありませんが、作品を楽しんで頂ければ幸いです。
尾井あおい「ハッカ飴」
今回は現代詩的なものを書いてみました。ご笑覧ください。
ビャンビャン麺怜悧「未完成交響曲」
次号寄稿予定の文章と関連を持たせて作った小説です。しかも多くの表現をそぎ落とし、粗が出てしまいました。よって全体として難解で不親切になってしまったかもしれません。失礼いたしました。(じきに完全版を書きたいと思っております)
それにも関わらず読了して下さった方、誠にありがとうございます。失礼ついでに次号も併せて読んでください。
北海道牛乳プリン「街の風呂屋」
締め切り四日前から始めてよく書いたなと思いました。私は温泉のコーヒー牛乳も好きですが、給食のミルメークも好きです。
宿身代の悪魔「不撓の高潔と未熟な純血」
皆さん初めまして、新入生の宿身の悪魔と申します。今回一発目ということで、気合を入れてそこそこ長い前後編作品を書こうと思ってはいたのですが、気づけば前編の時点で元々の総字数を超えていました。見通しが甘すぎる……。
そのせいで〆切に一週間も遅れてしまったので、次はこうならないよう余裕を持って執筆の時間を取ろうと思います。