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Striking Anew Vol. 168 テーマ「星」

Striking Anew vol. 168「星」です。
*作者からの許諾が得られた作品のみ掲載しています。



テーマ作品

李音「星に願う」

 この学校には、昔からある言い伝えが存在する。校内のどこかに描かれている流れ星に願い事を言うと願いが叶うというものである。この言い伝えが今では告白する時のジンクスになっている。だから、流れ星を見つけられると告白が受け入れて貰えると言われている。ただ、みんなどこにあるのかいわないためどこにあるか正確に知っている人はいない。まさに幻のジンクスである。

 私は今日、告白をする。もし、彼が受け入れてくれなかったらどうしようと心臓がバクバクしている。最悪の場合のことしか考えられない。
 でも、今日告白すると決めたのには深い理由(ワケ)がある。

 私、雪野雫(ゆきのしずく)には幼なじみがいる。腐れ縁で遂には高校まで同じところに進んだ。
 彼の名前は風間雷(かざまらい) という。彼はサッカー部で主将(キャプテン)を務めることと身長が180cmという高身長でさらに顔も良いとこればモテないわけはない。実際にモテ始めた。幼なじみである私にもいろんな人から、付き合ってないの、恋人はいるの、好きなタイプはなどの質問が多くされるようになった。
 そんな私も小さな頃から雷のことが好き。でも、私自身は至って平凡である。黒髪で、眼鏡をかけていつも雷を応援する人の陰に隠れてコソコソ応援しているような性格。人前に立つなんてどうやってもできないような性格。誰がどう見たって不釣り合いだって言うのだろう。だから、告白なんかするよりも幼なじみっていう立場に甘んじることで彼のそばにいることを選んでしまう。
 そんな弱い私の存在なんて彼の世界には必要ないだろうにいつも優しく接してくれるから恋する感情を止 めることができないのだ。いつか、彼女という存在が出来た ら、幼なじみなんて気にならなくなるだろうか。
 ぼくには大切な幼なじみがいる。幼い頃から一緒にいて本人は腐れ縁とか思っているかもしれないが、雫と同じ高校に行くためにぼくはかなり頑張った。昔から勉強ができる彼女と運動しかできないぼく。
 いつ頃からか一緒にいることが少なくなった。急に彼女がぼくを避け始めたのだ。最初の頃はどうしてだかわからなかった。でも、ある時見てしまったのである。彼女がクラスの女子から「ぼくに近づくな」と言われている場面に。
 ぼくはそんなことを言うなと彼女たちに入って行こうとしたが、もしぼくが行って、雫が責められるかもしれないと思ったら足がすくんでしまった。それからは、彼女たちが見ていないところで雫に話しかけることようになった。
 
 私は高校生になっても相変わらず雷とは微妙な距離感でいる。それでも、学校で話しかけることぐらいはできるようになった。近くにいる女子の視線はかなり刺さるが。
 でも、最近私を悩ませている女子がいる。名前は高原灯(たかはらあかり)という。後輩で、サッカー部のマネージャーをしている。そのためか分からないが、よく部活のことでと言って割り込んでくるのだ。それに、部活のことでと言われてしまえば私には彼を引き止めることもできない。
 高原さんは一学年下の後輩で、明るめの髪にウエーブがかかっている。そして、かわいらしい顔立ちをしていると入学してから噂になるほどであった。私とは正反対の性格で明るい彼女が羨ましくないといったらうそになる。本当は彼女みたいに明るくて自分に自信があるような性格でいたかった。
 
 高校三年生の私や雷はそれぞれの進路が異なるため、クラスが違う。私は、国立大学文系コースで一組、彼はスポーツ推薦で私立大学の理系コースの六組とかなり離れている。 そんな私たちは彼の朝練がなければ大抵は一緒に通学している。
 すると、前から「雷」という声が聞こえる。声の主は木本霖(きもとりん)といい、雷と同じサッカー部に所属してい て、副主将(キャプテン)を務めている。雷が「おはよう」と声をかける後ろで私も「おはようございます」と答える。 そして、木本くんのほうから「雫ちゃんもおはよう」と声をかけてくれる。
 「雷先輩、霖先輩おはようございます」と後ろの方からきこえてくる。
 高原さんだ。彼女の視界には二人のことしか映っていないのだろうと感じるほど彼女は私の存在を華麗にスルーするのだ。だからなのか、いつも私には分からない部活のことで盛り上がっている三人には見つからないように気配を消して教室まで行く。

 今日も朝から高原マネージャーがくるから、雫といれる時間が削られて最悪だった。別に朝から話さないといけないことなんてないだろうに。霖は別に雫にぼくと同じように接してくれるからいいけど。彼女が来ると。雫の顔が曇るから。本当困るのだ。
 いい加減、彼女との関係をはっきりとさせないといけないのかもしれない。そのためには、少しぐらい猫を被る必要があるな。雫を笑顔にできるなら、それぐらい簡単だ。その為には、種をまいておく必要がある。
 そういえば、さっき彼女から顧問の先生が引退する時に渡すプレゼントを買いに行かないかと誘われたな。どうせなら、それを利用すればいいか。次の休み時間ぐらいに連絡するとしよう。
 「さっきの顧問の先生へのプレゼントを買いに行くって話だけど、いつごろ都合がいいの?」と早速連絡した。すると、すぐに「いつでも先輩の都合に合わせます」と返信がきた。「それなら来週の週末はどうかな」と連絡をする。「日曜日がいいです」と返信がきたので「了解」と返信をして休み時間が終わった。
 まぁ、後の細かい時間は後で確認することにしよう。
 
 私が、廊下を移動教室で歩いていると、前の女子の集団から急に甲高い声が上がった。何かあったのかと耳を傾けると「今度、雷先輩とデートすることになったの」と自慢の ようにいっている高原さんの声が聞こえてきて、周りからは「本当に」という声や「どこで」などの声があがっている。
 私は、居ても立っても居られなくて走り去るよう移動教室へと行った。雷と高原さんがデートするってどういうこととさっきから頭の中をモヤモヤが支配して、全然授業に集中することができなかった。
 
 そんなことがあった日から少し時間が経って私は決定的な場面に遭遇してしまう。
 その日はいつものように最寄りの駅で買い物をしていた。すると、「雷先輩、お待たせしました」という声が聞こえてくる。そんなはずはない。だってここは私達の地元で、高原さんは違うから。でも、その後に聞こえてきた「別に待っていない」という声は間違いなく雷のものであった。聞き間違えるはずがない。十八年間、聞き続けてきた声なのだから。
 私は後ろを振り向くことが怖くて、彼らに気づかれないように用事を済ませ、足早に家に帰った。
 今まで、雷は別にただのマネージャーだと思ってると思ってきた。もし、彼女の好意を受け入れるつもりだったら、いやそれ以上にすでに私が知らないだけで二人は付き合っていて、高原さんが彼女になっていたとしたら。
 悪い予想しかできなくて、気づくと瞳には涙が溜まっていた。私は自分の気持ちに蓋をするべきなのかもしれない。まだ、引き返せるはずだ。ただの幼なじみに戻ればいい。そうすれば、二人を応援できる。
 なのに、もう一人の自分が「それでいいの」と聞いてくる。それでも、諦めるしかないのかもしれないと自分に言い聞かせるようにした。

 次の日、今日から一人で通学しようと決めた。だから、雷が迎えにくるよりも早く家を出なければならない。いつもより二十分早く家を出て、いつもより二、三本早い時間の 電車に乗って学校に行った。
 学校について授業の準備をしていると雷がやってきて、 「なんで一人ではやくいったんだ。ぼくが今日朝練ないって知ってるよね」と聞かれた。「知ってるけど、これからは一人で行こうと思って」というと「そう」としか答えてくれなかった。
 彼女ができたから本当に私には関心がなくなったのかもしれない。

 なぜか急に雫がぼくのことを避け始めた。以前も避けられていたことがあったが、今回はその時とは異なる気がする。原因は分からないけど、雫の方からシャットアウトされてしまうとぼくにはどうすることもできない。
 少し様子を見てからのほうがいいのかもしれない。

 雷と通学を別にして数日が経つと、校内では雷と高原さんが付き合っているのではないかという噂が持ち上がっていた。
 だから、私と通学しなくなったのだというものも噂になっている。
 私は本当のことを聞くことが怖くて聞くことができずにいた。もし、「そうだよ。」と言われてしまえばどうしようもないからである。
 だからといって、彼に告白する勇気さえなかった私が言う資格なんてないのだろう。
 そんな私の最近の楽しみは、学校に掲げられている大きな絵を見て過ごすこと。その絵はとても神秘的で引き込まれるものなのだ。
 そんな時にふとこの絵に流れ星が描かれていることが分かった。ただ、この流れ星は見る角度や光の加減で見えなくなる。もしかして、この絵に隠された流れ星が噂の流れ星なのかもと考えてしまう。この絵は、この学校の創立ともに寄贈された作品であると言われている。
 もし、違ってもいい。せっかく見つけたのだから、何か願い事でもしてみようかな。

 次の日、私は雷を学校の裏庭に呼び出した。時間になると、雷はやってきた。すると、「何話って」と彼のほうから話しかけられる。
 もう、後に引けないと思いながら、スカートを掴む手に力が入る。そして、「ずっと昔から雷のことが好きでした」と告白した。私は言ったという恥ずかしさと答えを聞く怖さから顔を上げることができない。
 でも、なかなか反応がない。もしかして、伝わらなかったのかもしれないとその場から逃げ去ろうとすると腕をつかまれた。驚いて、反応できないでいると、「本当」と聞かれる。私は「本当だよ」と反射的に答えてしまった。
 だから、慌てて「ごめんね。もう付き合っている人いるのに、告白なんてして」というと「そんな人はいない」と言われた。でもと言おうとすると「ぼくも昔から雫のことが好きだよ」と言われてしまった。
 私たちはどちらからもなく抱きしめあった。

 昔からこの学校に伝わる言い伝えは、いつかの卒業生が仕掛けた仕掛けであった。今もその効果は確かなようだ。雷に告白してから、数日が経つと私たちが付き合っていることが噂になっていた。高原さんとの噂は雷が告白されたけど、断ったということで終わった。なんでも今、  高原さんは霖くんを追いかけているらしい。そういえば、私がなんて願い事をしたかは内緒である。                              
                                 完


シルク「ホシゾラ」

 線香の暗然とした香りが部屋中に満ちていた。来訪者もほとんど居なくなった。キッチンの床に座り込み、リュックサッ クの中に缶詰などを黙々と詰め込んでいく。
「しーらーきーくんっ」
「なんだ、その呼び方は」
 声の主は普段より幾分も地味な黒い服を着たまま、軽く笑ってカウンターに頬杖をついた。僕のしている作業を数秒眺め、飽きたのか手元から僕の方に視線を流した。
「こんな日にお出かけ?」
「ああ。家を出る」
 リュックサックの口を閉じて立ち上がり、声の主── 青木彩芽を見下ろした。幼い頃からの幼馴染である彼女は、目を瞬 かせて首を傾げた。
「蓮が家以外に行ける場所なんて、研究室くらいしか思いつかないけれど」 「誰があんなところに好んで泊まるか。壁の外に行くんだ」
 彩芽の目が限界まで見開かれた。口は何度か開閉を繰り返しているが、声として音を発することはない。彼女は一度唾液を飲み込んで、やっと声を出した。
「どうして。外は危険がいっぱいだって言うじゃない。中にい れば何一つ不自由なく過ごせるのに」
「どうして、ねえ…… 」
 僕たちの住んでいる場所は、高い壁に囲まれた人口十万人 前後の都市だ。ここで生まれた者はほぼ例外なく死ぬまでここで過ごすことになる。生きていくのに必要なものは壁の中 で全て手に入り、生活を送るのに不便を感じることはない。中 の人間は幼い頃からの教育によって、これらの事象に対して 疑問を抱くこともない。
「星が見たいからだ」
「星?そんなのここでも見られるのに」
「外の星は、こことは比べ物にならないほど美しいそうだ」
 彩芽は納得できないのか唇を尖らせる。
「そんなことなんで知ってるのよ」
 五年前のことを思い出す。まだこの家が賑やかだった頃のことを。
── 蓮、知っているか?壁の外で見る星空は、ここで見るものよりたいそう美しいそうだ。
── ふうん。見たことあるの?
── いいや、ない。だが、俺は絶対に外に行く。見たことない世界を見に行くんだ。…… すまないな、蓮。
 それが最後の会話だった。彼の瞳にあったのは冒険心。それから母と僕への負い目だった。自分がいなくなった後、母がどうなるかが分かっていたのだろう。
 その翌日、その男はこの町のどこからも姿を消した。
「父が、教えてくれたんだ」
 彩芽が驚いているが無理もない。父の失踪から五年、僕が父の話をしたのは初めてだ。
「…… ホントに行くの?」
「ああ。それで、彩芽。この家の管理を任せてもいいか?」
「え、すぐ帰ってくるんじゃないの?」
「おそらく二度と帰らない」
「それって、もう蓮に会えないってこと?」
 無言を肯定と受け取って、彩芽の顔色がどんどん悪くなる。 顔が伏せられ、しばしの沈黙の後、勢いよく顔が上げられた。
「私も行く!」
「駄目だ」
何を言うかは予想できたので、被せるように拒否を述べた。
「なんでよ!いいじゃない、一人くらい増えたって」
「僕の言ったことをもう忘れたのか?」
 何のことか分かっていない彩芽に向けて、ため息を吐きながら教えてやる。
「二度と帰らないと言ったんだ。君は僕とは違う」
 自分の着ている服をつまみながら言えば、彩芽の目に少しの逡巡が生まれた。しばらく待ってみても彼女の口は動くことがない。しびれを切らし、彩芽の背を押して家の扉へと向か わせた。僕の家から出るのを躊躇する彩芽に、ひとつ言葉をくれてやる。
「出発は二時間後の予定だ」

 閉じていた目を開け、合わせていた手を離した。今日散々手を合わせたというのに、ここに向き合うのも最後かと思ったら自然と膝を折っていた。  「貴女が死んで二年…… 父さんがいなくなってからの三年間を思うと複雑な気持ちになる。…… 母さん」
 父が失踪してから、母は徐々におかしくなった。元々父に依存していた人だったから、その変化は必然ではあった。家に転がる酒瓶は日に日に増え、僕を父に間違える頻度も同じように増した。母が亡くなるまでの顛末は思い出したくもないことが多いが、葬式で見たあの人の死に顔は良く覚えている。
「ハ、感傷的になったか?」  
 自嘲と共にリュックサックを背負い、肩にバッグを提げる。時刻は彩芽を家に帰してからちょうど二時間後だった。
 弔いは終えた。二年間、今日という日を待ったのだ。尾を引く気持ちはもうなかった。
 扉を開けると、普段着に着替えた彩芽が階段下に立っていた。大きめの荷物を持って唇を噛みしめていて、その顔には泣いた痕が見える。
「連れてって」
精一杯絞り出したのだろう、声が掠れていた。
「本気か?娘を誑かしたと思われては、おじさんとおばさんに申し訳が立たないんだが」
「…… 話して、納得してもらったから問題ないわ。それに、あたしが行くって決めたの。蓮から拒否されてもついていくから」
 僕の冷たい視線を受けても、それを真っすぐに受け止めて意志を述べる。それが青木彩芽の良いところだが、今回ばかりは怯んでほしかったように思う。
「僕は他人の生き方に口を出してくる奴が嫌いだ。だからこれは命令じゃない、最後の忠告だ」
 幼馴染への情をかき集めた、僕なりの優しさを込めて、伝えてやる。 「── 君、僕だけはやめておいた方がいいぞ」
 僕の言葉を受けて、彩芽の瞳が揺れた。驚き、恥じらい、悲しさ、口惜しさ。それらを浮かべた目が一度閉じられ、後には優しい微笑みが浮かべられる。
「もう遅いよ」
 直接的な言葉はなくとも、彩芽が僕に恋情を抱いていることは昔から分かっていた。そしてまた、僕が彩芽を受け入れな いことも、僕たちの間では周知の事実だった。
「…… そうか」
 彼女の花のような笑顔に僕が返せる言葉など、たかが知れていた。

 僕たちの家がある街の中心部から歩き始めて数時間が経っていた。空に昇った太陽が真っ赤に燃えていて、橙色のグラデーションを鮮やかに描いている。
 僕たちの生きる小さな世界を囲む壁には出入口が一つだけあり、昼夜問わず警備員によって見張りがされている。ただ、 出入口ではあるが出入りは許されておらず、壁自体が民家や店のある生活圏から離れているのもあり、近づく者はほとんどいない。日常を生きている人からすれば壁の存在はないに 等しく、脱出をしようなどとは万に一つも思うまい。故に警備員の仕事は形ばかりのものだ。
「…… 見えたぞ」
 木々に囲まれた山道を抜けると、巨大な壁が現れた。
「わあ、これが…… カベ?」
 今まで感じていた疲労感はどこへやら、彩芽は初めて見る壁に圧倒されている。首を可能な限り上へ向けて、その高さを実感しているようだ。
「こんなの越えられないよ」
呆然と呟いた声に、
「越えるんだよ」と教えてやった。 疑問符を浮かべる彩芽は無視して周囲を観察した。扉の出入口を守る警備員は三名。それから── 。いや、今はいい。
「彩芽、そこの陰に隠れていろ。静かに、だ」
「はあーい」
「静かに」
「…… はーい」
 彩芽を草陰に隠し、鞄を置いて門の前に立つ三人に近づく。 人が来るなど全く思っていない様子で、緊張感の欠片もない。 手近に落ちていた石を掴んで自分のいる位置とは反対側の木に投げつけた。明らかに自然的ではない音に警備員は意識を向けた。
 この者たちに罪はない。が、悪いな。僕は談笑中の三人の背後から近づいて流れるように手刀を見舞う。人体の急所はよく知っているので外すはずがなかっ たが、一応気絶したのを確認する。彩芽の方を見ると、目を開いて驚いているところだった。
「すっ…… ご」 
 声を上げた彩芽の後ろから人影が現れた。そいつは彩芽の首根っこを無造作に掴んで言う。
「ここで何をしている」
 空いている手で彩芽の喉にナイフを当てた男は彩芽と僕を交互に見つめて顔を顰めた。
 「返答次第ではその身、生きて返さないが?」
 彩芽の顔は俯いていてよく見えなかったが、話している声は十分に聞こえた。
「…… ちょっと、あたしに気軽に触らないでくれる?」
 一瞬だった。彩芽が体を捻って男を蹴り上げ、拘束が弱まった隙に男の腹に拳を叩き込んだ。男は何度か急所を突かれて呻いているので、しばらく動けないだろう。
 「ふー、久しぶりだったけど意外と動けるものね」
 彩芽が息を吐きながら地面にしゃがみ込んだ。僕は荷物を取るために、彼女の方に近づいていく。
「問答無用で発砲でもされるかと思っていたが…… 警備員が腑抜けで助かったな」
「待って蓮、こいつがいるって気づいてたの?」
「まあな」
「殺されるかもって思ってたなら助ける素振りくらいしてくれてもいいのに」
「怯えて震えているようだったら置いていくつもりだった。 足手まといを傍に置いておく余裕はないからな」
 絶句してこちらを見つめる彩芽に手を差し伸べる。不承不承といった様子で添えられた手を握って、引っ張り上げた。
「── 百年の恋も冷めるだろう?」
 立ち上がった彩芽は僕の目を見て、呆れたように笑った。
「そんなわけないじゃない、…… ばか」
 手を離す。荷物を手に取って壁の方に向かった。
 太陽は既に沈んでいる。月のない暗闇が僕らを歓迎しているようだ。
 門にはかんぬきがあり、これを外せば外へ出られるようだった。触れてみると案外簡単に引き抜くことができる。
 扉を押す。少しの高揚感があった。古めかしい音を立てて開かずの扉が開く。
 リュックサックから明かりを取り出して外を照らすと、 木々に覆われて森のようになっていた。彩芽が僕の後に続いて門の外に出てきたのを確認し、扉を閉める。こちら側の扉には何もついておらず、外からの開閉は不可能なようだった。 
 …… 心残りはない。あったとしても、僕が気にするべきではないことだ。 「どっちに行けばいいのかしら」
「さあな。とりあえず進むぞ」
 僕が照らす明かりを頼りに、木々の間を進んでいく。木の葉が鬱蒼と茂っていて空の様子は見えなかった。
 しばらく歩みを進めたが辺りの景色は一向に変わらず、ただ歩くのに飽きた彩芽は雑談を始めた。
 「── にしても、蓮のあの手際の良さはなに?護身術なんてやってなかったわよね?」
 門前での出来事のことを言っているのだろう。僕は若干呆れて答える。 「何のために人体を学んでいると思っているんだ」
「医学だっけ?」
「違う。生物学だ」
「…… ちょっと待って。何のためにって、蓮…… まさか」
「はは」
 父の失踪で進路変更をしたのは事実だった。彩芽は母の病気を治すために僕が医学を学んでいると思っていたらしいが、 全て完璧な間違いだったという訳だ。可笑しくてまた笑った。
彩芽はしばらく不貞腐れていたが、次第に表情は柔らかくな った。
 突然、明かりが異なる風景を映し出した。木々がなくなる開けた場所があり、そこから緩やかな傾斜が続いている。迷うまでもなく足がそこに向かっていた。
 そこは小さな丘のような場所で、周囲の木々より少しだけ標高が高い。丘の地面に目を向ければ、小さな花が咲いている。 知っているものもあれば、そうでないものもあった。周囲に気 を配りつつ頂上のような場所まで登りきると、森が一望できた。木々の間にいくつか集落のようなものが見える。 「外は危険って言うからどんなものかと思ってたけど、別にウイルスが蔓延してるわけでもなさそうだし、危険生物がいるわけでもないのね」
「ああ。人間が生きるのに支障はなさそうだ」 
 違いがあるとすれば、生活水準だろうか。だがそれも危険と断じられるほどのものではないように思える。僕たちが受けてきた教育は、常識という名の洗脳だったということだ。
 何が同じで、何が違うのか。なぜ、どうして、いつから。
 もっと知りたい。外の── いや、この世界のことを。まずは近くの集落に顔を出してみるか。だがその前に今日の寝床を確保して明日の朝向かう方が……。
「あ、蓮」
 思考が打ち切られて横を見ると、彩芽は真っすぐに上を指さしていた。その手をなぞるように視線を上げていく。
 一面の星空だった。月の光にも勝るほどの輝きを星々が放っている。その美しさを、声も上げずにただ眺めた。
 全然違う。今まで見てきた星空とは、確かに違っている。
 どちらも同じ自然の星だ。見ている場所が違うだけで、これほどまでに印象が、気持ちが変わるのか。
 父はこれを見たかったのだろうか。家族を捨てて得たものが、非閉鎖的空間での自由と、この星空であるのだとしたら。
 僕はあの人を責められない。
「なんだ、普通の星空じゃない」
 彩芽が落胆したように言う。
 僕は薄く笑った。
「…… 馬鹿だなあ、君は」
── 君も、僕も。

夜空では変わらず無数の星がその存在を主張していた。 きらきらと、きらきらと。

あたらよ「流星になれたら」


 流れ星を見ても願い事をしなくなってしまったのは、いつからだろうからだろうか。生徒会の定例会議の途中、天文部という文字列を聞いて、そんなことが思い浮かんだ。
小さい頃たった一度だけ父親と行った天体観測。あの頃はなぜか星に強い興味を持っていて、それで駄々を捏ねて連れていってもらったんだ。それでなんだか、思い出せないくらい月並みなことを願った気がする。
 中学三年生の時、修学旅行の旅館からたまたま見えたあの流星はどうだったか。まわりは奇跡だとか、馬鹿みたいに騒いでいたが、自分はひとり冷めていたような。
 ああそうだ。小学四年生の時に行った博物館で、隕石の欠片を見て、それで。
「響君?わかったかな。定例部活動視察のことなんだけど …… 」
 いつのまにやら、会議は終わっていた。生徒会室には、僕と副会長のふたりしか残っていない。
「は、はい、すみません。ちょっとぼーっとしていたみたいで。」
「はは、いつも真面目に頑張ってるから、疲れてるんだろ。この前の期末考査も総合三位だったんだって?」
 黒縁眼鏡の奥の目を、なんだかぎこちなく細めて笑いながらそう言った。 「はは、やめてくださいよもう。」
 僕がお決まりの謙遜を返すと、副会長は手に持った書類を机に置いて、所在なさげにブレザーの襟を直しながら続けた。
「ウチ、今年から理事長が変わっただろ?ちょっと厳しくなったみたいでさ。存続の危うい部の実態を七日間調査して、日誌の形式で執行部に提出。調査期間の翌日が新規入部受付の締め切りだから、そこで廃部の如何を決定、というわけだ。幽霊部員で保ってるような部活も、去年までは見逃してたんだけどね。」
 一言目から容易に推測できそうな内容の話が冗長に続く。 結論を最後に回す話し方はこの人の悪癖だ、といつも思う。
「毎日活動する部員が最低二人。所属部員が最低で五人、でしたよね。」 「合ってるよ。なんだちゃんと聞いてたじゃないか」
「当たり前じゃないですか。それで、僕の担当は天文部なんですよね」
「うん。それで、そこの部長がね、悪い子じゃないんだけど、 少し変わり者でね。なんでも進級が危ういレベルだとか」
 不自然な笑顔の中に、少しの蔑みが混じるのがわかった。またもやの悪癖だ。落ちこぼれだとかなんだとか、素直に言えば いいものを。
「あそこは確か、幽霊部員が三人で、毎日活動してるのは部長の彼女が一人。新入生向けの広報をほとんどしていないみたいだから、新入生が入ることはないだろうね。二年生からの入部も受け付けてはいるようだけど、まあ例がない。たぶん天文部は、ほぼ確定で廃部になると言っていいんじゃないかな。」
 要するに、僕の仕事は厄介払いのようなものなんだろう。
「次期会長候補の君にこんな仕事を任せるのは忍びないんだけどね。とにかく任せたよ。この時間はまだ活動中のはずだから」
「旧棟の四階ですよね。それじゃ行ってきます」
「さすが、仕事が早くて助かるよ」
 副会長の心にもなさそうな言葉に、謙遜のような承諾のような気のない返事をした。机に置かれた書類とファイル、黒の ペンケースを持って生徒会室を出る。新棟と旧棟をつなぐ渡り廊下は生徒会室のすぐ横にある。学校の規模の割に古く、歴史ある、なんていう黴臭い枕詞が似合う旧棟はやはり不人気で、同じ方向に向かう人は少なかった。
 僕の通うこの藤崎学園は、都内有数の進学校であり、通う生徒も社長などの子弟が多い。かくいう僕もその一人であり、財界の麒麟児である父親と、元外交官の母親の間に生まれた三人兄弟の末っ子として生まれた。優秀な兄たちと比較され落ちこぼれ、なんていうこともなく、まあ血統に似合うそれなりな優秀さだと自負している。校内外の活動でも評価され、次期生徒会長とも目されている僕になぜこの仕事が振られたか。 厄介払いを任されたのは少々業腹だが、まあこれも割り切ってしまえばすぐに終わる。そんなことを考えているうちに、目当ての部室の前についた。ドアを三回、荷物の無い右手でノックした。
「失礼します。生徒会二年の青葉響です。定例部活動調査に来ました」
 返事はないがドアは開いている。入りますよ、と声をかけてドアを開けた。
「えーと、すみません。生徒会の者なんですが...... 」
 部室は恐ろしいほど雑然としていた。床に散らばったプリントに、そこらの川べりに転がっていそうな石ころ。とても生徒会室と同じ校内とは思えない。落ちこぼれとの風評も本当だったらしく、床に落ちているプリントは赤点ばかり。困惑していると、飛び石を渡るような危なっかしい仕草で、部長だと思われる女性が近寄ってきた。
「ええと、部長の立花…… 立花雛です。綺麗にしてなくてごめんね」
 僕より一回り小さいその人は、如何にも人畜無害といった顔立ちだったが、視線だけは強くまばゆいようだった。肩まで伸びた黒髪はあちこち跳ねて、無造作な印象を与える。
「毎年恒例のやつだよね?活動に同行してもらって日誌に つける...... 今日は十九時から野外での観測なんで、準備が終わるまでここでゆっくりしててください」
 規則が厳しくなったのを知らないのか、呑気そうに見える。
 しかし、この部屋にゆっくりできそうな場所があるとは思えなかった。しかたなく、いくつか質問をすることにした。
「すみません。今日は立花先輩以外の方はいないんですか?」
 我ながら答えのわかりきったつまらない質問だと思った。 彼女は眼を丸くしてなんだかうろたえている。弱いところを突かれた、と顔に書いてあるようだ。
「そ、そうだね。今日はというか、いつも」
 そうなんですか、と驚いたようなふり。流れ作業のように終 わらせるつもりで、質問されるとは思っていなかったのだろうか。びくびくと震える様子は、年上には見えなかった。
「あの、もうひとついいですか?この石って一体」
 この質問の答えも、僕はずっと前から知っている。
「石じゃなくて、隕石の欠片だよ!夜空で輝く流れ星の正体はこれなんだ」  誇らしげな笑顔でそう言った彼女は、今までで一番楽しげに見えた。
「そう、なんですね」
 先ほどの陳腐な回想の続き。僕は、博物館でこれと同じ物を見て、天体への憧れを失ったんだ。空を悠々と駆ける流星の正体は、宇宙空間に投げ出された小石やチリ。言ってしまえば、 燃えるゴミ。
「案外、普通の石だ」
 そう呟いた僕を見て、立花先輩は一瞬だけ悲しそうに笑っ たように見えた。
「お待たせしてごめんなさい。準備できたし行こっか」
 大きな荷物を背負った先輩が立ち上がる。よろける先輩から荷物の半分を受け取って、階下へと歩き出した。
 裏山に登るのは初めてだった。四月とはいえ、夜はまだ冷え る。見た目より体力があるのか、急坂をひょいひょいと登っていく先輩に追いつくので精一杯だったが、待ってください、ともなんだか言えなかった。
 着いたよ、という声に反応して空を見上げる。劇的に美しい、 なんてこともなく、曇り気味だった。
 野外での観測は滞りなく進んだ。こんな空模様でも先輩は終始楽しそうだった。星を見つめる横顔と瞳が、星と同じくらい輝いている。
 手早く片付けをする先輩を見ながら、活動の様子を事務的に書き留める。そうしているうち、脳内で言葉に凝固するより早く、口から疑問が漏れた。
「先輩は、なんでそんなに星が好きなんですか?」
 聞く必要なんてないのになぜだろう、と自嘲しながら返答を待つ。
「なんでだろう。うーん」
 片付けの手を止めて少し考え込んでいる。ひとしきりうんうんと唸った後、おそるおそるこういった。
「星って、なんていうか、遠いよね、絶望的なぐらい。例えばあの光だってずっと前のもので。そのあたりがなんだか、楽で。 あんなに綺麗なのを、こっちは見つめてられるのに、振り向きもしない。安らぐっていうのかな…… 」
 そういう彼女の目は、どこか遠くを見ているようだった。
 優秀で恵まれた家庭環境の生徒が多いこの学園だが、生徒の全員が幸福な訳では無いと聞く。親の期待に潰される人も多いというわけだ。彼女もきっと、その一人なんだろう。要するに、逃避という訳だ。学校内の異質なあの部屋も、他人との関わりに乏しいこの活動も。 僕にだって、理解できない訳では無いが、誰かの期待に応えるのはそれなりに得意だと自負していたから、何を言うべきかわからず口ごもってしまった。そんな僕を見た先輩は、さっきまでとは打って変わってとびきり悪戯っぽく笑ってこう言った。
「響くんはさっき、流れ星を案外普通の石って言ったけどさ。 あの夜空なら、ゴミでもチリでもただの石でも、懸命に駆け抜けたなら、一等綺麗な流れ星になれるんだよ」
 
 先輩との七日間は、存外短かった。毎日毎日寒い中いろんな場所に行って、ただ空を見上げる。時折、あれは火星だよ、と星について教えてもらったり、なんだか無理のあるオリジナル星座を結んでみたり。こんなことに意味はあるのかと自問自答はやまなかったが、居心地は悪くなかった。
 七日目の野外観測の帰り、予報になかった大雨に振られ、とりあえず雨をしのげそうな屋根の下で先輩とふたり、立ち尽くしていた。
 雨が屋根を叩く音と横顔を伝う雨で、先輩の表情はよくわからない。
「ごめんね、巻き込んじゃって」
「いえ、いいんです。これも生徒会の業務なので」
「しっかし、ついてないなあ。最後の観測がこんな風に終わるなんて」
 先輩の言葉に耳を疑った。この人に廃部の話なんてしていないはずなのに。
「最後って、どういう意味ですか?」
「やだなあ、元からそれで来たんでしょ。わかってたよ、それぐらい。ごめんね、知らないフリしてて」
「いえ、騙すような真似したのはこっちです...... すみません」
 なんといえばいいのかわからなくて、下を向いた。先輩の顔を直視できず、ただ押し黙っていた。
「でもさ、楽しかったよ、この七日間。ずっとひとりで活動してたから。人と一緒に星を見るなんて初めてで。友達も先輩も家族も生徒会の人たちも、こんな風に一緒にいてくれなかったからね」
 先輩がこっちを見て、無理やり頬をゆがめて、笑った。雨のせいで泣いているみたいに見えて…… いや、本当に泣いていたのかもしれない。
「こんな雨の日もたぶんいつかは笑い話にできるよ。だからそんな顔しないで」
 そういわれたって、やっぱり顔を上げられない。もしかしたら、自分も泣いているんだろうか。
 この人の視線をまばゆく感じる理由がわかった。この人は、 どこまでも素直で、捨て身で、懸命なんだ。上辺の人間関係だけで凌いできた自分にとって、まっすぐなこの人の視線は毒だった。固い鍵をかけた孤独の庭を踏み荒らされるような心地がして、心地よいのと同時に薄ら寒かった。
 それでも、そう思う以上に、この人にはこんなふうにじゃなく 、もっと自然に、隕石を見せてくれた時みたいに笑っていてほしいと思って、思わず口を手で押さえた。言葉にしてしまったら、安っぽいロマンスに取り込まれてしまう気がする、だなんて思って、また自嘲した。
 それから、僕らの間に会話はなかった。

 家に帰っていつも通り布団に入ろうとしたとき、机の上に置かれた入部届用紙が目についた。これ以上考えてはいけない気がして、用紙をぐしゃぐしゃに丸めてどこかに投げ捨てた。それから布団に入っても、しばらく眠れなかった。あの部活がなくなったら、先輩はどうなってしまうんだろうとか、あの時願ったのはなんだっけ、とか。どうでもいい、どうでもいいはずのことをグルグルと考えてしまう。
 眠れたのかそうでないのかわからないうちに夜が明けて、いつも通りの支度をして家を出た。いつも通り、授業を受けた。授業が終わり、時刻は十六時。いつも通りに生徒会室に向かおうとして。なんだかふっと魔が差したような気持ちになって、天文部の部室に向かった。
 廃部の話なんて無くなって、昨日までみたいに出迎えてはくれないだろうか、と思ってしまった。
  普段人の寄り付かない部室の周りには人だかりができていた。ほとんどが生徒会の人間のようだった。廃部の通告に来たのだろう。人だかりの向こうに立花先輩の顔が見えた。
 なぜだろう、目が合った。ひどい眩暈と、動悸がするようだった。泣きそうなその瞳を直視できなくて、すばやく振り返って、あてもなく駆け出した。
( なんで、こんなに動揺してるんだ)
 外の空気を吸うため、放課後の人並みをすり抜けて駆け出す。無我夢中で走って、気づけば学校から遠く離れて、家の近くに立っていた。
「今日はもう、このまま家にいるべきかもな...... 」
 あてもなくつぶやいて、震える手で家の扉を開ける。そのままベッドに倒れこむ。その瞬間、放り投げた入部届が目に入った。
 気づけばまた走り出していた。入部届を握りしめ、学園までの坂を駆け上がっていく。
 先輩の言葉と笑顔が、胸の中でちかちか光っている。
 あの人の言う通りなら、高慢で軽薄で凡庸な僕でも、懸命に走れば、流れ星になれるんだろうか。たったひとり照らせたら、それで十分だから。
 ひたすら息を切らして走る。酸素に気道を苛まれるようだ。視界が明滅して、目の前すらもよく見えない。
 なぜだか、あの日願った月並みな願いを思い出していた。誰かのヒーローになりたいなんて、抽象的で、馬鹿げていて、それでいて、一等良い願い事だとも思った。
 締切の二分前、息も絶え絶えの状態で、部室にたどり着いた。大きな望遠鏡が運び出されようとしている。人込みをかき分けて、いちばん奥に立っていた副会長に話しかける。
「あの、僕……」
「遅かったね響君、どうしたんだい、そんなに息を切らして」
「僕、生徒会やめて、天文部入ります」
「えっ?今なんて…… 」
 返事を待たずに、ボールペンをひったくって入部届を書きなぐった。
「飽きたんですよ、生徒会。それに、僕が入れば、廃部は免れるんでしょ」
 文句みたいなのを口々に言いながら集まってきた生徒会の奴らをかき分けて、先輩につかつかと近寄っていく。
「署名おねがいします、先輩」
「響くん?なんで響くんが…… 」
 困惑する先輩に用紙を押し付けて署名してもらう。
「楽しかったから、じゃだめですか」
「も、もちろん、大歓迎だよ!」
 先輩は嬉しそうに笑って、署名し終えた用紙を渡してくれた。
ざわつく周りの生徒会員たちを追い返し、運び出された荷物を中に戻す。先輩はいまだ困惑しているようだ。僕自身でもなぜこんなことをしたのかよくわからない。それでも、なんだかひどく清々しい。
「響くん、よかったの?もし私のこと気にして入ったなら …… 」
「…… 違いますよ。僕は自分の意思でここにいます。生徒会も抜けられて、正直ちょっと清々してます」
 それを聞いた先輩はまた、とびきり悪戯っぽく笑った。ああこれでよかったんだ。と改めて思った。
 今の言葉に偽りはない、つもりだ。誰かの期待に応えるためにじゃなく、自分の意思で誰かを笑顔にしたくて動くなんて初めてだ。
 ...... 今日もまた、二人で星を見に行こう。あの無意味で、不可解で、それでいて優しいあの時間が、今はどうしようもなく恋しかった。

張江下池 「真昼の星」

 かんぱーいの掛け声でかちん、鳴ったビールグラス思いっきり仰いだら、「これやこれ」て叫んでもうたわ。
 これがうまいんよ。泡の触感、奥から広がる呑み心地が最高なんや。そう思たんよ。
 白と黄色光るビールにサッポロのロゴ映えとって、真昼に星光っとるみたいやなて思うた。
「好きっすね」
「お前がおかしいんやて、ビール嫌いとかありえんて」
 山西に言うた。こいつはビール吞もうとせんかった。先輩がいい加減美味さ知れ言うてもなんもせん。
 今でも覚えとる衝撃。新歓で、まだ十八なんで、と言いおった。
「そんなん分かっとるやん。ええから呑まんかいな」
 でも法律が、てずうっと自分正当化しおるから、俺は言うた、はよ吞めと。怖気づいたんか知らんけど、あいついきなり飲みやがって、それがおもろいんよ。目えぎゅうつむって顔真っ赤 にして吞むんよ。まじ真っ赤。タバコ吸うとき、先っぽ真っ赤になるやろ。あの色よ。
 あいつ「もう飲めません」ほざいとったけど、結局飲めるのよ。やから、こっちもいい気になってな、ビールの注文止まらんかった。飲み放題やったけど、あいつ元とったんちゃうかな。
 次の日顔パンパンに腫れてサークル来たからあいつ酒弱いんよ。あの顔マジでおもろかった。一時間くらいわろたんちゃ うかな。俺ら毎日飲ませたんやけど、毎回顔真っ赤にして、翌日顔パンパン。マジでおもろいから笑いこらえられへんくて、 一回窒息死しかけたわ。昔、ロバ酔っとんのおもろすぎて笑い死んだ男おったて聞いたことあるけど、あいつの気持ち分かるわ。幸せやったろな。
 やから俺あの日も呑ませたんよ。いつもはビールイッキや けど、年末やったし、特別や思うて、焼酎頼んだ。二十五度よ。俺でも飲めへん気いしたけど、こいつおもろいからなんか起こる思たんよな。
「先輩、こんなん呑めませんよ」
 案の定言うとる思た。この茶番毎回あるのよ。初めて呑ませたときも、吞めません言うとったし、次呑ませたときも同じことや。理由はちゃうかったけどな。二回目は「母さんに怒られるんです」言うとった。 何それ、
 尋ねると、千鳥足で家帰ったん母さんに見られたんやて泣いとった。 「あんた何してんのか分かるの、って言われて、一時間くらい怒られて。呑むのバレるとガチで怒られるんすよ」
 ええやん、言うといた。反抗せいて。十八なったら成人なんやし、法律守るか守らへんかなんて個人の自由やて言うてやったんやが、あいつマジ不安そうな顔しながら吞んどった。
 次の日聞いたら、案の定怒られた、やて。
「お前案の定てなんやねん。反抗したんか」
「しないっすよ。僕チキンっすよ」
 自分で言うからわろてしもたわ。俺らも思っとったけど、流石に言わん。
 何が怖いか聞いてみたんよ。そしたら、家から追い出されるんが怖い言うんよ。いや、ええやん。殴られる思たわ。こいつマジであかんなて気づいたから俺、追い出されたら俺んち来い言うといた。どうなった思う?あいつ来やがった。おもろいやろ。
 正確にはな、何回か呑ませたんよ。あいつ帰るたんびに怒られた言うとって、ある日、ほんとに追い出されやがった。暴力振るわんだけましやけど、あの親どうかと思うで。薬物じゃあれへんし、そこまでせんでええやん。あいつら好きになれへん。
 とにかく、あいつ来てから、ちょっとあかんな思うようになってきたんよ。部屋汚い言うてくるし、俺料理できひんやろ。やから、毎日カップラーメン食っとるやん。それ食わしとったら「別のないですか」やて。あれへんよ。こう話したらおもろい気するけどな、あんときマジ腹立って。俺奢っとんやぞて気持ち強いわけよ。食費二人分出して、文句つけられたらお前怒るやろ。
 怒ってまって、「じゃあお前料理せんかい」言うたんよ。あいつなんて言うた思う。「料理作れません」て。いや、お前も知らんのかい。知らんかったら口出すなや。正論やろ。
 あいつ腹立つからどんどん高い度数飲ませるわけ。そうすると鈍感になるのよ。何言うても気づかへんの。呼びかけても何も言わんし、叩いてもなんもせえへん。写真撮ってまうほどおもろかったわ。
 けどな、あいつ酒飲まんでも鈍感なんや。俺彼女いるやん。リエちゃん。それでよ、俺が女の子持ち帰った日やで、「リエちゃん雰囲気全然違いますね」言うわけ。俺といる女の子リエちゃんちゃうんよ。女の子「誰リエちゃん」みたいに怒り出して帰ったわ。俺いい感じやったから腹立って、あいつにテキーラ呑ませたんや。そしたらどうなった思う?全部忘れやがった。俺のチャンス踏みにじったことも全部忘れてもうて、罰与える意味もなくなったんよ。俺が意味もなく罰与えたら理不尽思われるやん。それだけは嫌やからさ。 とにかく、あの日は焼酎をイッキさせたわけやけど、あいついつも以上に鈍感なるわけ。動かんのよ。俺おもろいから動画撮ったんやけど、ビンタしてもあいつの目据わっとんのよ。同じとこ見とる。で、俺にいきなり吐きやがったんよ。俺着てた服マジ高かったし、頭来て殴ったんやけど、そしたら倒れたまま動かんのよ。マジ怖くなって、俺救急車電話しよう思うたん やけど、呑みの席に未成年もいたんよ。やから、そいつら全員帰しとるうちにあいつえずき始めたんよ。今なら吐しゃ物に窒息しとんや分かるけど、そんとき何も知らんから、なんやこいつ生きとるやんって安心するわな。それも一瞬やったけど。 明らかに様子おかしいから、こいつやばいなて気づくんよ。急いで救急車電話するんやけど、俺間違えて警察電話してたんよ。一一〇番と一一九番。似とるやん。それで手間取って、救急車呼んでるうちに死んだんや。来たときにはどうにもでけへんかった。

 俺それでな、すげえ苦しくなったんよね。俺のせいやん。あんなん飲まさんければ生きとるやん。慰めてくれる奴もおっ たけど、そいつらも俺のせい思うとる。やから俺サークル辞めたんよ。人殺し見るような目で俺見てたしな、ちょっと居づらかった。
 でな、引っ越しもしたわ。あいつの匂いしたのよ。元カノの 話しとるみたいやけどちゃうのよ。あいついる感じすんのよ。 空になった発泡酒も、あいつの布団の匂いもたまらんかった。
 俺、逃げたんよ。最悪やな。 俺、あいつよりもチキンなのかもしれへん。人殺したのに、そいつを思い出そうともせえへん。情けへんわ、俺。
 あいつの親好きになれへんの、も一つ理由あってな。俺を訴訟せえへんのよ、あいつら。世間体がどうとか言うとんねん。
 俺を罰して欲しいねん、マジで。お前の息子殺したんやで。 ごめんなさい何度言うても償いきれへん大罪犯したんやで。
 何してくれてんねんて俺を訴えろや。俺の人生無茶苦茶にしてみろや。あいつら、俺が生きとること悔し思わんのかいな。
 ごめん、俺泣いてまうわ。

 星を見るとな、時々あいつの顔が浮かぶねん。あほらしい思うやろ。ちゃうねん、見えてまうねん。あのサッポロビールの グラスをイッキするあいつが見えてまう。俺、ビール入れたビ ールグラス、真昼に見える星みたいや言うとったやろ。そんな景色みたいにな、あいつを見ることは叶わんのよ。謝ることもでけへんくなった。
 もう吞めんくなったわ、マジで。どうしてくれんねん俺。

自由作品

連 載 ● ス ト ニ ュ ー 部 分 部 ● 第 三 回

尾井あおい 「タイトルの「タイト」な部分」

 ストニュー部分部、第三回です。さっそくご投稿作品を見 ていきたいところですが、今回は投稿数がゼロでした……(笑 )
 というわけで、僕が見出した部分をどうぞ!

スンドゥブの「ドゥフ」の部分

うす型軽快パンツの「海パン」の部分  

材料の「再利用」の部分

認知行動療法の「治効」の部分

外線着信の「先着」の部分

お買い得日用品の「伊独日」の部分

ホワイトデニッシュショコラの「油脂」の部分

カンパンの「カンパ」の部分

納豆キナーゼの「投棄なーぜ」の部分

息スッキリの「キス」の部分

江崎グリコの「危惧」の部分

ビタミンEの「民意」の部分

カカオの力の「顔の力」の部分

カネボウの「寝坊」の部分

横倒し厳禁の「推し元気」の部分

☆ お ま け  段 駄 羅
 先日、部分に関する調べ物をしていた際に、「段駄羅」という伝統文化を知りました。木村功(2003)『不思議な日本語段駄羅言葉を変身させる楽しさ』によると、段駄羅とは 、能登半島の輪島で漆塗り職人の職場を中心に流行していた短詩型文芸で、言葉の二重構造を楽しむ言葉遊びのことです。段駄羅の形式は五七五ですが、その内、中の七音がダブルミーニングになっていて、そこに上の五音と下の五音がつながります。
 ではここで、段駄羅の紹介も兼ねて、僕の作った句をご覧いただきましょう。

海辺にて ひろうかいふく   波しぶき

これを解き明かす(漢字混じりで表記する)と、

海辺にて疲労回復
    拾う貝吹く波しぶき

となり、中の七音が分裂するのです。面白くないですか?
他にもこんな句を作ってみました。

肌のため 潤い保つ
     売る置いたモツ どて煮かな

ヤクルトで 便通改善
      便通過以前 腹痛し

ではまた次の号でお会いしましょう!

【ストニュー部分部の「入部」の部分】

入部条件:部分のご投稿
活動内容:部分を投稿し、部分を読む
ご投稿はこちらから(随時募集中)
       ↓


バルバロイ 「UNAAT-国連異常事象対策部隊ー前編ー」

 本条約は、国際連合憲章の定める人民の生命及び権利、その 他人民に保障されるべき財産を脅かしうる異常な事象または存在を鎮圧・収容・管理し、その情報を国連加盟国間で共有することで国際社会の安定的かつ平和的な発展を促進し、恒 久的な国際平和を維持するため、常任理事国及び安全保障理事会の承認する国家間で厳正なる秘密の下に締結されるものである。(中略)本条約の締結にあたり、締約国は異常事象の 対応を専門とする機関である国連異常事象対策機関(UNAAA)と 、それによって指揮される国連異常事象対策部隊(UNAA)の創設を承認する。 
(異常事象の対応に関する国連安保理間秘密条約より)

一 .UNAAT

 一九四九年、冬。藤村哲平を含めたAAT隊員四名を載せた軍用トラックは、雪の降りしきるソビエト・ロシアの道を走っていた。モスクワから南に進んで数時間。ポーランド国境からそう遠くないその道では、いくら進めど建築物を見つけることはできない。ただ、雪があるのみである。
 真冬のロシアは藤村の想像よりはるかに寒く、トラックの隙間から入る冷気が軍服の内側に入り込むたび、亡霊に憑りつかれたかのように体の震えが収まらなくなる。戦時中をほとんど東南アジアで過ごした藤村は、日射病で死にかけることはあれど寒さに苦しんだことは無く、耐性を備えていなかった。
 「どうした日本人?まさか、この程度で凍死しそうなのか?」
 藤村の向かいに座るアメリカ人隊員のアーサーオルコットは、自身が軽蔑するアジア人を見ながら下品な英語で嘲った。 
 「それとも、ママが恋しくなっちまったか?ハハハ!」
 「アーサ ー、お前の任務が『現場に着くまでの間、精一杯やかましく 過ごす』っていう内容なら、お前はよくやってる。」
 呆れた声で藤村の隣から皮肉ったのは、イギリス人隊員のラッセル=スミスだった。元英国陸軍の中尉だった男だ。
 「そうでないなら、頼むからもう少し黙ってろ。モスクワからここまでおまえは何回この日本人に絡んでるんだ?」
 「なんだ?日本人を憐れんでるのか?お優しいことで……」
 アメリカ人とイギリス人がくだらない言い争いをしている 横で、自身の持つライフル銃を見つめたまま微動だにせず、 沈黙を貫いている男が一人いた。ロシア人隊員のセルゲイ= ラザレフである。流石はロシア人といったところか、この寒さの中でもラザレフは平然としていた。藤村は、彼の経歴も 含めてラザレフのことをあまりよく知らなかった。
 「おいおい日本人、何とか言ったらどうだ?」
 オルコットが藤村に怒鳴った。どうやら話の流れで、藤村 に何か質問をしたらしい。
 「ん?ああ、すまない、あんたの話に生産性が無さ過ぎ て、鼓膜がストライキを起こしていたようだ。悪いがもう一度頼む。」
 藤村が流暢な英語でそう返すと、スミスが腹を抱えて笑い 転げる一方でオルコットの顔がみるみる真っ赤に染まっていく 。少し挑発が過ぎたか、と若干の焦りを覚えた藤村に助け舟を出したのは、トラックの運転手だった。
 「仲良くやってるとこ悪いが、もうすぐ到着だ。AATとしての初任務だからって浮かれるなよ。そんなに暇なら、レポートでも読み直しておけ。」
 トラックの運転手は粗暴な言い方で告げた。この男こそが、現地でのAAT 隊員たちを統率する現場指揮官でもあった。
 好機とばかりに藤村は、リュックサックから数枚の紙が綴じられたファイルを取り出して目を通し始める。オルコットも一度舌打ちをしただけで、それ以上藤村に絡むことはなかった。本当に元海兵隊のエリートだったのだろうか、と藤村は心の中でため息をつきながらも、やはり居心地の悪さを感じながらレポートを読み進めていく。
 この凹凸だらけの国際特殊部隊こそが、UNAAT(United Nations Anti-Anomalies Taskforce)- 国連異常事象対策部隊であった。世界中の軍から引き抜かれた選りすぐりのエリートで構成されたこの極秘部隊は、極めて困難かつ危険な任務を遂行することを期待されている。
 そしてそのAAT の任務こそが、第二次大戦末期頃に突如発生するようになったといわれる『異常事象』に対応し、 人々の財産を保護することである。それが、藤村らが自分たちの雇い主であり司令部でもある UNAAA(United Nations Anti-Anomalies Agency)-国連異常事象対策機関の人間に言われた内容だった。
 『異常事象』とは何か、と聞いても、機関の人間は一切の説明を拒んだ。ただ一つ、『現代の科学では説明できない現象や存在』ということだけ説明されたのみである。
 なお、AAT隊員は円滑にコミュニケーションをとるため、作戦中は国籍に関わらず英語で話すことを義務付けられている。今、藤村らが読んでいるレポートは、今回対応する異常事象の詳細を説明するとともに、今回の任務内容を説明する命令書の役割も担っていた。
 「『人が消える街』、ねぇ……」オルコットがあくびでもしそうな雰囲気でつぶやく。だが、感情の読めないラザレフを除く藤村とスミスは、オルコットと同じように陳腐な童話でも読んでいる気分だった。
 レポートによると、その街は地図に記されておらず、確認できただけで民間人が数十人、調査に入った警察官が五人、大戦中に侵入したドイツ軍の一個小隊五十人が、彼らが運用していた装甲車両とともに失踪しているらしい。レポートは数枚の書類によって構成されていたが、有用な情報はそれだけのようだ。
 レポートの最後に記されている、藤村たちAAT隊員に課された三つの任務の内容は単純なものばかりで、特に最後の任務は一際簡単なものだった。
一 . 異 常 の 原 因 究 明 及 び 異 常 事 象 の 実 態 解 明
二 . 街 の 調 査 及 び 行 方 不 明 と な っ た 人 間 の 追 跡 と 保 護
三 . 生 還
 
藤村は、もう二度と持つことはないだろうと思っていた銃を手に、トラックの窓から見える雪景色を眺めた。
 なぜ、自分なのだろうか。
 もう何度目かわからない問いを胸の中で吐く。藤村の祖国である日本は国連に加盟していない。そうでなくとも、先の大戦の敗戦国である日本の兵士をわざわざこの極秘部隊に入れる必要などない。数か月前に進駐軍の兵士が銃を持って藤村の家を訪ねてくるまで、藤村はもはや軍人ではなかったのだ。
 誘拐紛いの方法でGHQの施設に連れていかれた藤村は、何がなんやら分からぬうちに数枚の書類にサインさせられ、過酷な訓練を受けさせられた後、こうして任務を背負わされてトラックに放り込まれたという訳である。複雑怪奇な運命であるが、機関の人間によれば、命令に従っていればいつか家に帰してくれるのだという。藤村には、その言葉を信じるしか道は無かった。
 しばらくして、荒々しく雪を轢き潰していたトラックの不快な走行音が、ある時を境に突然静かになる。その刹那、そ こにいた四人のエリートが一瞬、全く同じ違和感を抱いた。 何の根拠もないが、体の奥底にある本能とも呼ばれるような部分が、今まで感じたことのないほどけたたましい警告音を 一斉に発したのだ。
 この街は、とてつもなく危険である、と。

二.歪な笑顔

 藤村たちはトラックの中から街の様子を見、言葉を失った。前の戦争から四年。この街の場所から言っても、ここがナチス・ドイツとの絶滅戦争の戦場となったことは間違いないはずだった。死体は片付けられているとしても、崩れた建 物や家を失った放浪者、食糧配給を待つ人々で溢れていても不思議ではないはずだった。
 しかし今、先ほどまで降りしきっていた雪が嘘のように止み、藤村たちの乗るトラックは綺麗に舗装された道路を快適に走行していた。街では西洋造りの家々の間で住人が談笑し、遊び、くつろいでいる。
 住宅街にあるカフェの中では、老人たちが旨そうなコーヒーの湯気を揺らしながらチェスを楽しみ、道では恋人同士が手を繋ぎ、身を寄せ合いながら幸せそうに暖をとっている。 公園では子供たちがボールを追いかけ、母親は井戸端会議に花を咲かせている。  
 「何だ、ここは…… 」
 『平和』という言葉を限界まで体現したような、温もりに満ちた街。それがこの街にふさわしい評価だと、その場にいる誰もが思った。レポートの中にあった魔界の姿はそこには無く、あるのはただの理想郷。
 だが、胸の奥に滲み出るヘドロのような悪い予感が、藤村たちにまとわりついて離れなかった。
「そろそろ止めるぞ。」トラックの運転手がそう告げた。 むせかえるほどの幸福に満ち溢れたこの街の中で、軍服を着てライフルを抱えた藤村たちAAT の隊員は明らかに異質だった。にも拘らず、藤村たちを見た住人たちの顔はとても穏やかだった。
 「おや、兵隊さんですか。戦争はもう終わったと思っていたのですが……」
 通りすがりの老人が、トラックを降りて現場の状況把握をしていたAATの隊員たちに声をかけた。
 「ご心配なく。戦争はちゃんと終わりましたよ。」
 近くにいたオルコットが、老人の相手をした。老人はロシア語で話しているが、AAT隊員は任務の前に、活動地域の言語も習得している。
 「我々は国際連合の者で……この街の環境調査をしに来たのですよ。」「環境調査?」
 老人が不思議そうに尋 ねる。
 「環境調査なのに、ずいぶんな格好をなさっていますなぁ」
 「え?あぁ、危険な猛獣がいる可能性もありますので……」
 「あぁなるほど。たしかに熊と出会ってしまったら大変ですからなぁ」
 老人はいとも簡単に、オルコットの雑な嘘を信じ込んだ。老人がボケているのかとも思ったが、藤村はそれ以前に、この老人が『疑う』ということを知らないように感じた。
 「おや、来訪者の方かい?よく来たね!」
 「おじさん!その持ってるのって鉄砲でしょ?見せて!」
 「おい!お客さんだぞ!」
 老人が声をかけたのを皮切りに、街の住人が興味津々の様子で集まり、いつしか小さな人だかりができていた。二度目の世界大戦の直後ということもあり、反発されることはあれどここまで歓迎されるとは考えていなかったAAT隊員たちは、沈黙を貫くラザレフを除いてつい気を許し、住人たちの話し相手となった。
 住人たちは皆優しく、気のいい人間ばかりだった。何の敵意も裏も感じない彼らの振る舞いに、藤村たちの警戒心は薄れていった。

 「そちらの方は、中国の方ですかな?」
 最初に話しかけてきた老人が、藤村の方を向いて言った。
 「いえいえ!そいつはクソ日本のクソ野郎です。どうかお気になさらず」     オルコットの侮蔑は聞こえなかったかのように、老人は藤村の方へ近付いて行く。
 「はるばる日本からよくお越しくださいました。この街はとてもいい街なので、よければずっとこちらに居てください。」
 「ありがとうございます。」藤村は軽く頭を下げた。
 「確かにいい街だ。トラックの中からもそう思いました。世界中がこの街みたいになったらいいんですがね。」
 軽い冗談のつもりで、藤村はそう言った。しかしその時、老人の目が大きく見開かれたかと思うと、口角が不気味なほど引きつられ、歪な笑顔が作られた。そして先ほどまでとは比べ物にならないぐらい大きな声で、老人は絶叫した。
 「そうでしょう!そうでしょう!この街は『世界』になる んです!誰もが望む、平和な世界になるんです!」
 老人の勢いにおされてたじろいだ時、藤村は気付いた。いつの間にか、周囲にいた住民の男が、女が、子供が、老人が、目の前にいるこの老人と同じ、大きく口を開いた不気味な笑顔を浮かべ、笑い声をあげる訳でもなく、ただただじっ と藤村を見ているのだ。
 胸の奥で警告音が鳴り響く。AAT 隊員たちは明らかな異変を感じ、ライフルを持つ手に力を込める。
 「おい、もう行くぞ。」
 動揺する藤村の腕を後ろから掴み、老人から引き剝がしたのはスミスだった。「我々にはやるべきことがありますの で、これにて失礼し…… 」
 グチャ。
 肉が切り裂かれるような、生々しい音が聞こえてきたかと思うと、スミスの言葉が唐突に途切れる。そして藤村の腕を掴む手の握力が急速に弱まり、ついには離れてしまった。
 「…… スミス?」
 藤村は問うた。返事はない。藤村は恐る恐る背後を振り返 り 、そして、目を見開いた。
 そこにいたスミスの首には大きなナイフが突き刺され、赤 い血が壊れた蛇口のようにどくどくと溢れ出している。藤村を見つめる目の瞳孔は開き、光は消えていた。
 「スミス…… !スミス!」
 「これであなたも、お友達。」
 女性の美しい声が聞こえたかと思うと、スミスの亡骸が力無く倒れ、背後にいた下手人の姿があらわになる。
 それは、若い女だった。ブロンドの長い髪を揺らしながら優しく微笑み、血塗れになったナイフを指で丁寧に撫でている。その姿は不気味なほど妖艶で、魅力的にさえ思えた。
 「次は誰にしようかしら…… 」
 女のアイスブルーの目が、隊員たちを一人ずつ品定めするように眺める。その目からおぞましい殺意を感じ取った藤村は、女を危険な敵として認識した。
 「畜生…… !」
 藤村は地面を蹴って女から距離を取ると、ライフルを構えて引き金を引いた。
 迷っている時間はなかった。銃口から炎とともに発射された弾丸は、女の眉間に吸い込まれるように命中し、頭蓋を貫いた。しかし、女の眉間にあいた風穴から少量の血が垂れるのを見、藤村は戦慄した。
 そして、そこから起きたことは、その場にいた隊員全員を震撼させた。
 藤村によって確実に射殺されたはずの女が、直立したままゆっくりと微笑んだのである。それどころか、女の銃創から黒い煙が立ち上ったかと思うと、周りの皮膚が独りでに接着されていく。
 そして次の瞬間には、完全に穴は塞がってしまった。藤村は、目の前で起きたことが理解できなかった。
 「素敵でしょう?」
 女の舐めるような声が、藤村を誘惑するように囁かれる。
「この街の人は、撃たれても平気なのよ。」
藤村は、ライフルを構える自分の手が震えていることに気付いた。
 「一体何が……どうして……!なぜスミスを⁉」
 「あなたたちと『お友達』になりたいの。」
 女の意味不明な言葉に言い返そうとしたその時、オルコットの叫び声が藤村の鼓膜を突いた。
 「おい!なんか様子が変だぞ!」
 オルコットの方を見やると、血を流して倒れるスミスの死体が視界に入った。すると、どこからか現れた黒い霧のようなものがスミスの周囲に群がり、首の傷口から中へ染み込むように消えていく。その煙は、女の銃創から出てきたものと同じように思えた。
 『死んだ!あの男は死んだぞ!』
 その時、周囲にいた住人の一人が叫んだ。そして他の住人も一緒になって叫び始める。
 『ハハハ!あの人死んじゃった!』
 『死んだ死んだ!刺されて死んだ!』
 それはまるで、悪魔の呪文のようだった。あるいは生贄を捧げる儀式か。
 数秒の時が立ち、黒い霧が完全にスミスの体に入る。その間、立ち尽くすことしかできない隊員たちを無視し、スミスを刺した女を含めた住人たち全員が、それをまるで赤ん坊の誕生を見るようにじっと眺めていた。
 スミスの死体が、何者かに蹴飛ばされたように大きく跳ねる。そして、考えうる限り最悪のことが起きた。
 「冗談だろ……」
 オルコットが呻く。藤村に関しては気分が悪くなり、その場で吐き気を抑えるのがやっとだった。ラザレフも、目を見開いて事の顛末を観察している。
 「あぁ、とてもいい気分だ。」
 スミスが、声を上げた。首の傷は消え、歪な笑みを浮かべながら。
 「死んでよかった。あぁ!すごく調子がいい!」
 「スミス…… 」
 オルコットが、唸るような声を絞り出す。
 「アーサー!どうした、そんな顔して。日本人も!ロシア人も!お前たちもさっさと死んだ方がいい!すごく楽になれるぞ!」
 それはもはやスミスではなかった。スミスの皮を被った化け物、という言葉でも表現しきれない、おぞましい存在がスミスの中に宿っていた。
 「さぁ、あなたたちも『お友達』になりましょう?この方のように…… 」  女が、藤村たちのほうを見て微笑む。
 「来るな……!」
 オルコットがライフルを構えるが、やはり女は動じない。 それどころか、周囲にいる住民たちもゆっくりと歩み寄って くる。
 「今は逃げたほうがいい!トラックに乗るぞ!」
 藤村が叫び、三人は走り出した。住人たちが追ってくる様子はなく、トラックで逃げればこの街を離脱できる。
 しかし、トラックまで残り数十メートルの地点まで来た時、藤村はふと疑問を抱いた。
 運転手は何をしている?
 スミスが死んだことには気付いていないにしても、藤村の発砲音は聞こえたはずだ。
 その間、様子を見にも来なかったのか? だがその疑問は、トラックの爆発とともに消え去ることになった。
 藤村たちが、トラックまで残り数メートルの地点に来た時。突如としてトラックが強い光に包まれたかと思うと、激しい爆発音とともに炎をまといながら四散したのである。
 「どうなってる⁉」
 オルコットが叫ぶ。だが問題は、そこでは終わらなかった。
 それは、獰猛なエンジン音とともにやってきた。地を揺らし、何十もの軍靴の音を引き連れて。鋼鉄の死神が、炎の中から姿を現した。
 『ツヴァンツィヒ小隊だ!』
 街道にいた住人が歓声を上げた。そして他の人々も次々に喝采する。
 「あぁ……あれは……」
 その姿を見た三人は絶句した。巨大な車体に禍々しい機関砲を取り付けた装甲車両。その周りには、列を成して行進する黒い軍服の兵士たち。
 消えたドイツ軍の一個小隊。
 兵士の一人が、煙の中から藤村の姿を見つけた。そしておもむろにライフルの銃口を向ける。
 その顔には、歪な笑顔が浮かんでいた。

 続く

宿身代の悪魔 「不撓の高潔と未熟な純潔後編その二」

(前回掲載分に付け足した形となります)

【前回までのあらすじ】
 闇の帳に覆われた地、ゼーゲタディ。この地には、時折『いしずえ人』 と呼ばれる存在が現れる。二百と十六の命と幾つかの祝福を竜より与えられし彼らは、同時に使命をも預けられ、終わらぬ闘争に身を投じることを強いられるのである。
 現れて間もない『いしずえ人』であるリリィは、右も左もわからぬま まに窮地に追い込まれていたところを、同じ『いしずえ人』であるマグノリアに助けられ、少しの間行動を共にすることとなる。未熟なリリィ を一人前にするべく手解きを行ったマグノリアが目の当たりにしたのは、 リリィが秘める類稀な才能、その片鱗であった。運命を感じたマグノリアはリリィの求めに応じ、正式にパーティとして旅をすることを決めた。
 『狼の森庭』を目的地と定めた二人だったが、いきなり強敵『ウイングリザード』の襲撃を受ける。一時は不利な形勢に陥ったものの、リリィの覚醒、そしてマグノリアの切り札によって勝利をもぎ取ったのであった。

八.狼の森庭
「さて、やっと着いたわけだけど…… 森に突入する前に、最後の確認をしようか」
 『ウイングリザード』を撃破した後、度々の交戦を乗り越え、二人は遂に『狼の森庭』、入り口の『竜の楔』に辿り着いていた。
「まずはこれだ。あの廃村で見つけたこの記載について、ちょっと考えよう」
 廃村の中心、『竜の楔』の間近にあった碑に刻まれていた文字。それを、 マグノリアは書き写していたのだ。
「ええと…… 『フィルセリーディス・バージル・セルーフィオ』?『エイサーヴォルフ・ギラガン』?っていう人達の話、ですか?とっても尊敬されていたみたいですね」
「そうだね、そう読める。確か『フィルセリーディス』は『風の竜』の名だったはずだから…… 一人目は『風の舞姫セルーフィオ』のことと見 て間違いない。『竜の試練』として私たちが相対することとなる『楔の英雄』、その一人だ」
「なるほど。つまり、三つの鍵を手に入れて竜殿に戻ったら、その人と 闘うことになるんですね。じゃあ、もう一人の『よく斬れる狼』ってい う人は、その関係者なんですか?」
「確かにそう読めなくもないけれど…… この場合は『切れ者の狼』、そう だな…… 『賢狼』というべきかな。『賢狼ギラガン』は、セルーフィオの右腕として戦った勇者として語り継がれる英雄だね。この辺の逸話はすべて『光都エル・ルクセリア』で知ることができるから、立ち寄った時に一緒に見に行こうか」
「はいっ」
 花が咲いたような笑顔。一瞬緩みかけた空気を咳払いで切り替え、マ グノリアは『本題』を切り出した。
「この話題はこのくらいにしておこう。次は…… 君の『竜業』について だ」
「…… はい」
「あれほどまでに身体能力を引き上げる『竜業』に、代償が無いはずがない。 …… 教えてくれないか。君のその『竜業』が、如何なるものであるかを」
 全てを見透かしているような静かな視線を受けてとうとう観念したリリィは、『必滅の誓い』が要求する『代償』について白状した。
「…… なるほど。まぁ、薄々そんなことじゃないかとは思っていたよ。なにせ『ウイングリザード』を倒したあとも何度も戦っていたのに、一向に身体能力が向上する様子がないんだものね」
「お、お見通しだったんですね…… 」
「まぁ、ね。しかし、『一つの命につき一度しか使用できず、また、使用後、一度命尽きるまで『魂の光』を得ることによる身体能力の成長が大きく減衰する』とは…… 分不相応の力を振るって窮地を脱する代償と考えても、些か重いな。しかも、【詠唱】とは違って『竜の楔』に触れても 使用可能回数は回復しないのか…… 」
 しばらく目を瞑って考えていたマグノリアだったが、ふと視線を感じ て瞼を上げると、少女がこわごわとこちらを窺っている。その様子に苦 笑し、こう告げた。
「そんなに心配しなくても、『この竜業は禁止だ!』なんて言ったりはしないよ。さっきはそれで助けられたわけだしね。もっとも無闇に使うものではないから、本当に使うべき相手かどうかは慎重に考えて欲しいけど」
 露骨に顔を輝かせるリリィ。続く一応の注意も聞いているのやらいな いのやらで、マグノリアの苦笑も深まるのだった。

◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

 その後、暫しの休息を挟み。二人は、遂に『狼の森庭』に足を踏み入れた。澱んだ空気に鬱蒼と木々が生い茂り、月光があまり届かず薄暗い。 内部は獣道こそあるものの、視界の悪さも相まって迷路のようになっており、闇竜の導きなしではあっという間に道を見失っていただろう。時に森までの道中より一層手強くなった犬や烏たちの襲撃を退け、時に熊を回避し、森の中を歩く二人だったが、さしたる危機もないままに、中継地点である『竜の楔』が穿たれた場所に到着した。そこはちょっとし た広場のようになっており、リリィたちが入ってきた方向の反対側にも道が続いていた。
「ふぅ…… これで一休みですね!」
「そうだね。しかし、ここは『狼の森庭』なのに、ここに至るまでに一度も狼の姿を見かけなかったというのが少々引っかかるかな」
「たしかに…… 犬とか、鳥ばかりでしたね。あとは…… 熊とか?」
「そ、その話はやめてくれ…… 」
 進行中に一度だけ発見した熊の話を持ち出され、顔を赤らめるマグノリア。駆け出しだった頃の彼女を完膚なきまでに叩き伏せ、初めての『死』を与えたのが熊であり、成長した今となっても苦手意識を持ち続けてい るのだ。そのため、先程熊を見つけた時も、有無を言わさず迂回を選択したのだった。
 恥じらうマグノリアと、それを見てくすくす笑うリリィ。先程まで常 に襲撃を警戒する必要があったために、どこか張り詰めたままだった空気が一転。二人は暫し穏やかな時間を過ごすのだった。

◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

 休息のひと時を過ごし英気を養った二人は、森の奥に続く道へと足を踏み入れた。そしてその瞬間感じ取る。
「っ…… !」
「これは…… !」
 明らかな雰囲気の違い。澱み、不気味だった森の外周部とはまるで異なり、静かで鋭い『聖域』とでも形容すべき空気が醸し出されている。 木々も心なしか秩序だっているようで、しっかりと月光が差し込んでい た。
「…… どうやら、ここからが本番のようだね。最大限の警戒を」
「は、はい…… !」

◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

「── リリィ」
「はい。あれは…… 」
 暫く歩いた後。気を尖らせつつ進む二人の進行方向を塞ぐように、一 匹の白狼が現れた。襲い掛かってくるでもなく、ただこちらを見つめる のみ。それが却って不気味さを感じさせ、警戒心を煽る。
「………… 」
「……………… 」
「………………………… 行っちゃいましたね」
 僅かに睨み合った後、白狼は踵を返して去っていった。今一つ意図が 掴めない行動に顔を見合わせ、首を傾げながら再び歩き出そうとした時、 『遠吠え』が響き渡った。或いは── 『鬨の声』。
 風にざわめく森。その音に気配を溶かし、狩人たちは迫り来る。
「リア…… !」
「わかっているとも…… !立ち止まって『来る』のを待つのは下策。奴らはいつでもそのタイミングを選べる以上、待ってもこちらが疲弊するだけだ。それよりは相手に『来させ』たほうが、まだ幾分か利口というものだろう。 ── リリィ、走るぞ!次の『竜の楔』の範囲内に入ればこちらの勝ち、相手はそれを阻止しなくてはいけないはず!」
 微かな、しかし確かな殺意を感じ取った二人は短い作戦会議を終え、 一気に駆け出した。あくまでリリィに合わせた速度ではあるが、それで も先程までとは一線を画すペースで道を進んでゆく。遠巻きに機を窺っていた複数の気配は突然の加速に不意を打たれたようで、まともに追え ていないようだった。引き離せたことに安堵しかけたその時、再び夜空 に咆哮が打ち上がる。 「── っ!また咆哮!?」
「恐らく遠吠えで連絡を取っているんだろう!先程の白狼は、さしずめ私たちを推し量る『斥候』だったというわけだ! ── 作戦は続行!このまま一気に駆け抜けてしまおう!」
 そのまま走り続ける二人だったが、そうはさせじと両脇から白狼一、 黒狼四、計五匹の狼が現れて行く手を防いだ。可能なら戦闘は最低限に止め、勢いのままに切り抜けるつもりだったマグノリアだったが、この数では自分はともかくリリィが抜けきれないだろうことを察してやむなく足を止めた。白狼の声に従い、黒狼たちが一糸乱れぬ動きでマグノリアに襲い掛かる。
 愚直に突っ込んできた一体目を斬り伏せることは容易かったが、それこそが狙いであると察したマグノリアは敢えて身を翻した。一体目が斬られている間を衝こうとした二匹目の飛び掛かりをも空振らせ、更に畳 みかけようとした三体目を横から蹴り飛ばし、身を転じたのを見てから突撃してきた四匹目に対してようやく刃を振るう。見定めた一閃は違わず黒狼の首を刈り取った。一瞬で頭数を一つ減らされたことに警戒してか遠巻きになる残った三頭に向き直った時、少女の絶叫が空に響いた。
「── リリィ!」
 弾かれたように振り向いたマグノリアの目に映ったのは、少女の腕を吐き捨てる白狼と、左肩から血を噴き出し崩れ落ちるリリィの姿。間抜けにもまんまと嵌められた『いしずえ人』に、狡猾なる狼は嗤笑を下す。 少女の身体が粒子となって砕け散るのと、激昂した女が白狼を両断するのは殆ど同時だった。

◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

 その後指揮官を失った三頭の黒狼を難なく始末し、先程の『竜の楔』 へと飛んだマグノリアは、しゃがんで項垂れるリリィの隣に腰を下ろし た。身を振るわせる少女を見て瞳を揺らすと、静かな声で語りかけた。
「『死』が怖くなったかい?私の下を去るなら今のうちだ。私と道を同じくするというのは、こういうことなのだから」
 それは、ある種の覚悟でもあった。彼女にとっても最早リリィの存在は大きく、いざ別れが近づくと切なさが否めなくなっていたから。しかし、マグノリアの予想に反し、少女は首を横に振った。
「…… 今更です、そんなの。わたしが怖いのは、死ぬことじゃない。そんなものよりあなたと一緒にいられないことの方が、よっぽどです。けれど、それと同じくらい…… わたしのせいであなたが傷ついてしまうことが、怖い」 「っそんな── 」
「聞こえてたんです。わたしが死ぬ寸前に、わたしの名前を呼ぶリアの声。とても切羽詰まった声でした。わたしのためにそんな声を出してくれたことがとっても嬉しかった。けれど、同時に気づいちゃいました。 将来もっと強い相手と戦うことになった時、その一瞬は致命傷になるんだって」
 そう言って顔を上げるリリィ。瞳を潤ませ、頬を濡らして。尚も言葉を紡ぐ少女の姿にこみあげてくるものを感じ、気づけば身体が勝手に少女を抱き締めていた。
「だから…… わっ」
「そんな風に思っていたんだね。ごめん、全くわかっていなかった。君 は、私なんかよりずっと強い子だった」
「そんなことっ── 」
「あるさ。信じられないというなら── そうだね。とある一人の愚かな女の話をしようか」
 そう言うとリリィの方に乗せていた顎を引き剥がし、顔を合わせて。 懺悔するように、マグノリアは語りだした。己の罪を。決して目を逸ら さないと決めた過去を。
「私がまだ、現れたばかりだった頃の話だ。その時の私は一度目の死を迎えた直後で、何事にも臆病になっていた」
「熊にやられてすぐ、っていうことですか?」
「そうだ。そんなとき、一人の同輩に出会った。彼もまた私と同じく駆け出しの『いしずえ人』で、大いに気が合った。道を共にしよう、となるのにさしたる時間はかからなかった」
「………… ふーん」
「…… ?まぁいいか。しばらくは至極順調だった。一人では確実に死んでいたであろう苦境も、二人ならなんとか乗り越えられた。私たちの 間には、確かに絆が芽生えていたといってよかった」
 何故か不満げなリリィに首を傾げつつ、マグノリアは話を続けた。
「だが、ある日のことだ。突然だった。彼が『蟹』に捕まった」
「蟹?っていうのは…… 」
「この地に生きる脅威の一つだ。『ウイングリザード』に引けを取らない 体躯に、強固な殻と巨大な『鋏』を持つ。沼の畔を歩いていた時、突然それが飛び出してきた。たまたま私より沼に近かったという理由だけで、 彼が捕まったんだ」
「当然彼は私に助けを求めた。彼を捕らえている鋏を剣で攻撃すれば、 容易に抜け出せただろう。所詮『竜光』を一つも宿していなかった私た ちを狙うような個体だからな。 …… だが、私は逃げた。恐怖に駆られ、彼を見殺しにしたんだ。生きたまま彼が貪り喰われる声に背を向け、全速力で走った。それはもう無様にね」
「そんな…… 」
「以来彼とは会っていない。どうなっているかも知らない。…… 知りたくない、という方が正しいかもしれないな」
「逃げに逃げ、気づけば次の『竜の楔』に到達していた。漸く人心地ついた時に、私は自分の余りの浅ましさに愕然としたよ。半分絶望したといってもいい。 それからは、自分の罪から必死に目を背けようとした。自分はそんな醜い存在じゃないと思い込もうとした。そのために、多くの人に手を貸した。苦境に陥った時は、率先して危機に立ち入った。そんなことをして いたら、いつしか『高潔なる』なんて呼ばれるようになった」
「自分は変われたと思った。もう愚かで惨めなマグノリアは死んだと、 そう思っていた。君と出会ったのはそんな時だったんだ。いつものようにちょっと助けて、道を示して、それで終わりにするつもりだった。同行を願われたことだって初めてじゃない。けれど、皆私と道を同じくすることのリスクを教えるとすぐに引き下がった」
「君はそうじゃなかった。それでもなお、私と共に行きたいと言ってく れた。その真っ直ぐで綺麗な眼を見た時、ふと考えたんだ」

「『── あの時この少女を襲っていたのが熊だったとしても、迷わず助けに入っていたか?』と」

「…… っ!」
「察した通りさ。私はこの自答に、『是』と答えられなかったんだ。私は 高潔なんかじゃない。あの時彼を見捨てた時と、本質は何も変わってい なかったんだ」
「だから私は君を受け入れた。今度こそ、変わるために。もう一度過去 に向き合い、そして超えるために」
 そう吐露すると一度目を伏せ、そして再びリリィと目を合わせた。
「お願いだ。私の、戦う理由になってくれないか」
「え── 」
「語った通りだ。卑小で醜いままでは、これから続く戦いを乗り越えることなどできないだろう。私は私のために『強く』在りたい。けれど、ここで君から逃げたら終わり…… そんな予感がするんだ」
 いつしかマグノリアの目からも、熱いものが流れ落ちていた。全てを曝け出し、女は懇願する。
「さっきの君の言葉を聞いてわかったよ。リリィ、私の道は君と共にあったんだと、今は確信している。君こそ私の導きだったんだ」
 マグノリアの紫の瞳と、リリィの黒い瞳が交差する。ほんの僅かな、しかし二人にとっては永遠にも等しい時間の果てに。
── 少女は破顔した。
「── しょーがないですね!リア、これからもずっと一緒ですよ!!」 今度は、少女から。精一杯の力で抱き締める。決して離れない、離させはしないという誓いを込めて。

「リリィ…… ありがとう。あぁ、ずっと一緒だ」

 重なる身体、然してすれ違う想いは心に。それでも結ばれた絆だけは決して偽りのものではなく。そうして二人は、互いの温もりに触れあっていた。

 ややあって。先に正気に返ったのはどちらか、恥じらって身じろぎしたことでもう片方も我に返った。そそくさと身を離し、再び落ち着くはいつもの距離。しかし、確かに存在した『壁』が取り払われたように感じられる。視線が絡み合い、なぜだか二人して恥ずかしくなって目を逸らした。シンクロした動きがまたおかしくて、これまた同時に笑みを零すのだった。


◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

「しかし、どうしたものか…… 」
「うう、私がもう少し足が速ければ…… 」
「それは仕方ないさ。どのみちあれ以上増やされたら私も厳しいしね。 ただ、抜けられないとなれば当然やりあわないといけないんだが…… 連携が想像以上に高度だ。長く足を止めていると増援が来そうだし、悩ましいな…… 」
 先程の狼の群れを思い返し思案する二人だったが、ふと気配を感じて広場の入り口を見る。するとそこには、身体から『橙と紅』の二色の光を放ち、背中に長大な剣を背負った偉丈夫の姿があった。

【詠唱】
 探求の果て、『竜業』とは似て非なる仕組みで竜の御業を扱うことを可能にした技術。今ではその理論は失われて久しいために新しいものが生み出されることはないが、かつて開発されたものが『光都エル・ルクセ リア』に収められているため、才能次第では扱うことができる。
 『タリスマン』と呼ばれるお守りを触媒とし、決められた『祝詞』を紡ぐことで発動する。一つの命につき同じ【詠唱】はそれぞれ決められた回数しか使用できないが、『竜の楔』で休息することでその回数は回復する。
 人の身でありながら竜の力を振るわんとする傲慢さは、しかし竜に許された。多くの者たちが何世代にも渡って続けたという、その探求心の拠り所が、純粋な信仰であったがために。

九.巌の剣
「ふむ、まさか先客があろうとはな。それも同じ『二つ持ち』とは…… これも闇竜の導きか」
  警戒して『闇鉄の短剣』を構えるリリィだったが、マグノリアがそれ を制した。
「その剣は、『ツヴァイヘンダ― 』?まさか、貴公は『巌』の…… 」
「ほう、貴公は俺を知っているか。如何にも、我が名はコンラート。『巌』 のコンラートなどと呼ぶ者も少なからずいる。そういう貴公は、その『クレイモア』を見るに『高潔なるマグノリア』か?子守りとは、噂に違わぬお人好しのようだな」
 コンラートと名乗った男の語り口にむっとしたリリィだったが、マグ ノリアに止められたことと、そして彼我の実力差を察して堪えた。その 様子を見て鼻を鳴らす男に、マグノリアが咎めるように言った。
「この子はリリィという。コンラート殿、この子を侮ったが最後、痛い目を見ることになると知った方が良い」
「なんとでも言え、俺はこの目で見たものしか信用せん。評価を改めて欲しくば力を示すことだな。 ── それで、用件はもう察しているな?」
「…… いいのか?私は、貴公の言葉を借りれば『子守り』をしている 身だが」
「構わんさ。『二つ持ち』ならばその程度補って余りある。少なくとも、 俺一人より幾分かマシであることは間違いないと思うが」
「違いない。こちらとしても行き詰っていたところだ。では…… 」
「リア、リア、何の話をしているのですか?」
 少女を置いて話を進める二人に疎外感を覚え、リリィはマグノリアの手を引く。すまないすまないと謝り、マグノリアは補足をした。
「まぁ簡潔に言えば、コンラート殿も一時的に私たちと共に戦いたいということさ。期間はここの『主』を倒し、『鍵』を一つ手に入れるまで」
「そういうことだ、『お嬢』。心配せんでも、愛しの『お姉さま』を取るつもりはないから安心しろ」
「だっ…… だれが『お嬢』ですか!」
 顔を赤くして怒るリリィをまぁまぁと宥め、マグノリアはこの先で見たものについて手短に説明した。


「ふぅむ…… 狼の群れ、か。確信には至っていないが、その後も『主』 まで似たような襲撃が続くと仮定すると…… 」
 と、ここで一度言葉を切り、不敵に笑ってこう告げた。
「恐らくだが、狼どもは俺一人で事足りる」


◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇


「これは…… !」
「す、すごいです…… 」
 ややあって。三人は、コンラートを先頭にして森の中を歩いていた。先程と同じく、斥候の白狼が現れてこちらを観察したのちに咆哮が轟き、 白狼に率いられた黒狼の群れが現れたのだが…… 。
「まさか、戦おうともせずに尻尾を巻いて逃げていくとは…… 」
「『獣は火を恐れる』。簡単な道理よな」
 そういって先頭を歩くコンラートの胸には、煌々と輝く『焔の華』が 咲いていた。
「これが【詠唱】か…… これほど効果的だとは思わなかった」
 感心が多分に含まれたマグノリアの言が示すように、コンラートの炎華は【詠唱】と呼ばれる特殊な技術によるものである。
「剣を振るうだけが戦いではない、それだけの話だ」
 誇るでもなく淡々とそう語るコンラートの活躍によって、拍子抜けするほど簡単に三人は『狼の森庭』を踏破したのだった。


◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇


「ふむ、もう『竜の楔』か。存外にあっけなかったな」
「ぐぬぬ…… 」
「君はどうして悔しがっているんだ…… 」
 先程と同じく、ちょっとした広場のようになっている空間の中央に『竜の楔』は位置していた。しかし、先程とは大きく異なる点が一つ。さっ きは奥へとつながる道になっていたところに、一切の光を通さない闇のカーテンがかかっている。
「ご覧、リリィ。あれが『帳』だ。あれを抜けると、『鍵の試練』が始ま る」
「…… っ」
 拳を握り、マグノリアが指差した先…… 『帳』を睨みつけるリリィ。 そんな二人の様子を見て、コンラートが呆れたように声をかけた。
「まさかと思うが、お嬢は『鍵の試練』すら初体験か?貴公、それはお節介を通り越して処刑か拷問の類だぞ」
「耳が痛いよ。だが、これは私たちの選択だ。あまりとやかく言ってほしくはないな」
「そうです!あなたは黙っていて下さい!」
「…… お嬢が納得しているなら、これ以上はやめておこう。準備が出来 たら呼べ」 コンラートはそう告げると、二人から離れた場所に腰を下ろす。マグノリアは苦笑し、リリィに話の続きをした。
「『帳』を抜けた直後、場合によっては『追憶』を垣間見ることがあるかもしれない。『追憶』とは、私達が打ち倒すべきその地の主、『鍵』の持ち主の大切な記憶。敵の大事なものを知った上で、それに打ち克つことが求められているんだ」
「大切な、記憶…… 」
「あぁ。慣れない感覚が襲ってくるかもしれないけど、どのみち最初にその相手に挑むときにしか見ることのできないものだから、最悪そんなに気にしなくていいよ」
「…… わかりました」
 首肯したリリィに一つ頷き、マグノリアは表情を引き締めた。
「私から今言うべきことはこれくらいかな。リリィがいいならコンラー ト殿に声をかけてくるけど、大丈夫かい?」
「はい!私はいつでもいけます!」
「良い返事だ。…… コンラート殿!」
「応。なんだお嬢、いい面構えではないか。その意気で俺に貴様を認めさせるくらい、力を示してもらうとしよう」
「当然です!」
「二人とも準備はいいな?…… 行くぞ!」
 三人が横に並び、同時に『帳』に手を伸ばす。ぬるりと生温かい闇に触れた途端、『帳』が翻り、三人を飲み込んだ。


【クーネラプリマ】
 ゼーゲタディ西部の『狼の森庭』奥部などで見られる広葉樹。その特徴は葉が持つ蓄光性にある。何らかの要因で月光が陰った時も、この樹が生えている場所は、変わらず白銀の光に照らされるという。
 月光とは《資格無き者は知る事能わず》

十.老いたる賢狼・ギラガン

『さて…… そろそろですね』
 頭を一撫ですると、名残惜しそうに『彼女』は立ち上がった。佩いて いた長剣を外し、そっと地面に置く。
『この剣は貴方にお願いします。どうか見定めて、託して下さい。 ── 貴方の眼なら、信じられる』
 最後に目線を合わせて笑いかけると、『彼女』は歩き出した。もう覚悟 を決めたのだろう。こちらを振り返ることなく進んでいくその背を、い つまでも見送るのだった。


◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇


「…… 今のが?」
「あぁ、『追憶』だ。恐らくは、ギラガンの。そしてもう一人が── 」
「── 『風の舞姫』ということであろうな。しかしもしやとは思ってい たが…… いやはや、音に聞こえた『賢狼』が、真に狼であったとはな」
 ぽっかりと空いた空間。頭上に木々はなく、白銀の月光がリリィたち を照らす。ぐるりと空間を囲む樹木は、これまで『狼の森庭』で見てきたもののいずれとも異なるように見えた。そして前を見据える三人の目に映るは、まるで『墓標』のように地に突き立った剣と、それを守るように眠る一匹の巨大な黒狼であった。
 一陣の風にざわめく木々。その音に反応してか、はたまた『聖域』へ の侵入者を感知してか、巨狼の眼が開かれる。ゆたりと身体を起こした 狼は天を仰ぐと、月に向かって咆哮した。狼の遠吠えが、静かな夜空に 轟き響く。呼びかけるように、或いは希うように。
「なん…… そういうことか!」
 それに応えるが如く、周囲から狼たちが次々と飛び出した。野犬とは 比べ物にならない戦闘力で、統率の取れた集団戦術を駆使する強敵が 続々と現れる。
「お、多すぎますっ…… !」
 狼狽するリリィを咎めることなど誰が出来ようか。瞬く間に『長』の もとに集った狼たち、その数白黒合わせて五十
「い、いや…… 獣であれば!」
「応。覚悟を薪に、燃えよ焔。その煌めきこそ『勇』の顕現。 ── 【詠唱:勇気の灯火】
 コンラートの胸に、再び焔の華が咲く。先程と同じく、狼たちは後ずさった。
「ふむ。如何に数を揃えたとて、所詮は獣。火を恐れるのは変わらない ということか」
「これなら!」
「あぁ。改めて礼を言わせてくれ、コンラート殿。貴公がいなければどうなっていたことか」
 その様子を見て奮い立つ三人。コンラートを先頭に、ゆっくりと歩を進めた。
 が。
「待て。何かがおかしい」
「辺りが…… 暗く?」
 巨狼の希求に応えるかのように俄かに現れた黒雲が、瞬く間に月を覆い隠した。辺りを照らしていた月光が完全に掻き消える。刹那、周囲を囲む木々が白銀の光を放ちだした。
「これは…… 『クーネラプリマ』か?実際に目にするのは初めてだ」
「…… そうか。そういうことか」
「…… ?何を…… えっ?」
 呻くような声を発したコンラートを訝しむ間もなく、リリィの右肩に雫が落ちる。
「構えろ。これより、死地でなき場所は在らぬものと心得よ」
 瞬く間に豪雨の様相を呈した天を睨み、『ツヴァイヘンダ― 』を構えるコンラート。その胸の炎華は、天泣に打たれ既に散っていた。
 仰いでいた頭を下ろし、巨狼は侵入者たちを睨みつける。その喉が低く鳴るのを号令に、狼たちが怒涛となって押し寄せた。
「三角陣を組め!さもなくば一瞬で飲まれるぞ!」
「はいっ!」
「言われずとも!」
 一も二もなく指示に従い、互いが互いの背をカバーするように立つ。 各々が前方の敵にのみ対処すればよく、少数で粘る戦闘に最も適した陣 形である。押し寄せる敵を往なし撥ね退け続け、徐々に相手の数を減らす。この場における唯一の解答であり、そして絶望的な選択であった。
「こ── これ、無っ…… 」
 真っ先に『落ちた』のはやはりリリィ。元々腰を据えて迎え討つのではなく、素早く動き回る戦い方をするリリィにとって、足を止められる この陣形は殆ど死地といって相違なかった。右手から飛び掛かってきた 一匹の狼を短剣で切り伏せた瞬間、別の狼にがら空きになった脇に喰らい付かれ、引き倒される。そのまま反撃する間もなく群がられ、爪牙によって引き裂かれた。
「リリィ!?っしま…… ぐううっ!」
 続いてマグノリア。リリィの方に気を取られた一瞬の隙を衝き、狼が鎧のない足首に牙を突き立てる。咄嗟にその足を蹴り上げて引き剥がしたものの、その動きからは先程までのキレが失われていた。程なくして地に膝をつき、喉笛を噛み裂かれ消滅した。
「ぐ…… ここまで、か…… 」
 最後に残ったコンラートも、四方八方から代わる代わる襲い掛かられては長く保つはずもなく。全身の至るところから血を流しながらも七匹の狼を屠ったが、奮闘も虚しく地に身体を横たえた。
 数多の狼を従え、傲然と君臨する漆黒の巨狼。降りしきる雨の下、爪牙持つ荒波が、次々に咆哮の凱歌を響かせた。


【断崖のツヴァイヘンダ― 】
 特大の長剣。両手持ちの武器ではあるが、両手でさえ、尋常な筋力では扱えない。長い刃は鋭く重く、叩き付け敵を吹き飛ばす他に、深く貫く刺突攻撃すらも可能である。
 『竜業』は『破砕の巌』。振り上げた剣に超重量の岩石を纏わせ、重量のままに振り『落とす』。単純故に強力であり、直撃すればあらゆるものを打ち砕く。
 断崖の加護が施されたその長大な刃は使い手の膂力の証明であり、十全に振るえる者はそれだけで尊崇の念を集める。そしてコンラートは、 それに足る人格をも持ち合わせていた。


十一.勇戦( 一)

 『竜の楔』でコンラートが蘇ってすぐ。三人は、『鍵の試練』を乗り越えるための作戦会議を始めた。
「流石だな、コンラート殿。たった一人でこれほどの時間を耐え忍ぶとは」
「自慢にもならんさ。『賢狼』めを、一歩たりとも動かすことができなかった時点でな。あの雨、偶然のものではないだろう。『クーネラプリマ』 の群生がそれを物語っている。あれは雨雲が月光を覆い隠す故、代わりの光源となるべくして生えているのだろうな。流石に『鍵の試練』、やってくれる。 …… しかし、俺は彼女に謝罪せねばならんようだ。てっきり震えて縮こまっているものだと思ったが、なかなかどうして勇敢ではないか」
 そう目を向けた先には、何かを考えこんでいる様子の少女。はっと視線に気づくと、ムキになって言い返した。
「ばっ、バカにしてるんですか!私だって『いしずえ人』なんです、 死ぬことへの覚悟くらい持ってます!」
 ぷんすか怒るリリィと、悪かったと謝るコンラートに苦笑するマグノリアだったが、ふと思い出したように声をかけた。
「そうだ、リリィ。何か考え込んでいたようだけれど、何か思いつくこ とがあったのかい?」
「そ、そうでした。なにかこう違和感があった…… んですけど、うーん …… 微妙に捉え切れていないというか、今一つ言葉にできないんです。 …… ごめんなさい」
「いや、いいさ。また気が付いたら言ってくれ」
 しゅんと肩を縮めるリリィに気にするなと声をかけた彼女だったが、 すっと表情を真剣なそれに戻した。
「…… だが、このままでは太刀打ちのしようが無いのも事実。何か策を 立てなければいけない。そのためにも、まずは前提の共有がしたい。 ギラガンが呼び出した黒白の狼は、白狼が黒狼を指揮している。これはよいだろうか?」
「違いあるまい。『白いの』は『黒いの』と比べて、随分と消極的だったからな。全部がそうというわけではなかったが、『白いの』の中でも『攻撃役』と『指示役』で分かれているのだろう」
「わたしたちが森で遭遇した時も、白狼が指示を出していたように見えましたね!」
 初めて殺されたときのことを思い出したのか、リリィは顔をしかめた。
「ありがとう。つまり、私達が勝つためには、まずあの緻密な連携を攻略しなければならないのだが、何か策はあるだろうか?」
 鼻を鳴らして答えたのは、やはりというべきか、コンラートだった。
「応。あの連携の肝が、『白いの』の指揮にあることは疑いようがない。 ならば、『白いの』が指揮を出来ない状態になればよいわけだ」
 そこでいったん言葉を切り、コンラートはこう告げた。 「我が『竜業』、『剛身』…… そして【詠唱: 狂乱の煽動】。この二つを用いれば、群は個に成り下がる。統率を失った獣など、物の数ではなかろう」


◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇


 再び『帳』をくぐった三人。先程と同じく寝そべっていた巨狼が身体を起こし、天に向かって咆哮する。瞬く間に巨狼の元に黒白の爪牙が集い、黒雲が満月を覆い隠した。周囲の『クーネラプリマ』が輝き始める中、『竜業』、『剛身』を発動して更に頑強となったコンラートが前に出た。 左手に持った『タリスマン』を掲げ持ち、右手を大きく広げて声を張り上げる。
「仰ぎ見よ、我が勇姿。愚鈍なる大間抜けどもよ、この首欲しくば、来たりて取れ。 ── 【詠唱: 狂乱の煽動】
 どんっ、と。リリィには、何か不可視の波動が空気を震わせたように感じられた。そして、明らかに空気が変わったことも。眼前に広がる狼の群れは、その波動が届いたときから、明らかに様変わりしていた。冷酷な狩人の眼光を有していたその眼はいまやギラつき、涎を垂らした野獣にも等しく。異様な熱気が充満し、もはや統制など望むべくもない。 餓えた獣に堕した狼たちは、コンラート目掛け一斉に駆け出した。
「凄まじいな…… 」
「作戦通り、ですね!」
「あぁ。私達は、私達の仕事をしよう!」
 視線を交わし、『配置』につく二人。今回の作戦はこうだった。
── 『剛身』で耐久力を大きく上げたコンラートが【詠唱】で狼たちの連携を崩し、自分一人に狼のヘイトを集中させる。そこを、範囲攻撃ができるマグノリアの『竜業』で横から一気に薙ぎ払う。リリィは、万が一マグノリアの方に狼が向かった時に、『竜業』に集中する彼女を守る。
 三人という数を活かしたコンラート考案の策は綺麗に嵌った。瞬く間 に狼たちとコンラートの距離が縮まる。マグノリアは『激流のクレイモア』を寝かせて身体の横に構え、『竜業』の準備に入った。そして、いよいよあと十歩で狼どもがコンラートに達するほどに近づいた、その瞬間。

── 『風』が吹いた。降りしきる雨とはちぐはぐな、澄み切った優しい風が。幾度となく『それ』を行使し、また目にしてきたコンラートとマグノリアはこれが『竜業』であることを察し、驚愕に目を見開いた。
( よもや…… 獣が『竜業』を使おうとは!)
 効果は劇的だった。驀進していた狼たちは一斉に正気に戻り、ぶつかり合いながらも動きを止めた。今は頭を振ったりきょとんとしたりしているが、すぐに一糸乱れぬ連携で襲ってくることは明白だった。
「コンラート殿!作戦は失敗、『次善策』に移る。異存はないな?」
 僅かな隙と見て駆け戻ったマグノリアがそう呼び掛ける。偉丈夫は忌々し気に首肯した。
「是非も無し、か。急ぎ『壁』の展開を」
「ああ! ── 『不退の壁』!」
 橙色の輝きが迸る。瞬く間に大地が隆起し、並び立つ二人の背後を守るように聳え立つ。身構えた二人に、体制を整えた狼たちが飛び掛かった。


◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇


( 『賢狼ギラガン』…… 。近くから見ると、すごい迫力…… !)
 マグノリアが『壁』を展開したのと同刻。リリィは樹上を通って狼の 群れの横をすり抜け、単身で巨狼の前に立っていた。群れを成す黒白の狼たちとは比較にもならない、見上げるほどの巨躯。
( 狼たちが前に出た今なら、邪魔されずに戦えると思っていたけど……)
 『ウイングリザード』とは桁違いの威風に青褪め、思わず足が止まる。 しかし、間もなくしてあどけない顔が瞋恚に歪んだ。
( ここまで近づいたんだ、この狼がわたしに気づいてないわけがない。なのにっ…… !)
 そう、巨狼は目前に迫ったリリィを歯牙にもかけず、遠くで奮戦して いるマグノリアたちをじっと見ているのだ。リリィは『敵』とすら認識 されていなかった。
「わたしだって…… わたしだってぇぇぇぇぇぇぇっ! ── え?」
 体が震えるほどの屈辱に激発し、目の前の左前脚を斬り付けて…… ぬぷりとした、その余りに異質な手応えに瞠目した。柔らかい泥に手を突っ込んだ時のような、名状しがたい感覚。リリィにわかるのは、今の斬撃が巨狼になんの痛手も与えていないということだけだった。
 しかし、それはギラガンにとっては、少女への認識を「道端の雑草」 から「駆除すべき害虫」に改めるには十分だったらしい。『闇鉄の短剣』 が入り込んだままの左前脚をやにわに振り上げる。それはリリィの身体を軽々と真上にかち上げた。少女の矮躯が宙に舞う。何とか身を捩って最低限体勢を整えたリリィの目に映ったのは、ずらりと並んだ鋭利な牙 と、真っ暗な闇のような口腔だった。

── ばぐん。


◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇


(── それに、あの感覚。絶対におかしかった。『斬った』っていう感覚が全くしないなんて…… あっ)
「おかえりなさい。…… どうでした?何かわかりましたか?」  『竜の楔』で復活したリリィが考え込んでいると、二人がほぼ同時に戻ってきた。無惨な死に方をしても普段と変わらない様子のリリィに安心したように息をつくと、マグノリアは苦笑しつつ頷いた。
「まぁ、わかったことはあるかな。良い、とは言えないけどね。私たち は『壁』を展開し、狼たちを相手取っていたんだけど…… 」
「それなりに数を減らしたところで、奴め、巨大な風の塊を撃ちだして 来おった。咄嗟のことで反応もできなかった我らは、哀れにも粉々にさ れたというわけだ」
 忌々し気に吐き捨て、コンラートはリリィに水を向けた。
「貴公の方はどうだ。ただ喰われただけとは言うまい?」 「まぁ、そうですけど…… 」
 自分の呼び方が変わっていることに驚きつつ、少女は先程の異質な手応えについて説明した。
「── って感じでした。…… あの、ここからはわたしの推測なんですけど」
 そこでいったん言葉を切ると、自信なさげにこう続けた。
「あのおっきな狼は、普通に戦って倒せる相手じゃないかも…… と思います。それと、ひとつ聞きたいことがあるんですけど…… 」


【竜業: 吹き抜ける鎮め風】
 『風の民』に伝わる『竜業』の一つ。穏やかな風を呼び起こし、あらゆる状態異常を消し去る。
 『風の民』は風を奏で、風に歌う。これは母の抱擁にも似た、心優しきものの旋律である。


十二.勇戦( 二)


「あっ、おかえりなさい!あの、どうでしたか…… ?」
「ただいま、リリィ。君の言ったとおりだったよ」
復活するのを見て取るや否や駆け寄ってきたリリィに微笑むと、マグノリアは感嘆の息を吐いた。
「しかし、考えもしなかったよ。君には驚かされてばかりだな…… 」
「えへへ…… 」
 頭を撫でられて頬を緩ませる姿からは、先程見せた洞察力は欠片も感じられない。しかし、この『鍵の試練』を突破する道筋を切り拓く、その第一歩を見出したのは間違いなくこの少女なのだ。女剣士は、先程のことを思い出していた。


◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇


『それと、ひとつ聞きたいことがあるんですけど…… お二人は、あの白 い狼たちがどうやって指示を出していると思いますか?』 『どうやってって…… 声じゃないの?実際、私達が森で遭遇した小隊は、白狼の声で動いているようだったし』
『はい、わたしも最初はそう考えていました。けど、よくよく思い返すと『違和感』があったなって、そう感じたんです。 ── 最初の戦闘の時、すごく的確な連携攻撃をしてきたと思うんですけど…… わたしたちと戦っている音に、わたしたちの声。それに、激しい雨の音。いろんな音が混ざり合ってて、声での指示が出来るような状態じゃなかったと思うんです』
 マグノリアはハッと息を飲んだ。驚愕と、ごく自然に『狼たちは声で 連携を取っている』という考えに囚われ、そこに疑問を差し挟まなかったことへの恥じらいがあった。そしてそれは、恐らくコンラートも同じであっただろう。
『もし、あの状態でも指示役の白狼が声で指示を出していたとしたら、 かなり大きい声を出さなくちゃいけないはずです。わたしたちにも聞こえるほどに。…… けど』
『あぁ。そこまで激しく吠えたてる声は聞こえなかった。つまり…… 』
『奴らは声以外に、遠距離での意思疎通をする手段を持っている、ということか』
『はい。それに加えてもう一つ。わたしがおっきな狼のところに行った時、見向きもされなかったっていう話をしたと思うんですけど』
『そうだね。君のことを歯牙にもかけていないが故の無視と、そう感じて斬りかかったんだっけ』
『そうなんですけど、今考えると別の理由があったんじゃないかなって思うんです。『わたしを無視した』んじゃなくて、『お二人の方を見ていた』っていう可能性…… です』
『つまり、貴公はこう言いたいわけだ。『何らかの手段でもって、ギラガンが指示を出している』と』
『そういうことです。じっとしてるだけなのに、わたしが目の前まで近づいても攻撃しないなんてやっぱりおかしいです』


◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇


 しばらくするとコンラートも帰還し、検証の結果を共有することとなった。今回は先程とほぼ同じ流れを踏襲したが、違う点が二点。リリィが徹底的な時間稼ぎを目的としてギラガン相手に逃げに徹することと、 狼たちを相手取る二人がギラガンの強力な遠距離攻撃を知っていること。 目的は、リリィがギラガンの気を引いている間とそうでないときで、狼の動きに違いがあるかどうかの確認。そして、仮にギラガンが普通に戦っても倒せない存在だと仮定した場合に、『普通に戦う』以外の倒し方を模索することにあった。
「あの、わたしはあっという間にやられちゃったのでなんにもわかんなかったんですけど…… お二人の方はどうでしたか?」
「大収穫だ。大当たりだよリリィ、最初の僅かな時間とそれ以降で、狼 たちの動きの練度に差があった。君がギラガンと交戦している間とみて 良いだろう」
「それと、奴が巨大な風の塊…… 『風の槍』とでも呼ぼうか、ともかくそれを放ってくる条件も見えてきた。この二回のどちらも、我々が十頭いる『白いの』のうち、三頭を仕留めた段階で撃ち放ってきたのでな。 もし次も同じ時宜に撃ってきたのなら、確定と見るべきだろうな」
 一つ一つ、解き明かしていく。初めは絶望的かと思われたこの試練も、 徐々にその態様が顔を見せるにつれて、光明が差していくように感じられた。
「それを確定情報と仮定すると、ギラガンは白狼が一定数倒されると本気を出し始めているように感じられる。…… つまり、この戦いの勝利条件は」
「『白いの』の全滅。現状では、これが最も可能性が高いと言えるだろう」
「あぁ。…… 見えてきたな、希望が。これもリリィ、君のお陰だ」
「いえそんな、遠からずお二人も気づいていたと思いますし…… えへ」
「だが、問題もある。大量の狼どもを相手取れるのは、俺達が二人だからだ。どちらかが欠けても、またもう一人が足を引っ張っても、成し得ない。つまりリリィ嬢、貴公が一人でギラガンを抑えなくてはならない のだ」
「…… わかっています。あなたにとって、それはいかにも力不足に見え ますよね」
「だが、今のところそれ以外に道は無い。…… 敢えて訊こう。俺は、貴 公を信じて良いのか?」
 リリィを見据えるその目に最早侮りは無く、ただ静けさのみを纏っていた。覚悟を問うたその眼差しに対し、少女の答えは決まっていた。
「── はい!十回、いえ七回。わたしに、お二人の命をください。必ず、対応して見せます!」
「よく言った!俺達の命、預けよう!貴公も異存はないな?」
「勿論。リリィ、任せた ・・・・ よ ・ !」
 頷いた彼女の瞳が語る信頼、力強い言葉。それこそが少女を、何よりも勇気づける。もう一度視線を交わし合うと、三人は『帳』へと歩き出した。

【風の民】
 『風を称えるもの』、エル・フィルセリーディスとも呼ばれる人々の総称。ゼーゲタディ西部の『狼の森庭』を中心に生活していた。 風の竜、フィルセリーディスの恩寵を受けており、風に関連する『竜 業』に高い親和性を示す。その耳は細く先が尖り、風の微細な変化を敏感に感じ取る。また、古くから狼を盟約の獣としており、狼に騎乗して野山を駆け巡ることを好むものもいたという。 だがそれも過ぎ去りし日々の欠片であり、『楔の誓約』以後、彼女らもまた風となった。

【次回予告】
 『賢狼ギラガン』攻略の糸口を看破し、勢いづく三人。背負いし信頼を闘志と変え、少女は敢然と立ち向かう。そして激戦の果て、在りし日の約束が果たされる時、月下に踊るは翠の剣。 次回、『十三.覚醒』。
「これが…… 本当の『試練』…… !」



蛸壺 なつき「リット*ナイト ―前編―」


Prologue.

 学校からの帰り道。僕こと白道介人とは、教科書の詰まった鞄を背負って真夏の通学路を歩いていた。
 小学校からのクセで、僕は授業で使った本やらファイルやらを毎回全部持ち帰ってしまう。別に学校からそう言われているわけでは ないので、そろそろ置き勉とやらを始めたほうがいいのかもしれない。
「それにしたって、今日は暑いなぁ…… 」
 今日は七月四日。六月に降った豪雨と強くなっていく日差しの相乗効果で、月初めだというのに気温は30度。纏わりつくような熱 気と湿気が自然と足取りを遅くする。この先には長い坂道があるし、なんとかしないと坂を登り切れるかも心配だ。
 こうなったら、奥の手を使うしかない。
「………… 誰も見てないよね」
 周囲の人がこちらを見ていないことを確認してから、体内で魔力を生成する。脳内で呪文を唱えると、魔力が冷気に変わって僕の身体がゆっくりと冷やされていく。
「はへぇー……… かいてきかいてきぃ………… 」
 調子が戻ってきたので、坂道を全速力で駆け上がる。今の僕なら向かってくる熱風もへっちゃらだ。
 ―――― 実を言うと、僕は魔術師である。といっても、実力不足のペーペーマジシャンだけど。
 魔術師とは、自身に宿った魔力と呪文を操り、たくさんの不思議な現象を引き起こす存在である………… くらいのことしか僕には分からない。
 他には呪文の組み方とか、魔力の生成方法とか、そういった基礎的な知識しか持っていない。独学でやらずに誰かに教えてもらっていたのなら、魔術の技術も知識も、もう少しマシなものになっていたかもしれない。 坂を登り終えて頂点に着くと、見慣れた家が見えてくる。開放的な夏の空の下に立つ、白いタイルを基調とした大きめのヨーロッパ風の家。その佇いは、日本の地方都市にはやや似合わないほどにオシャレだ。ここには昔、僕の幼馴染が暮らしていた。 「…… そういえば、ありすは元気にしてるかな」 その家を眺めていると、ふと、その名前が口からこぼれた。 椿ありすは10年以上付き合いのあった幼馴染だ。黒のショートボブに赤い花飾りの似合う女の子だった。 彼女も魔術師で、昔は同じ見習い兼ライバルとしてよく一緒に魔術の勉強をしていた。僕とは違っていつも元気ハツラツとしていて、 ロマンスが大好き。当時の僕以上に魔術に熱心で、いつか立派な魔術師になると努力していた。 でも今から数年前、ありすはこの観坂からイギリスに引っ越していった。彼女のご両親が、魔術師たちの総本山である《魔導書館》でより高度な研究をするため一時的に向こうに移ると決めたので、それについていかなければならないということだった。 星の輝く明るい夜、よく遊んでいた裏山の草原で、また必ず会おうと約束した。あの時の、微笑みながら涙を流した彼女の顔が、今 でも忘れられない。ありすと別れた後、僕も彼女に負けないくらい立派な魔術師になるぞと毎日勉強を頑張っていたものだ。 けれど―――― 。 ぼんやりと昔を懐かしんでいたら、それなりに時間が経過してしまっていたようだ。腕時計を見ると針は午後四時半を指そうとしている。そろそろ家に帰って、夕飯の支度をしないといけない。
「―――― ん?」
 ありすの屋敷を離れようと振り向くと、向こうから見知らぬ女性が歩いてきているのを見つけた。………… それになんか、こちらに手を振っているような。
 後ろを振り返ってみても、僕のほかに人はいないようだ。つまりは僕に手を振っているのだろう。
 するとその人は炎のようなオーラを纏い始めた…… というか、なんか炎そのものを纏っているような気がする。 全速力でこちらに向かって走ってきて、大きく飛び上がる――――
「た・だ・い―――― 」
 なにか嫌な予感がして引き下がった次の瞬間、
「まーーーーーーーーーーーーーー‼」
「ゴボォアアアアァァァァアアアア⁉」
 謎の女性が炎とともに、僕にドロップキックをかましてきたのだった。


―――― リット*ナイト―――


Day 1
砂埃 と煙で周りがよく見えない。確かに分かるのは、僕が思いっきりぶっ飛ばされたということだけだ。
「い、イタイ………… 一体僕が何したっていうのさ………… 」
 なんとか起き上がろうとすると、身体の上に何かが乗っかっているのに気付いた。
「先に自宅 うち に帰って荷物を整理してから会いに行こうと思ってたけど、そっちから会いに来てくれるなんて思ってなかったよ~。久し ぶりだね、介人!」
 靄が晴れていき、僕の上に乗っかっている人物の容姿が見えてきた。
 白と黒のモダンな洋服に透き通るような肌。黒のロングヘアーにキリッとした目つき。そして、こちらを真っ直ぐに見つめる、鮮や かな赤い瞳。この瞳と声には覚えがある。もしかして………… 。
「…… もしかして、ありすなの?」
 尋ねると、彼女は顔をほころばせてポンポンと跳ね始めた。普通に乗っかられる分には重たくないからいいけれど、お腹の上で動か れると流石に苦しい。
「そうよ、私は椿ありす。本当に久しぶりね、ざっと七、八年ぶりくらい?」
「やっぱり!観坂に帰ってきてくれたんだね、嬉しいよ!」
「うん、私もうれしい!それにしても、帰郷してすぐに幼馴染と再開できるなんてツイてるな~♪」
 彼女は先ほどより嬉しそうな顔で、より大きく跳ね始めた。このままだと胃が圧迫されてリバースしてしまう。
「う、うんそうだね。えっと、とりあえず苦しいから一回降りてほしいんだけど」
 ありすの動きが止まる。ようやく降りてくれる、と思いきや…… 。
「なにそれ、私が重たいって言いたいの⁉再会した親友に対してそんなこと言うなんてひどーい‼…… しかたない。そんな悪ーい 介人には…… お仕置きしてやるーー!」
「オグゥ⁉わ、わかったから、ぼくが悪かったから、それ以上僕のお腹をポンプにするのはやめてーーー‼」
 それからしばらくの間、僕たちは道路のど真ん中で騒ぎ続けたのだった。

・*・

 折角なので、ありすの家にお邪魔させてもらうことになった。玄関から廊下を通り、リビングまで案内されたけれど、長年留守にし ていたにもかかわらず内装はとても綺麗だった。ありす曰く、イギリスで過ごしている間に家事代行さんを雇っていて定期的に掃除し てもらっているらしい。
 ちなみにこの家の外観から察する通り、ありすの家はかなりのお金持ちである。一般的な魔術師の家はそんなことはないのだけれど、 昔ありすのご両親が何かの投資に成功して急にそうなったらしい。………… なんというか、うらやましい限りである。
「そこら辺てきとーにすわっといてー。いまお茶出すから」
 ありすはキッチンへ向かうと、イギリスから持ってきたであろう袋から紅茶のセットを取り出して、とても手慣れた様子で準備を進 める。
 昔のありすに食器を持たせると毎回家の中が大惨事になっていたのに、数年会わない間に彼女は成長していたようだ。
「それで、どうして観坂に戻ってきてくれたの?すごく嬉しいけど、イギリスの方でご両親と魔術の研究をしてたんじゃ…… 」
「ああ、そういえばまだ言ってなかったね。パパとママの手伝いもひと段落したからお休みもらったんだ~。家族でいっしょに過ごし ても良かったんだけど、ほら、もうすぐ観坂の七夕祭りが始まるでしょ?今度はいつ帰ってこれるか分からないから、この機会に帰 郷しようと思って」
 ポットにお湯を入れながら彼女は答えた。
 観坂は、国内で一番きれいに星や天の川が見える街と言われている。この時期になると、それを観に国内外からたくさんの観光客が 来るほどなのだ。それに合わせて毎年七月七日には観坂七夕祭りが開かれる。こちらも例年大盛況で、幼い頃は僕とありすもよく一緒 に行っていた。
 そのためにわざわざ帰ってきてくれたんだ………… 。
「それともうひとつ、観たいものがあるの。介人、《導星》って知ってる?」
「いーそどす?何それ、初めて聞いたけど………… 」
「百年に一度観れるか観れないかっていわれてる《神秘》で、私たちが見てるどんな星よりも大きくて、一番きれいに輝くらしいの! でね、七夕祭りの当日にちょうどそれが現れるって《書館》で知り合った人が言ってたんだ~。介人も一緒に観るでしょ、観ようよ‼」
「う、うん。もちろん観に行くけど、淹れたてのお茶持ちながら詰め寄ってこないで…… 」
 いつの間に用意し終えていたのか、カップとお茶の入ったポットをテーブルに置き、今度はお菓子も持ってきてくれた。本格的なア
フタヌーンティーの完成である。
「おお………… これはすごい。このセット、わざわざイギリスから持ってきたの?」
「うん。せっかく帰るんだもの、本場の味を介人にも味わってほしくて」
 準備が終わり、ありすが席に着く。こうやってニ人で同じテーブルを囲むのも久しぶりだ。
「そういえば、介人は魔術の勉強うまくいってるの?《導星》観終わったあとでいいからさ、また魔術対決しようよ~」
 ギクリ。
「……… えっと。実のところ、あれから全然上手くいってなくて。新しく覚えた魔術もあんまり無いんだよね。いやぁ、僕はまだまだ だなぁ…… 」
 そう言うと、ありすに大きな声で驚かれた。――― そう、僕は魔術師としてはど三流なのである。
 もともと僕は他の魔術師と比べて、魔力の生成効率が悪く、貯蓄量も少ない。改善する方法をいくつか試したが、どれも失敗してし まった。
 両親は『方法を見つけるために旅に出ます。帰ってくるまで頑張れ☆』と置き手紙一つ残して出て行ってしまった。それっきり消息 は完全に途絶えてしまったため、僕は今まで一人で魔術の勉強を続けていたのである。
 そのことを明かすと、ありすはひどく怒った様子で身を乗り出した。
 「介人のパパとママひどーーーい!私だったら絶対見放したりしないのに!わかった、私が介人を助けてあげる。なんとかして介 人の魔力を増やす別の方法、お茶飲みながら考えよ!」
「見放されてはないよ……… 多分。でも、ありがとう。ありすの面倒見のいいところは昔から頼りになるね」
 そうしてありすがお茶をカップに注ごうとした、その時―――

 ―――― リビングが大きく揺れ始めた。
 本当に何の予兆もなく、大きな地震がやってきた。
 僕とありすは急いでテーブルの下に隠れる。アンティーク調の脚部を掴むも、頼りなさそうに鈍い音を立てている。 釣り下げ式の照明からも嫌な音がする。ありすが用意してくれたティーセットは床に転げ落ち、無残な姿になってしまった。
「何これ、何が起こってるの⁉」
 ありすが何か叫んでいるようだが、それすら聞こえないほどの騒音が鼓膜に刺さる。テーブルの脚は今にも折れてしまいそうだ。 今度は床の一部が盛り上がったかと思うと、そこから巨大な触手のようなものが生えてきた。
「な―――――――― 」
突然すぎる出来事に、言葉が出ない。 緑色の触手はうねりながら室内に侵入してくる。置いてあったインテリアを手当たり次第に荒らした後、ゆっくりとその動きを止めた。
「「………………………………………… 」」
地震が治まったのを確認して、ゆっくり外へ出る。
「こ、これはひどい………… 」
 凄惨、とはまさにこんな状況のことを指すのだろう。
 ほとんどの家具や食器は粉々に砕けちっていて、床や天井は穴だらけ。触手は床から窓、廊下にまで貫通しており、この家はほぼ完全に破壊されてしまっていた。
「う、うわあああああん!おうちがぁ、私たちのおうちがめちゃくちゃになっちゃったあああああああ‼パパとママになんて説明 すればいいのーーーーーー‼」
 ありすが膝から崩れ落ちて号泣してしまった。帰国した初日に実家が壊されたのだから無理もない。 慰めるためにありすの方へ動こうとすると、何か違和感があるのに気付いた。少しだけ、空気が淀 よど んでいるような。
「これは、魔力?その触手みたいなのから漏れ出てるみたい…… 」
「え?…… たしかに、介人の言う通りみたいだね。というか、よく見るとそれって触手じゃなくて植物なんじゃない?」
 ありすと一緒にそれに触れてみる。植物特有のザラザラとした感触だ。巨大であるだけに毛状突起も大きいのか、触っているとなん だかゾクゾクしてくる。それに、なんだか具合も悪くなってくるような…… 。
「これ、明らかに魔術師が関わってるね。何かの植物を誰かが意図的に急成長させたみたいだ。でも一体誰がこんなことしたんだろ… ……… って、ありす?なんか様子が変だけど、大丈夫…… ?」
 植物に触れてる右腕に黙って魔力溜めてるの怖いのですが。
「ああ、気にしないで。おうち壊されてムシャクシャしてきたから、コレ今から爆破させようとしてるだけだから☆」
「待ってそんなことしたら僕たちもろとも消し飛んじゃうよ⁉そんなことより、早く原因を突き止めた方がいいと思うんだ!」
 爆発寸前のありすをなんとか宥めた後、僕たちは植物がどこから生えているのか調査することにした。

・*・

外に出てみると、そこには驚きの光景が広がっていた。 まさに、大災害。そこかしこに巨大な植物が伸びている。道路からせり上がっているだけでなく、ガードレールや標識にも絡 から まって いて、今にもバキッと折れてしまいそうだ。 ありすの家の近所からは悲鳴が聞こえてくる。奇跡的に、周りの民家はそこまで被害を受けていないようだが、ほとんどの人はこれ から避難所へ向かうことになるだろう。 麓 ふもと の方にまでは植物は伸びていないようだ。被害を受けたのは、比較的裏山に近い地域だけらしい。 「この辺りしか被害を受けてないとすると、原因は裏山にあるのかな…… ?」 「きっとそうだよ、間違いない!よくも私たち家族の大切な家をめちゃくちゃにして………… !絶対に犯人見つけて、きつーいお 仕置き食らわせてやるんだから‼」 ありすの赤い瞳が怒りに燃える。それと同時に、彼女の周りに高濃度の魔力が溢れてくるのを感じる。もともと感情的になりやすいところはあったけれど、ここまで激怒している姿を見るのは初めてだ。 徐々にありすの魔力が熱を帯び始める。このまま隣にいると、火傷をするどころか服まで焼けてしまいそうだ。 「介人、裏山に行こう。植物から漏れてる魔力をたどっていけば、犯人がいる場所にたどりつけるはず!」 こちらの返事を聞かずに、ありすは裏山へと駆け出す。僕も慌ててその後を追うのだった。 街に現れたものよりも巨大な根が山道の入り口を塞いでいる。しかも何本も複雑に絡まっていていて、犯人の『絶対に通さない』という意思を感じることが出来る。
 一体どうしたものかと考えていると、突然ありすがどこからかステッキを取り出した。
「こんなのパッパと焼き払ってやるんだから!少し下がってて、介人。ちょっと魔術使うから」
 言われた通りに引き下がると、ありすはステッキを植物の方に向けてその右腕に魔力を込め始める。高温の魔力がステッキの先端を 包み込み、火炎放射となって目の前の植物へと放たれる。
 すると、まるで炎を避けるかのように植物たちが蠢き、閉ざされていた道が開いた。それだけでなく、山道の奥に存在していた植物 も一斉に道を開ける。
「ふふん、ちょっと炙っただけで道を開けてくれるなんて。やっぱり植物なんだから、火には弱いみたいだね!」
「ちょっと炙る、ね…… 。でも、植物に焦げた跡が見当たらないのはおかしいな。奥の道が開いたのも変だし一応警戒して……… って あれ」
 気づくと、ありすは既に山道を猛スピードで登っていた。火の点いたステッキをかざしながら走るのはやめてほしい。
 植物を追って山道をはずれ、熱帯雨林のような森の中を進んでいく。ありすが先行する先では、何もしなくても植物たちが道を開け ていく。まるで、『このルートを進んでください』と案内をされている気分だ。
 ………… しかしながら、先ほどから通っているこのルートには覚えがある。僕たちが昔使っていた秘密の道とほとんど同じなのだ。
 もし僕の予想が正しければ、この先には――――

 しばらく走り続けて出口を出ると、やっぱりそこは、僕が予想していた場所だった。
 幼い頃ありすとよく遊んでいた、木々に囲まれた広い草原。二人で魔術の出来栄えを競ったりもした場所であり、あの夜『また会お う』と約束した場所でもある。
 そんな思い出の場所の奥に、この騒動の元凶がそびえ立っていた。
 ―――― 複数のツタが絡み合い、要塞と化した巨大植物。その影は、僕たちを簡単に飲み込んでしまいそうなほどの規模だ。頂点には赤い蕾があり、周囲の地面からは街に出没したのと同じ、根に当たる部位がイカの足のように動いている。そこにもいくつか蕾が見られた。
「…… これはもう、植物というより怪物だな」
 先に到着していたありすは、敵を見る目でその怪物を凝視している。すでに戦闘準備は整っているようだ。
「ちょっと!私たちの大切な場所にこんなの放置した挙句に、観坂の町と私のおうちをめちゃくちゃにしたのは誰⁉怒らないから 出てきなさい‼」
「こんなの、とは失礼ね。この子には《やんちゃ坊主》っていう、素敵な名前があるのだけれど」
 怪物の後ろから、女性がこちらに歩いてくる。高価そうな分厚いコートを身に纏い、幅広の赤いキャペリンを被った高身長の女性だ。
「初めまして、見習い魔術師さんたち。私は青棘瑠璃菜 。この観坂の街で魔術の研究をしている者よ。あなたたちのお名前は?」  顔を帽子で隠したまま彼女は言った。この人から魔力はさほど感じない。一応この人が犯人であるようだが…… 。
「…… 名乗るほどの者じゃありません。それよりも、なんでこんなことをしたんですか?街をあんなめちゃくちゃにして………… 何 が目的なんですか?」
「あなたたちには関係のないことだから、知る必要は無いわ」
 答えるつもりのない彼女に、ありすが食ってかかる。
「関係大アリなんですけど⁉あなたのアンブリブリのせいで私の家が壊れちゃったんですけど!どーやって賠償してくれるのよ ーーーー!」
「……… アンブリエントよ。そんな下品な名前ではないわ。でも、そうね。あなたのご自宅を破壊してしまったことは謝るわ。同じことが二度と起こらないよう、私も気を付けると約束しましょう」
「そ、そう?だったら許してあげてもいいけど―――― 」
「いや、それだとほとんど何も解決してないと思うんだけど」
 ハッと我に返ったありすは、火が点いたままのステッキを青棘さんの顔の前に突き付ける。火に照らされて、彼女の口元だけが露わ になった。………… 不気味なほどに、美しい微笑だ。 「とにかく!そのアンブリ弁当ってやつ、早く片付けてよ!このままだと山から遠いところまで被害が出ちゃいそうだし、街の人も迷惑でしょ!」
「アンブリエント。二度も間違えないでくれる?それと、申し訳ないけれどこの子はこのままにさせてもらうわ。街の人たちには、しばらく放っておいてほしいと伝えてほしいのだけれど」
 いや、流石にこれ以上の被害が出るのは看過できない。ここで何とか説得しなければ、観坂の街が破壊し尽くされる可能性がある。
「そこを何とかしてもらえませんか?ほら、僕たち同じ魔術師じゃないですか。実力は確かに無いけれど、これも研究の一端なら、 僕たちにも協力できることがあると思うんです」
 青棘さんが少し驚いた表情でこちらに顔を向ける。こちらの話に興味を持ってくれたらしい。
「あら、優しいのね。見ず知らずの私に力を貸してくれるなんて。そうね、あなたたちにも出来ること、何かあるかしら」
 青棘さんは首を傾げながら歩き始めた。
 ……… よかった。少し危ない人なのかと思っていたが、話せば案外分かってくれる人だったらしい。
 出来れば争いは避けたい。彼女の研究に協力しつつ、街の復興の手伝いもしてもらえたら、事態は丸く収まるかもしれない。 僕たちから少し離れたところで立ち止まり、青棘さんが口を開く。
「ふむ…… じゃあ、こうしましょう」
そうして彼女が出した提案は、

「―――――― 魔力をたっぷり宿した、その娘を私にくださらない?」

「え―――― 」
「… !介人、危ない‼」
 瞬間、地面が光りだしたかと思うと、ものすごい勢いでその地面ごと打ち上げられた。足が地面から離れ、身体が宙を舞う。まずい、 このままだと地上に激突する―――― !
「くっ………… !」
 右の掌に魔力を収束し、弾の形に練り上げる。
(―― 〝撃て〟‼―― )
 脳内で呪文を唱え、作成した魔弾を地上に向けて放つ。 弾がぶつかって生じた余波を受け止めて、なんとか着地に成功した。 「介人、大丈夫⁉」
 ありすがこちらに駆け寄ってきてくれる。彼女は先ほどの攻撃をしっかり回避したようだ。
「う、うん、大丈夫。我ながらナイス瞬発力だったよ…… 。ありすこそ、無事で良かった」
「あら残念。打ち上げる人を間違えてしまったようね。辰 たつ 巳 み 、あなたが狙うのはこの娘の方よ。次は外さないでね」
 青棘瑠璃菜は、先ほどとは違って魔力を存分に放ちながら、恐ろしい笑みを浮かべている。
…… 迂闊だった。上手く説得すれば解決できると思って油断していた。そのせいで魔術が発動した時も反応が遅れてしまったし、完全に自分のミスだ。
「ごめん、ありす。僕がうっかりしてたばかりに…… 」
「もう、しっかりしてよ!失敗する度にクヨクヨするところは変わってないんだから!それより、あの人さっき誰かに話しかけて たよね。他に仲間がいるみたい…… 」
「辰巳、そこからだとよく見えないでしょう。もう少しこちらに来なさい」
「は、はい、瑠璃菜さま………… 」
 《やんちゃ坊主》の後ろから、今度は茶髪の少年が肩をすくめながら現れた。あの子がさっきの魔術を発動したのだろうか?
「えっと…… あの女の人を狙えばいいんですよね…… ?さっきは間違えてしまってごめんなさい…… 」
「大丈夫よ、一度の失敗で怒ったりしないわ。落ち着いて、慎重に狙いなさい」
 辰巳と呼ばれた少年は、顔を下に向けながら小さな声で話している。…… ちょっとだけ親近感を感じてしまった。
 彼は小学生くらいの体格をしていて、一見するとひ弱そうに見えるが、その身体から溢れる魔力の量は尋常ではない。彼の《基盤》 の性能は相当高いようだ。
「じゃ、じゃあいきます。えっと、お姉さん、ケガさちゃったら…… その、ごめんなさい」
 辰巳が大きな杖を地面に突き立てると、ありすが立っている所を取り囲むように黄土色の文字が浮かび上がる。さっき僕が喰らった のと同じ魔術を使うつもりらしい。
「む、そう簡単に捕まるもんですか!介人、あの男の子には悪いけど、ここは二人で協力してあいつらをコテンパンにしちゃお!私 は青なんとかって人倒してくる!」
「え、ちょっと本気なの………… ってもう行っちゃったよ」
 ありすは辰巳の魔術を上手く躱しながら、青棘の方へと走っていった。
「あ、ちょっと、そんなに動かれると狙いが………… うぅ…… 」
 辰巳はありすに魔術が当たらないと諦めたのか、こちらに向き直って杖を構える。ありすと青棘瑠璃菜はもうすでに戦闘を始めてし まっている。………… この子は恐らく年下なのだろうが、どうやら戦うしかないらしい。
「え、えっと…… 瑠璃菜さまに加勢する必要はないと思うので、お兄さんの相手をしますね。…… お兄さんの魔力量はぼくより少ない みたいだし、これなら、負けることはないかな」
 え、いま僕の実力を見抜かれた上に、ナチュラルにディスられた?
 ………… これは戦わないと、僕の小さなプライドが底辺に落ちる。そんな気がした。
「よし分かった、戦おう。君の言う通り、僕は魔術師としては弱い方だからお手柔らかにお願いするよ」
 地面に落ちていた石を何個か拾い上げて、内気な魔術師と対峙する。
黄昏に染まる空の下、魔術師たちの戦いが始まった――――


          ・*・


 ―――― 魔術を使う際に必要なのは二つ。
 一つは、魔力の生成・貯蔵・出力を司る《魔力基盤》。もう一つは、魔術の骨格となる呪文の構成に使用する《魔術言語》だ。
 まずは、自身の身体に刻まれた無数の《魔術言語》を並べて呪文を構築する。必要な文字を一つずつ丁寧に揃 そろ えて、できたものを固定する。
 次に、《魔力基盤》を起動して僕の生命力を魔力に変換する。その魔力をさっき作った呪文に通すことで、この呪文は術式としての機能を持つようになる。
 そして右手の中の石を握りしめて具体的なイメージを思い浮かべると、右腕に藍色の呪文が浮かび上がる。握り拳から光が零れだす。
(―― 〝剣と成れ〟―― )
 呪文を脳内で詠唱して手を開く。石が宙に浮いて、その表面から青色の結晶が生えてきた。淡い輝きを放ちながら変形して、やがて 一本の剣へと姿を変えた。
「黙読式の結晶魔術、ですか。媒体となる物質に魔力を通して、自分の好きな形に結晶化することができる魔術ですね。か、かなりクオリティーの高い剣…… かっこいい、です」
「そ、それはどうも。それじゃあ、行くよ…… !」
 結晶の剣を構えて、小さな魔術師のもとへと駆け出す。 辰巳は再び杖を突き立てて、大地に魔力を注ぎ込む。彼の周囲に無数の《魔術言語》が刻まれ地面が大きく震えだす。
「――― 〝挖土正方 しかくになあれ 〟」
 彼が呪文を詠唱すると、巨大な正方形の形にくりぬかれた地面が、いくつも空中に浮かび上がる。あれは詠唱 リサイト 式の地盤魔術だろうか。
 土木工事を行う際の土台を造るために編み出されたものが起源であるとされているが、最近では使われる機会がほとんど無くなった と、むかし何かの本で読んだ記憶がある。彼はその魔術を攻撃魔術として使っているようだ。
 大きな石礫が、流星群のように落ちてくる。すぐさまポケットの中からいくつかの小石を取り出して、魔力を流し込む。
(―― 〝槍と成れ〟―― )
 黙読して放り投げた石が、小さな槍へと変化する。そして人差し指に溜めた魔力を、槍めがけて解き放つ。
 ミサイルと化した結晶の槍が流星たちを迎撃していく。時速二百キロメートル超のミサイルは、いとも簡単に流星を土くれへと変え ていった。
「そ、そんな…… あんなに大きいのを簡単に…… 。それなら………… 〝挖土三棱さんかくになあれ〟」
 再び呪文を唱えると、今度は正方形だけでなく三角柱まで現れた。先ほどよりも大きくなった礫が、こちらに向かって落ちてくる。
 ――― 魔術の規模は魔力の量に比例する。魔力を多く溜め込める人ほど、つまり《魔力基盤》の容量が大きい人ほど、魔術が作用す る範囲が広くなり威力も大きくなる。あの礫の大きさを見るに、辰巳も同じようなものだろう。
 一方、こちらの魔力量はもっぱら平均以下で、単純な物量では太刀打ちできない。手持ちの石を確認しても、あの大量の礫をどうに かできるほどの数が残っていない。ここで立ち止まるより、出来るだけ前に進むべきか…… !
「あ、こっちに走ってきました…… 。で、でも、いくら全力で走ったって、ここに着く前につぶされちゃいますよ…… ?」
 あの子の言う通りだ。このまま走り抜けたとしても、彼のもとにたどり着くのは難しいだろう。 ドゴン、と大きな音を立てて、いくつもの礫が落ちてくる。逃げ道が消えていく。落ちた衝撃で何度もバランスを崩し、ついに転ん でしまった。 「しまった…… !」
 立ち上がろうとするも、もう遅い。あの子は本気だ、矛先に迷いを感じられない。今までで一番の物量を以って、僕を確実に押し潰そうとしてくる。
「これで、もうおわりですね…… さようなら、です、お兄さん」  もうまもなく衝突する。覚悟を決めるべきかと思ったその時―――― 視界の端にあるものが映った。
 地面と衝突した後の物体。それからは魔力を感じない。目の前に迫る物体からも、術者との魔力的繋がりをあまり感じないことに気 が付いた。
「……… !」
 無我夢中で剣の切っ先をそれへと掲げる。注がれた魔力は結晶の中で乱反射して、圧縮されて、洗練されていく。 「これで、どうだ!」 〝貫け〟と脳内で詠唱する。剣先から光が迸り 、磨かれた魔力はレーザービームとなって、落ちてくる礫を貫通した。
「え…… な、なんで―――― 」
 最も簡単な術式である魔弾をさらに加工して魔光線へと変える、至ってシンプルな黙読式魔術。
 単純な物量でいえば彼の魔術には到底及ばない。がしかし、彼が造り出した物体には、形を維持するためなのかその表面にしか魔力が通っておらず、中身には魔力はほとんど浸透していなかった。だからこそ、あの物体は大きくはあるものの頑丈ではなく、加工した魔弾を当てるだけで割と簡単に破壊できた、ということだ。
 
……… 念のために、最初に剣を作って正解だった。光線を作る媒体が手元に無ければ、今ごろ僕はペッチャンコになっていただろう。 破壊された礫は、僕たちの頭上にあられのように降り注ぐ。辰巳くんが必死に頭を守っている隙に、余った石を使って盾を作った。 その盾で自分の頭を守りながら辰巳くんのもとに走り、彼の頭上にも盾をかざす。
「…… ぁ、おにい、さん………… 。ご、ごめんなさい!ぼくはどうなってもいいから、瑠璃菜さまだけは殺さないでください…… !」
 辰巳くんが僕の脚に縋りよってくる。自分よりあの人の心配をするとは、幼いながらなんという忠誠心だろう。
「いや、別に君のことをどうするつもりもないし、瑠璃菜さんも殺したりはしないよ。…… でもあの人を放っておくと、この街の人た ちに迷惑がかかるし、七夕祭りも開かなくなっちゃう。君はそこで大人しくしてて。ありすの加勢に行ってくるよ」
 土砂の雨が止んだのち、僕は二人が戦っている方へと走り出した。

・*・

 空がだんだん暗くなっていく。とんでもなく大きな植物を背に、青棘瑠璃菜は不敵に笑って待ち構えていた。
「おーーかーーくーーごーーーー‼」
 走りながらいくつもの火球を放つ。得意の発火魔術で生み出された炎は軌道を描いて、彼女のもとに降り注いでいく。
「ふむ……… 」
 彼女は左手をゆっくり掲げると、空中に無数のバリアを展開してすべての火球を受けきって見せた。
「そんな見え見えの軌道では簡単に防げてしまうわよ?魔力の量は常人以上でも、技術の面ではまだまだのようね」
「ぐ、ぐぬぬぬぬ………… !だったら、これならどう⁉」
 立ち止まり、ありあまる魔力をステッキへと流し込みながら軽やかに舞ってみせる。こうすると、魔力の流れがよくなって、通常よりも高い威力の攻撃ができるのだ。パパいわく、こういうタイプは珍しいらしい。
 呪文を組み立てる。舞う身体を包む熱は文字通り、その呪文に火を点ける―― !
「くらえーー!〝火華よ、咲け〟‼」
 圧縮された火球が高速で放たれた。鮮やかな火花を散らしながら、新幹線みたいに一直線に飛んでいく。この速さと魔力の密度なら、 そう簡単には防げないはず!
「――― 《やんちゃ坊主》」
 無事に着弾するかと思ったその時、彼女の目の前に巨大な壁が現れた。火球は轟音をたてながら爆発し、バチバチと音を残す。どう やら壁の正体は、あのアンブリ弁当の根っこらしい。
「ふふん。植物を防火壁代わりに使うなんてバカじゃないの~?いくらそんなに大きいからって、魔術で作り出した炎を防ぎきれる わけ―――― って、あれ?」
 アンブリ弁当の根っこが煙を払いのけた。それらは焼けてないどころか、その表面には焦げ跡ひとつついていない。まるで何事も無 かったように、元気な様子でウネウネと動き始めた。
「ここまで来る道中で気づかなかったの?この子は他の植物とは違う。見ての通りとても丈夫で、あらゆる物理的・魔術的攻撃を受 け流せる。ましてや魔術の炎なんて効くはずがないし、宿った魔力はいい栄養源になる」
 そ、そいえば、たしかに介人が何かおかしいって言ってたような………… 。
 というか、さっきあの人『魔力が栄養になる』って言っていた。つまりあの人は、この街にあるすべての魔力をあの植物に吸収させるつもりなのだろうか。…… でも、いったい何のために?
「しかしながら、やはりその魔力量は尋常ではないわね。この子のいい養分になりそうだわ…… 」
 青棘瑠璃菜の声色がおぞましいものに変わる。根っこたちの動きが止まり、その先端をこちらに向けてくる。
………… さすがの私でも、この後どんな展開になるのかは分かる。何とかしないと、とんでもない目に遭わされてしまう…… !  
「こ、このぉ………… !」
 自分の周囲に炎の魔法陣を展開して、再び踊りだす。今度はさっきよりも速く、大きく舞う。
 身体を巡る魔力が高熱をまとう。彼女と巨大植物の周りをいくつもの紅い呪文が取り囲むと、その文字の上に炎のバラが咲き誇った。
 ――― 魔力の宿った炎を直接ぶつけるのはダメだってわかってる。けど、今の私にはそれ以外の攻撃手段はない。
 それでも、さっきより火力を高めれば、もしかしたらワンチャン上手くいくかもしれない……… !
「〝火華よ、散れ〟‼」
 詠唱と同時に、花びらが一斉に散る。散った花びらは弾幕となって、彼女たちの頭上に降り注いでいく。
 一発ごとの威力はさっきの火球よりも少し低いけど、数と密度の暴力で火力をカバーすれば少しくらいはダメージがあるはず。いや、 あってほしい…… !

 …… 攻撃が終わる。一体どうなったんだろう………… 。
 すると突然、煙の向こうから《やんちゃ坊主》の根っこが現れて、私の身体に巻き付いてきた。そのまま空中へ持ち上げられて、こ ちらを見上げる青棘瑠璃菜と目が合う。…… 今まで帽子に隠れて見えていなかった緑色の瞳は、心底嬉しそうにこちらを見つめていた。
 案の定というか、あの巨大植物にもほとんどダメージを与えることができていなかった。あれでも私の最大火力のつもりだったのに、 ワンチャンはあり得なかったみたいだ。
「捕まえた。思っていたよりは簡単だったわね。エルリアの手を借りるまでもなかったわ。」
「ありす‼」
 介人がこちらに走ってくるのが見えた。あっちはなんとかなったみたいで、よかった。
「これで条件は、十分すぎるほどに揃ったわ。あとは《導星》が現れるのを待つだけね」
「え…… イー、ソドス…… ?どうしてそれを―――― 」
 知っているのか、と尋ねようとした瞬間、青棘瑠璃菜に魔術をかけられた。介人が何か叫びながらこちらに走る姿を見つめながら、 私は意識を失った――――


・*・


 魔力切れでヘトヘトの身体に鞭を打って、なんとかありすのいる場所までたどり着いた。魔力生成効率の悪い僕にとっては、たった 数分の戦闘でもかなり疲弊してしまう。
 ありすは、あの巨大植物によって捕えられていた。青棘瑠璃菜との戦闘に負けてしまったのだろう。
「そんな、ありす‼」
 声をかけても返事がない。どうやら気を失ってしまったらしい。
「なるほど、辰巳を倒したのね。あなた程度の魔術師に突破されてしまうとは…… 情けない子」
 僕の後ろの方を見つめながら彼女は呟く。初めて見る彼女の翠眼 すいがん は、どことなく悲しそうに見えた。
「―――― ありすを、返してください」
「悪いけれど、それはできない相談ね。この娘は《やんちゃ坊主 》の大切な魔力源になる。この街に埋まっている魔力だけで済ませる なら一週間ほどかかる計算だったけれど、これならあと二日あれば準備が整いそうね」
 頂点にある蕾が開き、ありすはその中へと入れられてしまった。 蕾がバクン、と閉じる。それを見た途端、もう、何も考えられなくなった。
「ッ…… ありすを――― 返せ!」
 剣を構えて走りだす。
 彼女が何をしようとしているのかは分からない。でもそんなことよりも、今はなんとかして〝ありすを助け出さないと〟―― !
《魔力基盤》をフル稼働させる。流れる魔力は、血液の流れのようにはっきりと感じ取れた。 一歩を踏み出す。およそ二十メートルの距離を一瞬で詰める。
「―――― ⁉」
 驚いた彼女の前に巨大植物の根が立ちはだかり、結晶の剣が突き刺さった。
「ば、馬鹿な…… ⁉」
 向こう側から青棘瑠璃菜の焦りの声が聞こえた。刺さった剣を引き抜いてもう一度振り下ろしてみる。ザクリ、と音をたてて、根の半分ほどまで剣が通った。
「!これなら!」
「や、やめなさい…… !〝我が子よ、あの男を捕らえなさい〟 !」
 後ろから別の根が生え、僕の身体を締め上げた。目の前の壁がなくなり、少し汗ばんだ様子の青棘瑠璃菜がこちらに歩み寄ってくる。
「一体どんなタネを使ったは知らないけれど…… あなたも、存外危険なのかもしれないわね…… !」
 彼女の左手が緑色に光る。魔弾の構えだと気付いてもがいてみるが、拘束が固くて抜け出せない。
「くっ、離せ…… !ありすを返せ!」
「そう、そんなにあの子のことが大切なのね。安心なさい。今ここで果てれば、すぐに会えるようになるわよ」
 左手の輝きが最大になったその瞬間――― どこからか、金色の魔弾が飛んできた。
「な、アンブリエ―――― きゃあ!」
 とんでもない弾速で飛んできたそれが彼女の左手に直撃する。それと同時に僕の拘束も解かれ、植物の根が青棘瑠璃菜に覆いかぶさる。
「おい、こっちだ!一旦退け!」
 何が起きているのか分からない中、草原の入口のある方角から男性の声が聞こえた。 …… でも、これはチャンスだ。今ここでありすを助け出せれば――― !
「馬鹿、何やってる!あの化け物の餌食になりたいのか⁉」
 その声で我に返って周りを見ると、《やんちゃ坊主》の根がこちらを狙っているのに気が付いた。先ほどの攻撃で僕は魔力を使い果 たしてしまったらしく、これ以上魔術を使うことも出来ない。今の状況ではありすを助け出すことは不可能だろう。
「くそっ………… !」
 ありすに背を向けて走り出す。あの植物は威嚇してくるだけで、逃げる僕を追撃することはなかった。
 入口にたどり着くと、猟師のような恰好をした男性が待ち構えていた。
「あ、あなたは…… ?」
「話は後だ。とりあえずここを出るぞ」
 僕はその男性に言われるまま、山道を後にした。


Day 1.5

 無事に山道を抜けて、広い道路に出る。後ろから誰も僕たちのことを追ってきていないのを確認すると、僕はその場に倒れこんでし まった。
「お疲れさん。未熟ながらよくぞあそこまで戦えたもんだ、感心したよ」
 男性が僕をねぎらってくれる。年季の入った狩猟服と猟銃、乱雑に切られた銀髪と整った髭、何かを見据えたような碧眼 へきがん とがっしりした身体を持っている。…… どうやら、この人が僕を助けてくれたらしい。
「えっと、さっきは助けていただいてありがとうございました。あなたは一体…… ?」
「ん、ああ、そういえばまだ名乗ってなかったな。初めましてだな、白道介人。オレはマックラード・マイディア。見ての通り、さす らいの魔術銃士さ」
 魔術銃士って言いづれえな、とその人は可笑しそうに笑う。
 マックラード・マイディア。どこかで聞いたことがあるような―― というか、どうして僕の名前を知っているのだろう?
 …… いや、今はそんなことより、早くありすを助け出さないといけない。身体をなんとか起こして、山道の方へ振り返る。 「おいおい、来た道戻ってどうするんだ。今のお前さんの状態なら、あっという間にパックリいかれちまうぞ?」
 マイディアさんが僕を引き留める。
「そんなの分かってます。でも、ありすを助けないと…… このままだとありすが……… !」  
 空っぽになった《基盤》に魔力が込み上がってくるのを感じた。マイディアさんは少し驚いた表情をして、ゆっくりとこちらに歩み寄ってくる。
「…… なるほどね。うむ、お前さんの気持ちはよぉく分かった。でもほれ、こんな体じゃ山道すら登りきれんだろう」
 チョイ、と指でつつかれると、積み木みたいに倒れてしまった。やっぱり、体力が限界を迎えていたみたいだ。
「仕方ねぇなぁ。よし、とりあえずオレが野宿してるトコで治療してやるよ。歩けるか?なんなら、オレがおぶってってやろうか」
「お、お気遣いなく……… 肩を貸してくれればなんとか歩けますから」
 マイディアさんのからかいに戸惑いつつ、彼の野宿拠点まで案内してもらうことにした。


・*・


「七夕祭りの日に天の川と《導星 イーソドス 》を見る約束か…… 。ハッハッハッハ、お熱いねぇ!ラブラブじゃねぇか!」
「ちょっ、静かにしてください…… !近所迷惑ですよ…… 」
 日はすっかり沈んで、街のなかはいつも以上に静かになった。簡素なつくりのテントの中、いま僕はマイディアさんに回復魔術で治 療してもらっている。それはとてもありがたいんだけど、僕が何か話す度に余計な言葉を返してくるのはやめてほしい。

 ここまで来る途中で、マイディアさんについていろいろ聞くことが出来た。
 この人はもともと《魔導書館》に所属していて、魔術兵装――― 魔力を利用した武器の研究と開発を行っていたそうだ。彼が持っている猟銃のような兵装も彼の発明品の一つなんだとか。しかし今から数十年前、研究の方針が《書館》の上層部と合わなくなり、それに怒ったマイディアさんはストライキを実行。それが 原因で《書館》から追放され、今は放浪の旅を続けている、ということだった。 マイディアさんは外国の人と話す際は翻訳魔術を使っているらしく、あんなふうに日本語をペラペラ話せているのはそのお陰なのだという。
…… ちなみにこの人は、住宅地の中にある空き地に勝手にテントを張っていたりするのだが、助けてもらった恩義があるためここで は目をつむることにする。

「治療、ありがとうございました。もう一度あの山に行って、ありすを助けてきます」
「待て待て待て。何もそんなに急がなくたっていいだろう。明日も平日だし、お前さんにも学校があるんじゃないのか?あの娘もす ぐに喰われるわけじゃない。学校が終わってから、夕方にでも助けに行けばまだ間に合うさ」
 意外と真っ当な理由で僕を引き留めるマイディアさん。彼の言うことにも一理あるが、学校なんかより彼女の命の方が最優先だ。
 「それでも考えは変わらないのな。……… ハハハ、お前さんのその心意気、すごく気に入ったよ。ちょっと待ってな、いいもの持って きてやる」
 そう言うと、マイディアさんはテントの外から何かを持ってきた。表紙がボロボロの、漫画の単行本くらいの大きさの本だ。
「?これは、魔導書?」
「介人、お前さんがあの娘を助けたいと願う気持ちは、お前さんの最強の武器になるかもしれん。この魔導書はオレのコレクションの一つでな、古ーい時代にいたかもしれないとある男の物語が書かれた本だ。今のお前さんには、これが必要かもしれんと思ってな」
 物語系の魔導書なんて珍しい。一般的な魔導書は、魔術の内容や呪文の構成、それらを分かりやすく解説するための挿絵が載ってい るようなものがほとんどだ。
 しかしそういった本だと、特に小さな子供にはうまく理解できなかったりする。そんな子供たちのために比較的最近作られたのが、 物語系の魔導書である。ストーリーの合間に魔術の解説を挟むことでよりよい理解につながる、らしい。僕は昔から一般的な方を読ん できたから、よく知らないけれど。
「えっと、子供向けの本を渡されても、なんですけど…… 。でも、どうしてマイディアさんがこれを?」
「おう。これはな、オレが《書館》から追い出されたときにくすねた物さ。世界で一冊しか残ってない原本だったみてぇだが、オレを 追放したヤツらへの嫌がらせには丁度よかったからな!フッフッフ、ホントざまぁねぇぜ」
 ………… それは、貰っても大丈夫なのだろうか。今ここで貰ったら、僕も共犯になってしまうのではないのだろうか。
「ま、オレが持ってても宝の持ち腐れだしな。遠慮なく受け取ってくれ」
 貴重な本を強引に押し付けられてしまった。やだなぁ、事が終わった後にこの本をどうするか考えないとなぁ。
「あ、ありがとうございます…… 。でもこれくらいのボリュームなら、すぐに読み終わっちゃいそうだ」
「そうだな。にしてもこの本かなりボロっちいよなぁ。他のヤツらも『これは貴重だ』とか言っときながら何かの資料にすることもな かったし、コレ本当に価値なんてあるのかねぇ」
 勝手に盗んだ挙句に第三者に手渡しておいてそんなこと言わないでほしい。
「ま、今日はとにかく休め。睡眠取らねぇと魔力も回復しねぇし、お肌にも悪いぞ」
「そうします。でも、やっぱり明日は学校休んで、この本読んでから助けに行こうと思います。……… でも、それで間に合うのかな」
 心配する僕の肩を、マイディアさんが優しく叩く。
「大丈夫だよ。陰から見た感じだと、あの娘の魔力の生成効率は相当なもんだ。あの化け物に魔力を喰われ続けてるとしても、それを 上回るスピードで魔力を生成し続けるだろうさ。青棘瑠璃菜が言っていた通り、二日以内に助け出せれば問題ない」
 マイディアさんはにっこり笑って親指を立てる。その顔を見ると、今までの緊張が解けて心が少し楽になった気がした。気がつくと、夜もだいぶ深くなってきていた。流石にこのまま泊まらせてもらうわけにはいかないので、一度、僕の家に帰ることにした。 マイディアさんは明日の朝にここを発ってしまうらしい。恩人とのお別れの時が来た。
「あの、今日は本当にありがとうございました。――― 一つ聞きたいんですけど、どうして初対面の僕にここまでしてくださったんですか?」
 去り際に気になっていたことを尋ねる。マイディアさんは少しキョトンとした様子で答えた。
「さっき言わなかったか?お前さんの心意気にオレは感動した。だから、まぁ、ちょいと手助けしてやろうかなって思っただけさ」
 そう言って、マイディアさんは右手を差し出す。
「本当はもうちょい助けてやりたいんだがなぁ、明日は知り合いと会う約束しちまってるからな。まぁなんだ、恋人救出頑張れよ。ただし、いのちだいじに、な」
「こ、恋人じゃないです、幼馴染です!まったく、最後までからかわないでくださいよ…… 」
 お互いに握手を交わす。彼の掌は暖かくて、とても心地よかった。
「それじゃあ、またどこかで。道中気を付けてくださいね」
「おう、またな」
 空き地を出て帰路に就く。
 彼からもらった本を抱きかかえて〝ありすを必ず救い出す〟と、改めて決意したのだった。


・*・


 負傷した左手の治療が終わる。先ほど取り込んだ、ありすという少女の魔力を利用したので《やんちゃ坊主》の傷もあっという間に 完治していた。改めてこの少女の《基盤》の性能の高さを実感する。
「る、瑠璃菜さま……… おからだは大丈夫ですか?ご、ごめんなさい…… ぼくがあのひとを、あ、足止めできなかったから……… ぼ くがもっと、しっかりしてれば…… !」
 茶髪の少年――― 倉内辰巳が前髪で隠れた瞳から涙を流す。昔からこの子は、何かしらの失敗をするとすぐに泣いてしまう。それな りの時が経って精神面でも成長していたと思っていたが、立派な魔術師になるにはまだ時間がかかりそうだ。
「もう、そんなことで泣かないでっていつも言っているでしょう?それ以上泣くのなら、またメニューの内容増やしてしまうわよ」
「あ、も、もう大丈夫です!なんだか涙が止まっちゃったみたいです!」
 ……… やれやれ。手のかかる子だこと。
「ルリナさま、見回りおわった。このあたり、あいついなかった。追う?」
 辰巳の頭を撫でてやっていると、金髪の少女――― エルリア・ポラレントが帰ってきた。
「あらエルリア、ご苦労様。今夜はもう遅いから追跡しなくても大丈夫よ。朝になったら探し始めましょう」
「うん、わかった。……… ところで、なんでタツミはルリナさまになでなでしてもらってるの。きょうも大したこうせきあげてないくせに」
「うっ……… べ、べつにいいでしょ…… 。たしかに今日もしっぱいしちゃったけど、ぼくだってがんばったんだから、な、なでなでく らい――― 」
「いままでルリナさまに一度もこうけんできてないお前に、なでなでしてもらうけんりはない。それにくらべて、きょうのエルはがん ばった。《やんちゃ坊主》をうえるさぎょうを手伝ったし、みまわりもやった。だから、エルには頭をなでてもらえるけんりがある」
「植えるのはぼくも手伝ったよ!それ以外は…… えと、そう、瑠璃菜さまのケガを治すのも手伝ったよ。ぼ、ぼくのほうが瑠璃菜さ まにこうけんしてるよ!」
「ケガをなおすだけならエルにもできる。それと、ここでじっとしてたタツミとちがって、きょうのエルはとてもうごきまわった。だからルリナさまになでなでしてもらってつかれをいやしてもらう――― 」
「そこまで!まったくあなたたちときたら、いつもそうやって喧嘩ばかり。夜中に静かにできないなら、今日は一緒に寝てあげないわよ?」
「ん、タツミ、エルがわるかった。きょうのところはゆるしてやる」
「なんか心がこもってない気がするけど……… ぼくの方こそ、ご、ごめんね」
 辰巳とエルリアは、双方納得のいかない顔で握手をした。
 ………… まったく、本当に手のかかる子たち。
「エルリア、あなたも今日はよく頑張ったわ。頭を撫でてあげるから――― 」
 
こちらに来なさい、と言い終わる前にエルリアは既に私の膝を枕にしていた。その行動の速さが実戦でも活かせればいいのだが。
 ニ人の頭を撫でてやる。艶のある髪の毛がこそばゆい。辰巳とエルリアは本当に嬉しそうな表情を浮かべながら、微睡の中に落ちていった。

 ………… それにしても、あの奇襲には驚いた。
 マックラード・マイディア。この私に死角から魔弾を当てられるのは、あの男しかいない。《書館》から追放されてかなりの年月が経っているはずだが、まさか、こんな辺境の地方都市で遭遇することになるとは思わなかった。
 たまたまこの街に訪れていたのかどうかは分からないが、私に狙われる前に既にこの街を去っている可能性が高い。そして、あの少年が逃げられるように手引きをして、何かしらの手助けをした可能性もあるだろう。 
 そう――― あの少年。彼は随分とあの少女に執心しているように見えた。幼馴染なのか恋人なのか、二人の関係はよく知らないが、 あの様子だと放っておけばまたここに現れるに違いない。エルリアには明日から街の中を見に行ってもらおう。
 それともう一つ、疑問に思ったことがある。彼に剣を突き立てられた時に感じたアレは何だったのだろう。
 辰巳との戦闘で、彼の魔力は殆ど残っていなかったはず。少なくとも、私の目の前に対峙した時の彼からは魔力を殆ど感じなかった。
 ――― であれば、あの瞬間彼から膨大な魔力を感じたのは、一体どうやって説明する?
 泉から溢れ出たような魔力。それは彼の体内を駆け巡り、あの少年をまるで別人のように変貌させていた。
 そもそもアレを魔力と呼ぶべきなのかも分からない。アレはもっと根本的に異なったモノだ。言うなればアレは―――
「………… やめましょう。今日はもう遅いわ」
 辰巳とエルリアは既に夢の中。私も、そろそろ眠るとしよう。
 今日は星が綺麗だ。暗い山の中でさえ、二人の顔がはっきりと見えるほどに明るい夜空を見上げて、私は思考を停止した。
 ありすという少女を利用している限り、あの少年は再び私の邪魔をしてくるだろう。しかし問題ない。あんな偶然は二度も起こらない。明日にはきっと探し出して、必ず排除してみせる。
 もうすぐ。もうすぐで私の望みが叶うのだ。これ以上、誰にも邪魔されるわけにはいかない。 私の夢を阻む者は、誰であっても、許しはしない――――

                 ――――To The Next Day.....


あとがき


星に願う 李音

拙い作品ですが、楽しんで頂ければ幸いです。

ホシゾラ シルク

 初めまして、シルクと申します。楽しんでいただけたら幸いで す。あとがきとして、登場人物の名前の由来を記しておきます。 花言葉です。
白木蓮
 白蓮( 白木蓮) ハクモクレン: 「気高さ」「高潔な心」
青木彩芽
 アオキ: 「初志貫徹」「変わらぬ愛」「永遠の愛」
 アヤメ: 「愛」「信じるものの幸福」「希望」「信頼」

流星になれたら あたらよ

 初めて寄稿させていただきます、一年のあたらよです!自分は音楽を聴きながら小説を書くのが大好きで、いつも自分の中でイメージソングを設定しながら書いています!今回は BUMP OF CHICKEN 「天体観測」と米津玄師「春雷」を聴きながら書きました!拙い作品ですが、楽しんでいただければ幸いです!

真昼の星 張江下池

 主人公はバイトで出会った人に似てます。自分の正義がしっかりしている人なんでしょうね。少し羨ましいです。

ストニュー部分部 第3回 タイトルの「タイト」な部分 尾井あおい

 ストニュー部分部、早くも存続の危機でしょうか?夏までに部員が五名を超えなければ廃部だと学長に言われているので、どうか入部をご検討ください。

UNAAT- 国連異常事象対策部隊- バルバロイ

 インターネット上に、SCP 財団という架空の組織があるのですが、それに影響を受けて書いたのがこの作品です。ただ、まるっきり同じものだとつまらない気がしたので、第二次大戦終結直後という設定を加えました。私の初作品となります。書いていると、どうしても締め切りに間に合いそうになかったので連載にしていただきました。次で終わらせるべく努力します。

不撓の高潔と未熟な純潔 宿身代の悪魔

 まず初めに、今回で完結に至らず大変申し訳ありませんでし た。スランプに陥ってしまい、なかなか筆が進まず…… 。次こそしっかりと完結させたいと思います。 今回は試行錯誤パートとなりました。私はゲームをプレイしていて、あーでもないこーでもないとボスの攻略法を模索する時間が大好きなのですが、そういった雰囲気を感じ取って頂けると嬉しいです。次回こそ!決着となります。ボスには第二形態がつきものですよね、ということで乞うご期待。

リット*ナイト 蛸壺なつき

 皆さん初めまして!新一年生の蛸壺なつきです! この度、『リット*ナイトー前編ー』の制作と表紙絵を担当させていただきました~。それぞれ初めての作品なので、見ていってくれると幸いです… !
 『リット*ナイト』はご覧になる通り、前編と後編に分けて発表する予定でございます。二つ合わせると結構長いのがネックですが、生暖かい目で見守ってくださると嬉しいです(汗)。 こんな風に本格的な小説(っぽいもの)を執筆させてもらうのは、今回が初めてなんですよね。上手く書けているのか、自分の描きたい作品観が皆さんに無事届いているかどうかだけが心配です。
 不肖この蛸壺なつきの作品たちが、少しでも多くの皆様の心に残ってくれるよう精進して参ります。よろしくお願いします‼

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