Striking Anew vol. 164「嘘」
Striking Anew vol. 164「嘘」(フレッシュマン祭号)です。
*作者からの許諾が得られた作品のみ掲載しています。
テーマ作品
もるびっち「嘘から出たまこと」
嘘を吐くと地獄に落ちる。地獄に落ちて、閻魔さまに舌を抜かれる。本当のことだ。
もう覚えていないくらい昔、俺は一番最初に嘘をついた人間だった。酷い酷い嘘をついたようで、幾千万の責め苦を受け、己を顧みる為の自意識すら擦れて消えたのち、気づくと俺は抜かれた舌たちの塚にいた。生身の身体を持たぬ亡者といえども、舌を抜けば抜かれた舌が残る。獄卒どもはそれを端の虚空に放る。一千年、二千年、三千年、四千年、舌は積み重なり、塊となり、「俺」となり、「俺」は重い瞼を開けることになった。
舌たちは雄弁だった。彼らの味わった辛酸甘苦は、人の世の移り変わりのおおかたを知るに充分で、「俺」が馴染み、輪郭が明らかになった時、当然の欲求が芽生えた。
話したい味わいたい愛でたい愛でられたい褒められたい叫びたい歌いたい読みたい掲げたい勝ちたい笑いたい説きたい語りたい❘❘。
「もう一度生まれたい」
それは鳥が生まれ故郷に戻るように自然で、自覚してからは早かった。俺は自分の上に時折開く光の穴が開くのを知っていて、そのうちのひとつに飛び込んだ。
愛知県名古屋市某区、レンタルスペースとして貸し出されているマンションの一室でオカルトチャンネル「矢野―ズ」の面々は凍りついていた。
結成から一年半、コンプラに気を配りボヤ騒ぎも乗り越えて、順調に伸びていた登録者数が停滞の兆しを見せていた。そろそろテコ入れを。毛色の違う企画を。そうして無駄に本格的に揃えた魔法陣、豚の血、エトセトラ。リーダーの矢野が古書の呪文を適当に組み合わせて唱えた数秒後、部屋の中央に「圧」が現れたことを全員が感じ取った。
視覚では捉えられない何か。対処できない何か。しかし確実にそこに居る、言うなれば黒い圧。今までとは明らかに違う身体の拒否反応がその異常を示していた。せり上がる胃液を抑えながら必死にどうすればいいか考える。
「おい、撮れてるか?」
「は?」
今そんな場合かよ、そう言おうとしてメンバーは中央の圧が消えたことに気がついた。悪寒も引いていく。カメラは何も映していなかった。結局、お蔵入りだ。あの状況でよく撮れ高気にするよな、流石リーダー。それにしても惜しい。お祓い行っとく?そんな会話でその日は解散になり、一週間後、矢野と連絡がつかなくなった。一週間と言っても、普段から矢野は既読をつけるのが遅い方だったこと、家を訪ねて失踪が発覚するのに時間がかかったことを考えると、異変はもっと早く起きていたのかもしれなかった。
次はカメラマンだった。その次はマネージャー、隣の五人家族、若い警官、みんな、見つかったり見つからなかったりした。しかしながら、もはやどうでもいいことだった。
あの日を境に名古屋市では失踪、変死、事件事故が急増。薬物の影響が疑われたが、解明は進まなかった。そうしているうちに、道にカラスの集団死体があることや、上下水道システムが頻繁に故障すること、真昼の空が赤いことが、日本全国で日常になっていった。ポストは注意喚起、勧誘、知らない人の写真で溢れた。
人は無力だった。身近な誰かが急に消えることにも慣れざるをえなかった。新興宗教が相次いで立ち上げられ、既存宗教はもっと儲かった。何かがおかしいのに、何も分からないまま半年が過ぎた。日本を中心に他国にもこの異変は感染し、暴動が起きた。
俺はハイになっていた。時間も、空気も、五感も失った永遠から、色彩溢れる下界へ急に出てきてしまったのだ。俺は拡散し、吸収し、掌握した。矢野孝弘として街をふらふら歩き、あらゆるものを味わった。俺をどうにかしようとする奴らもいたがなんとか退け、勝つたびに俺は賢くなった。
高いところに昇りたい気分だ。東京タワーのてっぺんから、首都を見渡す。静かな街に、アリのような車が走っている。強風が肌を打ちつける。なんて素晴らしいんだろう。これが生。今ならできる。もっと感じられる。拡散などではない。さらに上の次元で。俺は、天に高く腕を、
「あ?」
激しい雷鳴と視界に溢れる光。慣れた永遠の感覚と、初めての情報の渦に俺は巻き込まれた。舌からは得られなかった全てがそこに在る。自我は掻き消え、俺もまた情報の一部となる。変化しつづける情景。永遠と一瞬の後、俺の自我は懐かしい古い声を聴いた。
「死後の世界はあります。生前の行いによっ…」
「…えば、嘘をつけば舌を…」
「…神に祈ればな…」
次の瞬間、今までの狂乱が嘘のように、静かな虚空、慣れた舌塚に俺は戻されていた。舌の山にどさっと倒れ込む。
「…ま、いつかこうなると思ってたけどさ」
「嘘なんてつくもんじゃねえな」
北海道牛乳プリン「Happy Avocado Day!」
「Happy Avocado Day!」
カータがそんなことを叫びながら家に入ってきた。
「今日はアボカドの日だよ!」
そう言ってにかっと笑い、籠いっぱいのアボカドを見せつけてくる。
ぼくは飲みかけのホットチョコレートをテーブルに置いたまま呆然とした。とりあえず、低い本棚の上にぶら下がっているカレンダーを確認する。何も書かれていない。おばさんが十時から病院に行くこと以外、何の予定も書かれていない。
「……アボカドの日ってなに?」
「今日はおばさんいないでしょ?」
「そうだね」
「アボカドで人をびっくりさせるんだよ。紙とペンはある? ハサミもいるよ」
何が何だかわからなかったけれど、ぼくはカータの言うとおりに紙とペン、子供用のハサミを探した。おばさんの仕事部屋の机の引き出しに入っているのが見つかると、カータは
「あったー!」
と言って、黄色の画用紙1枚、黒ペン1本を持ち出した。ハサミとペンチが同じケースに入れられているのが見えたから、ハサミはぼくが取り出した。
カータは黄色のワンピースの裾をひらひらさせながら、どたどたと階段を駆け下りていった。色紙とペンをテーブルに放り、ぼくの向かい側の椅子に座る。ハサミの穴に指を通したら、顔を近づけながら慎重にチョキ、チョキ、と紙を切っていく。少しいびつな黄色の正方形が、テーブルに広がっていく。
「お祝いの言葉を書いて、アボカドに貼って、いろんなところに隠すんだよ」
カータはハサミからすっかり手を離してしまった。小さな手をのばしてペンを取り、紙きれ一枚一枚に文字を書いていく。
Moron.
Dunce.
Eejit.
Dimwit.
カータはお祝いの言葉を書くのに夢中になっている。いつになく目をきらきらさせている。もう紙を切ることを放棄してしまったようだ。ぼくはただひたすらに紙を切って、お祝いの言葉を書くのはカータに任せることにした。
Clown.
Fool.
Stupid.
十枚ほどできあがった。ぼくたちはそれらをセロハンテープでアボカドに貼り付けて、それから家じゅうにアボカドを隠して回った。食器棚の中。おばさんの仕事机の引き出し。電子レンジの中。窓のカーテンの裏。カータは洗濯機の中にまでアボカドを隠そうとしたが、さすがにそれはまずいと思って、カータがよそ見をしているうちにぼくはアボカドを洗濯機から取り出して、洗剤と漂白剤のボトルが並んでいるその間に置いておいた。
カータは家に帰った。
おばさんが仕事から帰ってきた。おばさんは家のあらゆるところでアボカドを発見した。ぼくは叱られた。カータが書いたお祝いの言葉は、全て「ばか」という意味だったのだ。
次の日にこのことをカータに伝えると、カータは楽しそうに笑って、ぼくに向かって
「ばーか、ばーか」
と言った。返すことのできる言葉がなくてぼくがしばらく黙っていると、カータは笑うのを止めて、心配そうな目で、下を向くぼくの顔を覗き込んだ。そして、
「ごめんね」
と言った。
ぼくは
「いいよ」
と言って、そっぽを向くのをやめた。
懐かしいカータへ、あれから何年も経っていますが、元気にしているでしょうか。ひと月しか関わりのなかった僕のことなんて、もうとっくの昔に忘れてしまっているでしょうか。もしもまだ覚えているのなら、四月一日を、次の四月一日が来るまで本当にアボカドの日だと思っていた僕を知ったら、あなたはまた、「ばーか、ばーか」と笑ってくれますか?
今はもう連絡も取れなくなってしまいましたが、僕の知らない土地で、あたたかい人たちに囲まれながら、幸せに暮らしていることを願っています。
May your days be as wonderful as a ripened avocado.
Happy Avocado Day!
自由作品
ドクダミ「ペアを組んで」
人はアドバイスが欲しいというより、自分を正当化してほしいのだろう。
私は神無月と呼ばれた。それは気が付いたときに既に与えられていたもので、私に選択の余地はなかった。私は初め、自分は生きているのだ、という感覚すら分からなかった。全ては混沌としていた。永遠に続きそうなステンドグラスの廊下、壊したおもちゃの時計、吠えてくる犬。
中一。
中学校では二つの小学校から上がってきた人が集まったので、学年の人数が倍に増えた。私は小三のときに転校したので、「同じ小学校出身の人」といってもそこまで仲の良い人はいなかった。小学生のときはただ漂っていた。私はどこの人でもなかった。クラス替えをしても、それは変わらぬ事実としてあった。だから、周りに溶け込みたいと思っても、必ず厭になる日が来るのだ。中学生になっても、きっとそうだ。
「それでは、今から体操を行うので、二人組のペアを組んでください」
体育。私はこの時間が厭だ。特に先生がこう言うときが一番厭だ。今のクラスには、違う小学校出身で初めて仲良くなった友達、如月と長月はいるものの、圧倒的にその二人の仲がよく、どうせ私は一人になってしまう。その二人以外に探すとしても、どうせとっくに二人組を作っているだろう。体育は二クラス合同だ。今日の人数は奇数だろうか、偶数だろうか。分からないので、
「すみません、組む人がいないんですけど……」
と先生に話しかけてみる。
中二。
学年が変わり、クラスも変わった。最初のグループが決まるのは、クラスが始まってから一週間くらい。今回も私は三人グループだった。文月と葉月。二人とも私と同じ小学校の出身で、文月は小学校のときもお世話になったことがある。文月と葉月は同じ吹奏楽部のようだ。ちなみに私は美術部。如月と長月も同じ美術部で、中一のころはイラストを通じて仲良くなったが、部活では如月と長月が所属するグループの結束が強く、私が入り込む隙はない。
「それでは、今からバドミントンを行うので、二人組のペアを組んでください」
またこの時間が来た。もう厭だ。ただ今年は少し違って、
「んー、どうしようか」
三人で話している。文月も葉月も優しい。そのうち、
「すみません、私たちも三人なので、二人組を組みませんか」
という人たちが現れることもある。現れた三人組のうち一人が、同じクラスの霜月だと、
「じゃあ私、そっち行こうか?」
と言うこともある。霜月はクラスのグループでは分かれているものの、塾では比較的仲良くしてもらっている。霜月は美術部でもあるが、如月や長月と同じグループだ。霜月は私と話すときも楽しそうにはする。でも、クラスや部活のグループの人と趣味の話をしているときのほうが、もっと楽しんでいるように見える。なんてことは今置いておいて、
「神無月ちゃん、大丈夫そう?」
と文月が聞いてくる。なんて優しいのだろう。
「大丈夫」
と返しておく。
中三。
また学年が変わり、クラスも変わった。今度こそは二人組がいいと思った。とりあえず隣の席の睦月と仲良くなってみる。睦月はバイオリンが得意で、音楽系の進路を考えているようだ。睦月はこのクラスに特に仲がいい人もおらず、私は一時的に睦月と二人組になった。しかし、睦月とは性格があまり合わなかった。私はどこに行こうか悩んだ。クラスには私と音楽の趣味が比較的似ている三人組がいたので、私はそちらに移ることにした。三人組は弥生と卯月と師走。弥生と卯月の結びつきが強かったので、師走とペアを組むことにした。
「それでは、今からバレーボールのサーブ練習を行うので、二人組のペアを組んでください」
私は師走を探す。
「すみません、ペアがいないので組んでもらえますか……?」
私は声を掛けられる。師走がこちらに向かってくるのを確認して、
「すみません、先約がいるので……」
という顔をする。声を掛けてきた子は、先生の所へ行った。
先生たちはどうして、私たちにこんなに難しいことを要求するのだろう。
初めから番号を振るなどして決めればいいのに、と思いながら私はただ、乱れた髪をそのまま放っておくだけだった。
尾井あおい「ロールシャッハ奇譚」
初めて心療内科というものに行った。ロールシャッハ・テストを受けてみたかったのである。大学一年時に履修した心理学概論のテキストで「ロールシャッハ」という文字列を目にして以来、そのオシャレな語感とアヤシイ図版(図1)に魅せられて、いつか実際に体験してみたいと思い続けていた。
転機は二年に進級する年の春休みに訪れた。二年生から履修可能となる(僕は資格の関係で履修せねばならない)心理的アセスメントのシラバスを眺めていた際、その最終回でロールシャッハ・テストを扱うらしいことがわかったのだ。
これは由々しき事態だった。というのも、投影法に位置づけられるロールシャッハ・テスト然り、心理検査を受ける際は、なるべくその検査に関する予備知識がないほうが望ましいとされているからだ。
ロールシャッハ・テストの場合、検査に用いる図版を前もって目にしてしまったり、図版や検査に対する先入観をもってしまったりすると、検査結果に影響が生じてしまう可能性がある(ネットで「ロールシャッハ」と検索すると、模擬図版に混じっていくつか本物の図版がヒットするので、ロールシャッハ・テストを受けたことのない方は検索しないことをおすすめします)。
だから僕はロールシャッハに関するネタバレを極力回避するべく立ち回ってきたわけなのだが、ここにきて避けがたい心理的アセスメントの講義が迫ってきていた。
――思い立ったが吉日。市内の心療内科や精神科のホームページを見て回り、いくつかのクリニックに電話をかけてみた。そして、一番対応が丁寧な感じだったところに決め、四月の頭に予約をとった。初診を済ませた後に、心理検査を受ける日取りを決めるのだという。電話口で、検査を受けられるのはいつ頃になりますか? と聞いてみた。
心理検査はですねえ、今は予約が先の方まで埋まっていまして、七月か八月頃になるかと……。
で、初診の日。心療内科の入っている雑居ビルまで自転車を走らせて、昼過ぎに到着した。
クリニックは二階にあるらしいので、階段を上がった。ブティックが軒を連ねているフロアだった。その店先を通り抜けた奥まったところにクリニックの入り口があった。扉は開け放されており、僕はクリニックの名前が印字されたマットを踏み越え、中に入った。
古色蒼然ザ・病の館のようなイメージとは異なり、明るくて広々とした心療内科だった。初診受付を済ませて、ソファに腰かけた。アディダスのジャージを穿いたギャルっぽい子とその父親らしき人が前を通って行った。
待合室の壁には、「心理検査のすすめ」と大きく書かれたポスターが貼られていた。その中で、ロールシャッハ・テストは性格(パーソナリティ)検査に分類されており、「ものの考え方や感じ方の傾向を知ることができます」と書かれていた。
他にも、種々様々な検査名が並んでいたのだが、心理検査にまつわる事前情報をとにかくシャットアウトしている僕なので、「バウムテスト」という文字の並びを見ても、あの年輪型のお菓子のことしか連想できないでいた。
その時、僕の名が呼ばれた。
診察室のドアを開くと、おそらく三十路に踏み込んだばかりの男性医師が待っていた。真四角でない、曲線のある机を挟んで向かい合った。
心理をやってる学部生で、ロールシャッハを受けてみたい、と。
あの、ロールシャッハを勉強した後とか、予備知識がついちゃった後になるとちゃんと取れなくなるっていう話を小耳に挟んで……。
あーはいはい。そういうことね。それは先輩とか友だちとかに取ってもらうのじゃダメなの?
あ、できたらもっと熟練してる人に取ってもらいたくて。
そっか、専門家から受けたいってわけね。となると、何か診断を下さないといけないんだけど、どうしような……。
あそうだ。僕があんまり教えてもダメだけど、ロールシャッハは重い統合失調症の人とかがやると妄想を誘発して危ないんだけど、大丈夫だよね?
あっそうなんですか⁉
ちょっと相談してくる。
恰幅のいい医師は椅子から立ち上がり、部屋を出て行った。
扉の脇には本棚があった。そこに収められた『精神分析学辞典』などの背表紙を目で追っていたら、医師が戻ってきた。
今回は特別に学生さんということだから、勉強のお手伝いということでやりましょう。
あ、ありがとうございます。
あんまり友だちとかに言わないでよ。いっぱい来られると困るから。
はい。
んー診断はどうしような。
……とりあえず、神経症ってことでいい? 何か少し悩みがあるっていう。
はい。神経症でお願いします!
待合室に戻った。すぐに受付に呼ばれ、心理検査を受ける日を決める段になった。ちょうどキャンセルが出て、四月下旬の平日十二時からの枠が空いているという。思い切り授業のある時間帯だったけど、そのタイミングを逃すともう夏まで予約ができないらしいので、そこに入れてもらうことにした。
クリニックを出て、自転車を飛ばした。
さて、予約の日。
予約時間まで一時間を切っているなか、僕は一限を一緒に受けていた友人と並んで歩いていた。いつもならこのまま英語の教室に向かう流れ。
ねえ、Risky Job 調べた?
いやー、それが今日サボるのよね。
なんで。
ロールシャッハってわかる? 心理検査の。
ああ、投影法やな。
なんかさ、ああいうのを一回勉強しちゃうとバイアスがかかって正しく取れなくなるっていう話を小耳に挟んでさ、それで今から受けに行ってくる。
へえ、受けれるんやね。
そうそう。ほんとは診断つかないとできないらしいんだけど、お願いしますって頼んだら、神経症ってことにしてもらえた。
なんだそれ。
雨が降り出しそうだった。 Google マップを頼りに歩いて、三〇分ほどでクリニックに辿り着いた。待合室に入ると、前回よりも混雑しているのがわかった。
おじいさん。おばあさん。おじさん。僕と同年代くらいの女の子。小学校高学年くらいの男の子とその母親らしき人。おじさん、というか、お兄さんというか微妙な人。僕より少し年下くらいの女の子の母親っぽい人が、うしろの方にしよっか、と娘に声をかけ、僕の横を通り過ぎていった。待合のソファはほとんど埋まっていた。
手短に受付を済ませ、受付をしている間に空席になっていた前回と同じソファに腰を下ろした。
そして、図書館で借りてきたピーター・ブロスの『青年期の精神医学』を開くと、目次のところに左右対称のでかいコーヒー染みみたいなものがあって、げんなりした。薄茶色のそれは、第五章「思春期の自我」から第七章「逸脱した思春期発達の二例」にまでわたっていた。
五分ほどで名前を呼ばれた。弾む心を抑えつつ、落ち着いた足取りを装って部屋へと歩みを進めた。ドアを開くと、すぐ左手に砂の入った木箱があり、その脇には雑多な人形やおもちゃが並べられた棚が置かれていた。
僕を迎えるのは、中年女性の臨床心理士だった。どうぞ、と言われるがまま、緑のふかふかした椅子に腰かける。心理士は僕の斜向かいの位置に座っている。
今日はロールシャッハを受けたいということで伺っていますが、インクの染みを使うってこと以外に何か勉強はされているんですか?
いや何も。極力目に入れないようにしてきたので。
そうですか。では早速だけど始めていきましょう。
お願いします。
この十枚のカードを使います。これは世界共通のものです。このカードが何に見えるか教えてください。どんなふうに見ていただいてもかまいません……
海鳥奏「ラストサマーメメントモリ」
第五章 Seven days
桃咲との関係性が変わってから一晩が経った。今日は早めに訪れたのだが、距離感が掴めず、お互いに初対面以上のよそよそしい態度となってしまった。
「お、おはようございます!」
「お、おはようございます……」
なぜか敬語の桃咲。対する僕もなぜか敬語で返してしまう。
「き、今日は天気がいいですね!」
「そ、そうだな」
「調子はどうですか?」
「まずまず……です。そっちはどうだ?」
「わ、私は元気です!」
英語の教科書のような会話だ。その後、しばらくはこんな感じで、ぎこちないやり取りが続いた。おかげで、いつも通りやり取りができるまで戻るのに一時間ぐらい要した。
いつものように話せるようになった頃合い、唐突に桃咲が言った。
「そうだ、直人。私のこと名前で呼んでよ」
「……別にいいだろ」
「よくなーい、名前で呼んでよ。ほら、な~ま~え~!」
おもいっきりせかしてくる桃咲。昨日の出来事で桃咲への好意を自覚したせいかもしれない、正直言って可愛い。短すぎる葛藤の末、桃咲を下の名前で呼ぶ。
「……霞」
「聞こえなかったから、もう一回!」
「かすみ」
「えへへ~、もう一回!」
「いやだ」
「え~なんでー、もう一回、もう一回お願い!」
そんなこんなで呼び方が桃咲から霞と変わったりしたり、たわいない話に花を咲かせたり、霞のちょっとした遊びに付き合わされたりして一日が過ぎていった。次の日は朝から雨だった。その日は病院の屋上から祭りで打ち上げられる花火を一緒に見る予定だったが、もちろん花火は中止。僕としては霞といられさえすればいいので、特に残念には思わなかった。霞はいじけていたが。
そうして二日が過ぎた。やっていることは今までと何も変わらない。だけど、その間に過ごした時間は僕にとって一番濃密に感じられた。それは関係性が変わったからかもしれない。
霞の体調も特に変わった様子はなく、むしろ倒れた時よりは元気になっている。この様子ならメメントモリ症候群とやらも問題ないのかもしれない。このまま完治して、また一緒に遊んだり、遠くへ行ったりすることもできるようになるのではないか。そうしたら、霞にとことん振り回されてやろう。そんな期待を胸に八月最後の日を終えた。
同時に新学期が始まった。
「や、秋月。元気だったかい?」
「まぁ、そこそこ元気だ」
「…………」
なぜか押し黙る西村。なにもおかしな対応はしていない。
「なんだよ?」
「いや、そんな普通に返されると思ってなかったからさ」
「お前は僕に一体どんな印象を抱いてるんだ」
「捻くれてるね。知恵の輪ぐらいには捻くれてると思うよ」
「…………」
霞とまったく同じことを言われた。僕はそんなにも捻くれているのか。
「ほんとに彼女でもできた?」
「この前もだが、なんで最初にその選択肢になるんだ……」
「男が変わったら、女ができた証拠だからね。で、どうなんだい?」
「…………」
おもいっきり目を逸らしてしまう。その動作で充分だったかのか悟られてしまう
「え、うそ? ほんとに?」
「……厳密にとは言えないが、まあ、いちおう」
「……なんとなくありえそうだなーとは思っていたけど、まさか本当だなんて驚いたよ。なんて言ったらいいか分からないけど、とりあえずおめでとう」
「……どうも」
西村に祝福されると、なんだかむず痒いのだが、悪い気はしないので適当に返しておく。
「あ、でも遊び感覚ならよくないからやめたほうがいいよ。あとで痛いしっぺ返しをくらうから」
妙に実感のこもった忠告だった。なんとなく気になったので聞き返してみる。
「なんだ、それはお前の経験談か……?」
「いや、うちの兄の話だよ」
「そ、そうか……」
どこか遠い目をして言う西村。西村に兄がいることは前に西村が話していたので知っている。前に聞いた話だと、たしか西村より二つ三つほど上で大学に通ってたはずだ。そういえば、その西村兄が二股して総スカンを喰らったという話を西村から聞いた気がする。そんな気はさらさらないのだが、肝に銘じておいた方がよさそうだ。
「まあ、兄さんはおいといて。その子、大事にしなよ、秋月」
「……そのつもりだ」
「ま、今度、紹介してよ」
「そのうちにな」
霞が無事病気を乗り越えることができたら、それもいいのかもしれない。その時は西村に霞のことをめいっぱい自慢してやろう。西村兄には絶対会わせたくないが。
今日は学校が午前中で終わり、帰宅後、昼を適当に済ませてすぐに病院に向かった。最寄りのバス停からバスに乗って二〇分ほどで病院に着いた。
受付を済ませて、霞の病室へと向かった。扉を軽くノックをすると、「ちょっと待って!」と慌ただしい声が返ってきた。一度、取っ手から手を放す。もしかしたら着替えているのかもしれない——素数を数えよう。
素数数えが佳境に入ったタイミングで扉越しに霞と誰かのやり取りが聞こえた。
「じゃあ、玲子さんお願いね」
「ええ、わかりました」
すると、扉が開き、ひとりの女性看護師が出てきた。霞の担当看護師である加藤玲子さんだ。美人なのだがあまり看護師らしからぬ無愛想な顔をしている。霞はもともと顔見知りだったらしく、「玲子さん」と呼んでいる。僕は最初、加藤さんと呼んでいたのだが、彼女曰く他にも何人か加藤がいるとのことで、僕も「玲子さん」呼びになった。
玲子さんはこちらに向かって軽くお辞儀をするとすぐに去って行ってしまった。病室に入ると何事かを慌てて取り繕うように霞が声を掛けてきた。
「な、直人。早かったね!」
「そ、そうか……?」
霞の様子がおかしい。やけに挙動不審だし、声も硬い。心なしか顔も紅潮していて、目元は赤く腫れている。
「そういえば、さっき玲子さんとなんか話してたみたいだけど、なんかあったのか?」
「な、なんでもないよ」
「それにしては様子おかしいけど、大丈夫か? 体調でも悪かったり——」
「ううん、そんなことはないよ」
「でも、顔も赤いし、目元も腫れてるぞ」
「さ、さっき目にゴミが入って、おもいっきりこすちゃったからかな?」
「……ならいいんだけど」
なんか空々しいが、もっともらしい理由なので納得せざるを得ない。
「そんなことよりもさ、外行こうよ。外!」
「大丈夫なのか?」
「ふっふっふ、許可はちゃんと貰ってるのだよ。……って、言っても病院の敷地内だけどねー」
「そっちもだが、それよりも体調の方は本当に大丈夫なのか?」
「ダイジョブ、ダイジョブ。もう、本当に直人は心配性だなぁー」
まあ、霞が大丈夫と言うのなら問題はないか。見た感じ元気そうだし。
「わかった。いいよ」
「よいしょ! じゃあ、出発!」
僕が返事をすると、霞はベッドから元気よく飛びおりた。
裏庭を散歩することとなった。病院の裏庭は隣接する山までの一面が芝生となっていて結構、いやかなり広かった。その中央、なだらかな丘の上に立つ大きな木に目指して僕と霞は歩いていた。霞によるとあの木は桜の木らしい。霞が背伸びをして言う。
「ん~~、やっぱ、シャバの空気はうまいね!」
「……それはつっこんだ方がいいのか」
木陰に並んで腰をかける。九月だというのに夏の暑さは健在していた。まだしばらくは夏の延長といった感じだ。それでも昼を過ぎたということはあって、そこまでの暑さではなかった。時々、涼しい風も吹き、ちょうどいいぐらいだ。
「もうすぐ秋だね」
「だな」
「あのね、直人」
「どうした?」
何事か話そうとしているが、逡巡した様子でうまく切り出せていない。緊張しているというか、どこか恐れているようにも見える。やがて決心したように、よし、と独りでに頷くと、霞は言った。
「直人に話さないといけないことがあるんだ」
いたって真剣な様子。張り詰めた空気が漂う。霞の視線は空へと向けられている。あるいは遠く、過去へと向けられたものだったかもしれない。
「前に言ったよね、私のお母さんとお父さんがもういないこと」
「……ああ」
「私のお父さんはね、お母さんより先に……死んじゃったの」
それを聞き、あることに気づく。星を見に行った時、霞は確かに言った。両親が二人ともいないと。また、霞が最後に家族であの場所に行ったのが八年前ぐらいとも。そして、霞の母親は八年前に亡くなったと河下医師は言っていた。
つまり、父親も八年前に死んだということだ。
霞の独白は続く。
「……お父さんはね、直人と出会った日に死んじゃったんだ」
八年前の七月二十六日。その日に霞の父親は死んだ。同時に僕の中に一つの疑問が浮かびあがる。
霞の母親は霞と同じメメントモリ症候群にかかって死んだ。だが、父親は? もしメメントモリ症候群にかかっていたのなら河下医師から霞の母親の話と一緒に聞かされているはずだ。それにそもそもの話、メメントモリ症候群は霞の母親の血筋に関係しているという話で、父親に関しては関係ないはずだ。
じゃあ、なぜ霞の父親は死んだのか。それも母親と近い時期に。
答えは霞の口からもたらされた。
「橋から飛び降りて死んじゃったの」
カチリ、カチリと次々にピースが当てはまっていく感覚。頭の中でパズルが勝手に組み上がっていく。「八年前」、「橋」、「投身自殺」これらの単語からおのずとある場所が浮かび上がった。
「なあ、もしかして、お前の父親が死んだ場所って……」
「……うん、あの橋だよ」
僕が振り向き尋ねると、霞は顔を前に向けたまま答える。
そう僕と霞が出会った場所——『つなぎ橋』だ。
霞の父親は八年前の七月二十六日、つなぎ橋から飛び降り自殺をした。
なにもかもがつながっていく。パズルの完成は否応なしに近づいていた。
「それでね。毎年、その日はあの場所に行くようになった」
僕はあの時、霞が居合わせたのは偶然だと思っていた。滅多に人が通らないはずのあの場所に現れたのは、たまたま道に迷ったからだと。しかし、それは違った。霞があの日、あの場所に現れたのは偶然ではなかった。
「その日だけあの場所に行くことができた。その日以外は行こうと思っても行けなかったんだよ。ううん、ただ単に行きたくなかっただけなのかも」
自らを振り返るように言う。声はつとめて明るくしようとしているが、霞の横顔からは表情をうまく読み取ることができない。顔を再び前に戻す。
「でもね、ここ数年は行ってなかったんだ。けど、今年はどうしても行かなきゃって、そう思って」
その日を迎えられるのが今年で最後かもしれないから。裏にそんな言葉が隠れている気がした。
「ほんとはね、驚いたんだよ。行ったら、飛び降りようとしてる人がいたんだもん」
「うっ……」
それで父親が死んだ場所を訪れたら、まったく同じようにして死のうとしている僕がいた、というわけだ。たしかにそれは驚く。今となっては、本当に申し訳ないとは思うが。
「だから、かな。私は直人にお父さんを重ね合わせてた」
パズルが完成する。
霞にとって自分の父親と僕を重ね合わせてしまうのにはそれだけで充分だった。時々、僕を見ているようで見ていないあの瞳は僕を通して死んだ父親を見ていたのだ。
「どうしても止めたかった。でも、できなかった。私は何もできなかったんだよ……。私が、お父さんが死んだことを知ったのは病院のベッドの上だった」
霞は父親を救いたかった。父親の自殺を止めたかったのだろう。もちろん、その場にいたとしても子供の霞にどうこうできる話ではない。それでも、なにか少しは変えられたかもしれない。だけど入院中の霞にはそれすらもできなかった。
だからこそ霞は、僕に自分の父親を重ね合わせた。僕の自殺を止めることで、僕ではなく父親を救いたかったのだろう。それを僕は勘違いをしていたというわけだ。なんとも馬鹿らしい話だ。それを聞いて思うところが微塵もないわけではない。
でも、そんなことはどうでもよかった。なにせ、それ以上に馬鹿らしい話を僕は続けようというのだから。
「だからね、ほんとうは私、直人じゃなくて——」
「そんなのは関係ない」
霞の言葉を強く遮る。
「それでも霞が僕を救ったのには変わらない。たとえそれが僕ではない誰かのためなんだとしても、僕は霞のおかげで生きようと思えるようになったんだ。だから、霞に対する僕の気持ちは変わらない。最後の日まで……いや、その先もずっと、一緒にいたい」
「直人……」
「まあ、なんていうか、そのぐらい霞のことを……好きになった」
「………っぷ、あははは」
「なっ、今笑うところじゃないだろ」
「ごめんごめん、なんか直人らしくなかったから、つい笑っちゃった」
「悪かったな……たしかにそういう柄じゃないけどさ……」
「でもね、直人がそう言ってくれてね、すっごく嬉しい。おかしな話だけど安心しちゃった」
照れくさくなり、頭を掻く。いまさらながらすごく恥ずかしいことを言った気がする。自分で言うのもなんだが、ちょっと前までの僕じゃ、到底考えられない。
「…………私もそのぐらい直人のこと好きになっちゃったてことかな」
「なんか言ったか?」
「ううん、じゃあ病気を治さなきゃだね」
「そうだな。霞ならきっと治せる」
根拠はない。だけどそうなるような未来をたどれると信じて、言う。
「うん、直人にそう言われるとなんだか治りそうな気がしてきた」
「まあ、霞なら馬鹿は風邪ひかないみたいな感じで治るんじゃないか?」
「ひどい! 私馬鹿じゃないもんっ!」
一面に緑が生い茂るだだっ広い空間にそよ風に乗った二人の笑い声がこだまする。こんな時間が永遠に続いたのならどれだけ幸せだろうか。
「直人と出会えてよかった」
突然の言葉に顔を横に向ける。同じようにこちらを向いた霞と目が合った。不意に訪れた沈黙。だけどそこに気まずさはなかった。ただ居心地のいい時間だけがゆっくりと流れている。刹那にして永劫の時間、互いを見つめ合う。やがて視線はぷくっと膨らんだ霞の柔らかそうな唇へと引きつけられる。再び目が合う。霞も同じことを思ったのか、瞼がそっと閉じられる。体は意外にも自然と動いた。その柔らかな唇に僕は、軽く自分の唇を重ね合わせた。
お互いに肩を寄せ合い、時間の流れに身を委ねる。言葉を交わすわけでもなく、何かをするわけでもない。ただ一緒にいて、刻まれていく瞬間を共有する。それだけで充分だった。午後の穏やかな時間だけが過ぎていく。
「そろそろ、戻らなきゃだね」
「そうだな」
病室に戻るまでの道を二人で歩く。手は繋いだまま。絡みつく温もりが離れないよう手をかたく結びながら。一歩一歩、幸せを噛み締めるように歩いた。
次の日には花火を見た。元々、夏休みの終わりに打ちあがる予定が雨天で中止になってしまったのだが、その花火の代わりが打ち上がった。河下医師が色々と取り計らってもらい病院の屋上で見ることになった。
「わ~、すごい。綺麗だね」
「ああ、そうだな」
「あ、見て見て! ハートマーク! 次はお星さまだー!」
打ち上がる花火を二人で見上げ、楽しむ。二人で見た花火はこの夏の思い出として刻まれた。霞と恋人になってからすでに五日が過ぎていた。すべての夏をかき集めたかのような、そんな幸せな日々が続いていた。霞の余命は残り二日だということを忘れてしまうほどに。いや、それ以上に信じていただけなのかもしれない。この日々が何事もなく続けられるようになると。だからこそ、思い知ることになる。現実というのは忘れた頃に戻されるものだと。
九月三日。今日も学校が終わり、霞のもとへ向かうが、今日はいつもと少し違った。
病室の前で玲子さんに呼び止められる。
「少しいいでしょうか」
玲子さんとは最低限の会話しかしたことがない。霞と会話している時も、あまり口数の多くないというか少なかったのを覚えている。少なくとも僕が玲子さんから話しかけられることなんて自己紹介を除いて一度もなかったので、戸惑ってしまう。
「えっと、どうかしましたか玲子さん……?」
「秋月さんに少々お話があります」
そう言われるが、玲子さんと僕の接点と言えば霞ぐらいしかない。つまりは霞のことだった。
「霞さんについてです」
「霞がどうかしたんですか?」
「はっきり言って霞さんの調子はよくないです。悪化しています」
「え?」
思わず声が出る。唐突に言われ、最初は玲子さんが何を言っているのか分からなかった。単に理解したくなかっただけかもしれない。それでもようやく玲子さんの言葉を理解すると、とっさに言葉を返す。
「いや、でも、見ている限り、霞は元気そうですよ……? そこまでひどくなってるように見えませんが……」
「……あなたから見たらそうなります」
「確かに僕は医療とか詳しくないですけど。だからって」
「いえ、そういうことではないです。秋月さん、あなたがいない時の霞さんがどうしているのか知っていますか?」
「それは……」
言われてみれば、その通りだった。僕は僕といない時の霞について全くと言っていいほど何も知らない。僕が聞かなかったっていうのもあるが、霞もいっさい話題にしていなかったのでそのことを考えたことがなかった。悔しさを滲ませながらも正直に答える。
「……知ら、ないです」
「すいません、言い方が悪かったですね。どうも私は話すことを得意としていないもので。秋月さんが霞さんの体調について知らないのは無理もないという意味です。なぜならそれを霞さんがあなたに隠しているからです」
「……隠している……?」
「ええ。……これから話すことは霞さんからあなたには教えないよう言われています。ですから、ここから先は私の独り言ということになります」
そう言って、玲子さんは独り言を語り始める。
「あなたがいない時の霞さんはその多くを眠って過ごしています」
「……ッ!」
「そして、眠っている時間は日に日に増している」
それが何を指し示しているかは考えるまでもなかった。霞は日に日に弱っているのだ。
死を忘れることなかれ。皮肉にもメメントモリ症候群という病名がふさわしかった。
「特に最近の霞さんは秋月さんといるとき以外のほとんどを眠ったまま過ごしています。それもほとんど昏睡に近い形です」
余命七日というわりに全然元気だったから大丈夫だと、実はこのままなんとかなるのではないかと。勘違いしていた。霞が元気に見えたのはそう見せていただけで実際のところは元気なんかではなかった。病は確実に霞の体を蝕んでいた。
「私は霞さんに秋月さんが来る前に起こすよう言われていました」
霞がそのことを僕に隠していたのもショックだが、それ以上にそのことに気づかなかった自分に嫌悪を感じた。なぜ気づかなかったのか。気づこうとしなかったのか。繰り返される自己嫌悪から無理に抜け出そうと言葉を振り絞って、玲子さんに問う。
「なんで玲子さんは僕にこのことを……」
「秋月さん、何も知らないということは時に残酷です。私は二度と——いえ、私のことは関係ないですね。……独り言のつもりが会話になっていましたね。私から言えることは、秋月さんに今の霞さんの状態について胸に留めておいてほしい、ということです」
感情に乏しい玲子さんの顔が話しの途中、一瞬だけだが後悔に似たような表情に変わったように見えた。話が終わると玲子さんは、
「それでは、失礼します」
それだけ言って、すぐに立ち去って行ってしまった。
病室に入ると霞がいつものように笑顔で出迎えてくれた。
「直人、やっほー。あ、今日は制服なんだ」
「そのまま来たからな」
いまだけは取り繕えている自分を褒めてやりたい。本当は今すぐ霞に問いただしたかった。同時に霞の口から聞きたくないという。そのせいか、いつもと同じはずの会話がうわべだけのものに思えてしまう。
「直人、話聞いてる?」
「ああ、ごめん、聞いてなかった」
「聞いていなかった⁉ ちょっと、正直に答えちゃだめだよ。嘘でも聞いてるって言わないと」
「ああ、ごめん、聞いてた」
「聞いてなかったよね⁉ うぅ……なんか最近の直人は私に対して対応が雑だよぅ……」
だけど霞と話しているうちに、僕はそれでもいい、と思ってしまった。
考えるのをやめよう。それを考えるのはいまじゃなくていいのだから。現実逃避なのだとしても、この時だけはこの幸せな時間に浸っていたかった。
「悪い悪い、ちょっと考えごとしてて。で、何の話だっけ?」
「もう、学校の話だよ。がっこう」
「そんな話してたか?」
「してたよー。ほら治ったら私も学校行かないといけないでしょ」
「まあ、そうだな」
「で、こういうのはどうかなって? 私が直人の学校に転校するとか」
「霞が僕の学校に?」
「うん、そう。直人のクラスに現れた謎の転校生。面白いでしょ」
「僕からしたら全然謎じゃないんだが……」
霞なら本当にやりかねないから反応に困る。それほどの行動力をこいつは持ち合わせている。それは夏休みの間に散々思い知らされたことだ。
「まあ、でも、それを抜きにしても、一度行ってみたいな。直人の学校」
「そうだな、霞が退院したら案内するよ」
「じゃあ楽しみにしとく!」
その後も会話は続いた。主にこの夏休みの出来事について話をした。あんな事をしたとかこんな事があったなど、と二人で思い返したりして、会話のネタは尽きることがなかった。
だからこそ予兆は幸せな時間に水を差すように現れた。
「はわ~……ごめん、ちょっと眠たくなっちゃった」
大きな欠伸をした霞はとても眠たそうにしている。それだけならいい。話していて眠くなるだけなんて誰にでもあることだ。だけど、こんな唐突に電池が切れたように眠くなるものなのか。玲子さんの言っていたこともあって、心配になり慌てて聞き返す。
「お、おい、だいじょうぶか……?」
「もう、おおげさだな。そんな心配しなくても、ちょっと寝るだけだよー」
そういうもののやはり不安だ。それが顔に出ていたのかもしれない。霞は諭すように言葉を重ねる。
「ほんのちょっと休むだけだから。起きたら話の……続き、ね……すぅ……」
言葉が途切れる。かわりに返ってきたのは規則的な寝息だった。本当に寝ているだけみたいだ。少し安堵する。だけど、玲子さんの言っていたことが自分の中で現実味を帯びてくる。不安はくすぶったままだ。
その時だった。ベッドから呻くような声が聞こえた。
「……おいて、かないで……おとうさん……おかあさん……」
「……っ!」
霞の寝言なのだと気づく。その表情は苦悶に満ちていて、うなされていた。
強く、霞の手を握った。こんなことで何かが変わるとは思わないが、すこしでも霞を楽にしてやりたかった。傲慢にもそうすることが自分の役目だと。
偶然なのかもしれないが、霞のうめき声がピタッと止まる。表情も和らぎ今は穏やかな寝顔だ。そんな霞の寝顔を見て安心する。
安心したとたん眠気が襲ってきた。だんだん自分の意識がおぼろげになっていく。やがて完全な暗闇へと落ちた。
気づけばそこは暗闇の中だった。辺りは真っ暗で何も見えない。唯一、目の前ある光だけが頼りだ。その光景はいつの日か探検したトンネルに似ていた。光は淡く、儚い。自分が何者であるかもわからないまま、ひたすらに光を追いかける。しかし、光はある地点でプツンと途絶えてしまう。
そこから先は何もなかった。暗闇があるだけ。ここで終わりだと告げられているかのようだった。きた道を振り返ってみるが、あるのは同じ暗闇。いつの間にか、世界のすべてが闇に染まっていた。見渡すかぎりの闇、闇、闇。希望すら見出すことのできない暗い世界。頭がおかしくなりそうだ。早くここではないどこかに行きたい。でも、どこに?
次の瞬間、より深い暗闇に飲み込まれた。体が浮遊感に包まれ、僕は落下していた。奈落の底へ向かって、どこまでも落ちていく。落下する過程で輪郭がほころび、肉体は闇に溶けていく。やがて意識までもが闇一色に塗りつぶされ、すべてが暗闇に溶けた。
目を開ければ、そこは暗闇でもなんでもなかった。視界を開けると、ところどころほつれた制服のズボンの布地が見える。
「……、しまった……寝てたのか」
ゆっくりと重たい頭を上げる。すると、横から声がかかる。
「あ、直人。おはよう」
「……ん、ああ、おはよう」
霞は起き上がった状態で楽しそうに僕の方を眺めていた。僕より先に起きていたようだ。
そうだ、僕はうなされていた霞の手を握ってやって。たしかそのあと睡魔に襲われて、そのまま寝てしまったというわけだ。ふと、右手に違和感を覚える。手に残る柔らかな感触。それが今もなお継続している。恐る恐る視線を下へと落とし、自分の手に向ける。
「……あ」
僕の手は霞の手を握られたままだった。咄嗟に手を引っ込める。霞は別にいいのにー、と残念がるが、僕としては何度か繋いでるとはいえ、今回ばかりは恥ずかしくて居た堪れない。体温は絶賛上昇中だ。
と、そういえば、夢を見ていたのだと思い出す。夢の内容は断片的だがまだ覚えている。暗闇に包まれた光のない世界。あの夢はいったい、なんだったのだろうか。
「? 直人、どうかした?」
「あ、ああ、いや、何も」[21] [22]
いや、たかが夢だ、気にする必要はない。今はそれよりも霞のことだ。
霞の抱えるメメントモリ症候群を知ってから今日で6日。つまり、明日は河下医師が言った霞の余命最後の日だ。霞が病気になんか負けるとは思わないが、それでも不安は色々ある。玲子さんが言ったこともそうだ。霞は元気そうにしているが、初めて会った時と比べると衰弱しているのは明らかだった。よくよく思い返せば、気づけたはずだ。
僕は少し前から決めていたことを口にしようとする。
「それよりも、霞。明日は——」
「はい、ストップ!」
ところが寸前のところで、唇に人差し指をあてがわれた。
「? どうした?」
「直人がいま考えてることを当ててあげる!」
霞が勝気な笑みを浮かべて言う。もう片方の人差し指を頭に添え、真剣な表情をして、むむむ、と唸り、考えるようなふりをする。数秒後、霞はピシッっと人差し指をこちらに立て言った。
「学校サボろうとしてるでしょ?」
「……っ!」
自分が考えていたことをドンピシャで言い当てられ、動揺してしまう。まるで僕の考えていることなどお見通しと言わんばかりに、どうだ? と視線で返してくる。僕が何も言えないでいると子供の悪戯を戒めるように言う。
「直人がそうしてくれるのは嬉しいけど。学校は行かなきゃダメだよ」
「けど——」
「私なら大丈夫。私が死ぬのは明後日だからね。なら少なくとも明日は生きてるってことだよ」
「なら、なおさら……!」
「怒るよ、直人。いま確かに死ぬのは明後日って言ったけど、私はそんなつもりはない。私はこの先も直人と一緒に生きるって決めたからね。だから、こんな病気なんかに負けるつもりはないよ。そういうことだから直人はちゃんと学校に行くの」
僕の言葉を遮り、強く言う。なんともないと笑いかけてくる霞に、僕は口籠ってしまう。それでも僕が何か言おうとすると、
「それに学校をサボる人とは口をきいてあげませーん」
そう言って、霞はプイっと顔を背けた。一歩も引かないことの意思表示だ。
こういう時の霞は何を言っても曲げないことは分かりきっている。あまり納得はいっていないのだが、こちらが折れるほかない。
それに霞は言ったのだ。諦める気はさらさらないと。メメントモリ症候群など乗り越えて生き続けると。なら信じるしかない。
「……はぁ、わかったよ。学校行くよ」
「よろしい、なら口を聞いてあげよう」
霞が無邪気に笑った。その笑顔をいとおしく思うかたわら、玲子さんとの会話のこともあり何か大事なことを隠しているように思えて、本当にこれでよかったのかと頭の片隅では考えてしまう。
だが、そうこうしているうちに時間は来てしまった。
「……じゃあ、また明日学校終わったらすぐ来るから」
「うん、また明日!」
胸のつかえが取れないまま僕は病室を後にした。
第六章 夏の終わり
その日は学校についてからずっと上の空だった。なにをしようにも身が入らない。だけどただボーっとしているとわけの分からない焦躁にかられ、正直、気が気でなかった。
結局、午前中の授業の内容は何一つ入ってこなかった。途中、西村にも話しかけられたが、会話の内容をほとんど覚えていない。
こうしている間にも霞といられる時間が失われている。そう思うとなんとももどかしい気持ちだった。
無理に押し切ってでも霞と一緒にいるべきだったのではないか。そんな考えが頭をよぎっては離れないのだ。なにかとてつもなくいやな予感がしてしかたがないのだ。もしかしたらこのまま——
「……っ!」[23]
そんなこと考えるな。霞は大丈夫と言った、こんな病気はどうにかしてみせると。それを僕が信じなくてどうする。
そうだ、霞なら大丈夫だ。彼女ならきっとなんとかできるはずだ。僕はそれを支えるために霞のそばにいると決めたんじゃないか。なのに、僕が弱気になってどうする。
「…………こんなんじゃダメだな……」
だが同時に玲子さんの言ったことが頭をよぎる。
『はっきり言って霞さんの調子はよくないです』
『ここ最近の霞さんはあなたといるとき以外はほとんどを眠ったまま過ごしています』
一抹の不安を抱えたまま午後の授業を迎えた。
結論から言うとその予感は当たっていた。
六限目、日本史の授業最中のことだった。ノック音と共に扉が開く担任の松田が入ってきた。日本史の教師は話を中断する。クラスの何人かは何事かとひそひそと話している。
「秋月おるかー?」
名指されたことにより、クラス全体の視線が一斉にこちらに集中する。松田は僕がいることを確認すると、手元のメモを見ながら言った。
「秋月、○○病院から連絡が——」
霞が入院している病院の名前だ。
「——ッ!」
探るような視線がクラス全体から向けられるが、そんなことは気にしない。というよりも頭が真っ白になったせいで気にするどころではなかった。
心臓の鼓動が速まる。胸の中にあるいやな予感は膨れ上がるように増幅していく。焦りと不安が加速していくばかりだ。途端、居ても立っても居られなくなった。
「お、おい、どこへいく秋月っ! まだ話は——」
教師の制止を振り切り、昇降口に向かって廊下を無我夢中に走る。途中、怒鳴り声が聞こえた気がするが、無視をする。学校から病院までは歩いて四〇分ほどの距離。全力で走れば二〇分で着くだろう。タクシーを使うことも考えたが、待ち時間を考慮すると走った方が早い。第一、今の僕にはほんの少しでも待つなんてことはできなかった。
学校の校門を飛び出し、あらん限りの全力で駆け抜ける。体中が酸素を求め。(、)自然と息が荒くなる。呼吸をするたびに肺が軋み、悲鳴を上げる。だが、そんなのは関係ない。ひたすら全力で走る。今は速く霞のところへたどり着くことだけを考えてればいい。[24]
「……はぁ……っ……霞……!」
そうして走り続けること二〇分。僕は必死の思いで病院へとたどり着いた。
病院にたどり着くと一直線に受付に駆け込んだ。受付をしていた女性に驚かれたものの、事前に河下先生から知らされていたらしく、すぐに手続きをしてくれた。
病室に早足で向かうと病室の前に河下医師が立っていた。[25]
全速力で走った反動が痛みとなって全身にのしかかる。息も切れて、まともに声も出せない。そんな状態だが、辛うじて言葉を絞り出す。
「……霞は……っ!」
「大丈夫、霞君は生きてるよ」
河下医師が言う。僕はその言葉に安堵した。が、その安堵は続く言葉によって一瞬のうちに砕かれる。
「とはいえ、かなりまずい状態だ。一時間ほど前に霞君の心臓が一度止まったんだ。延命処置の結果なんとか盛り返してなんとか息もしているんだが……」
——そう長くはもたない。
河[26] 下医師は一瞬ためらいつつも、包み隠さずにそう言った。
「霞君いわく本来ならばその時が最後だったんだ。だから、いま生きているのはたぶんだけど奇跡みたいなものなんだ」
河下医師がこちらに向かって頭を下げる。[27]
「すまない。本当はこの事を君に伝えるべきだった。けど、霞くんたっての要望でね。どうしてもこの事だけは君に伝えるなと。本当にすまない」
扉を開くとベッドには横たわる霞の姿。近くには玲子さんの姿もあった。霞は人工呼吸器に繋がれていて、その顔は苦悶の表情を浮かべていた。
「かすみっ‼」
無我夢中に霞のもとへと駆けよる。
「……やっほー、なおと……それともおはよう、かな………? もう、わかんないや……」
僕に気づいた霞が閉じていた瞼を開け、こっちを見た。いつものようにあいさつを口にしようとするが、うまく声が出せないのか、途切れ途切れのかすれ声だ。
「なんで嘘ついたんだよっ……! もう少しで僕は何も知らないまま——っ!」
「……ごめんね、直人。直人を心配させたくなくて……嘘ついちゃった。怒ってる?」
「ああ、怒ってるに決まってるだろ。ハリセンボン飲んでもらわないと割に合わないぞ」
「ええぇー、それは困るよぉ」
わざとらしく、おどける霞。そんないつものようなやり取りに気をとられて、次に続いた言葉に不意を打たれた。
「だけどね、ほんとはそれだけじゃないんだよ。私はこの先もね、直人と一緒に生きていたいって思ったから。だから頑張れたんだよ」
どこか恥ずかしそうに、照れくさそうに彼女は言う。僕はその言葉がただただ嬉しかった。
「どうだ……直人の彼女はすごいだろ」
作られたのは弱弱しいピースサイン。だけど、いつだって変わることのない自信満々なピースサイン。同時にそれが強がりであることも僕は分かっていた。けど、それをあえて口にはしない。
「ああ、さすがは僕の彼女だな」
「ふふん、そうでしょ。もっと褒めて」
「そうだな、霞はほんとにすごいな」
照れくさそうに微笑む霞。だが、それは長くは続かなかった。
「でも、ごめん。もうダメみたい」
「——っ! なに言ってるんだよ! 霞は乗り越えただろ! これからきっとよくなる! よくなるはずなんだ……っ!」
それは単なる希望的観測だった。いや、希望的観測というのにもほど遠い。現実から完全に目を背け、そうであってほしいと願うだけのただの空想。だが、そんな馬鹿げた空想にすがることしか今の僕にはできない。
そんな僕を見透かしてか、霞が聞いてくる。
「そういえばさ、直人。探し物は見つかった?」
僕は正直に答える。目はそらさずに真っ直ぐと、彼女の瞳の奥に映る微かな光を逃さぬように。
「……ああ、見つかったよ。ちゃんと見つかった」
僕が探していたもの。それは生きる意味。僕は生きる意味なんてないと思っていた。
だけど見つかった。生きる意味なんてほんとはなんでもよかったのだ。探せばすぐそばにあった。たったそれだけのことだった。でも僕は逃げていた。生きる意味を見つけることから。なによりも、探して見つからないことを恐れていた。
「それもこれも霞のおかげだ。霞が僕にそれを教えてくれたからだよ。……なのにさ、その霞がいなくなったら……僕はどうすればいいんだよ……っ! やっと見つけたんだ……! ようやく手に入れたんだよ! だから失いたくない……失いたくないんだよ!」
「失ったら新しく探せばいいんだよ。私のことは最初からなかったことにしてさ」
「そんなことできるわけないだろっ! 霞は確かに存在している。今も僕の目の前にいるじゃないか……! 嘘でもそんなこと言うなよ‼」
だって僕は——
「来年の夏もその次の夏も同じようにさ……夏だけじゃない、秋だって冬だってそれに春だって、同じように僕は霞と一緒に過ごしたい」
それが長く夏休みの中で僕が手に入れた答えだった。
「そうだったらいいなぁ。直人と一緒に色んなことしてさ、ときどき喧嘩しちゃって、そしたら仲直りして、またいろんなことするの。きっとたのしいのになぁ……」
惜しむように、叶わないとわかっている夢を語るように霞は言う。見つけた宝物を大切にしまい込むように。
霞は正面を向くと、思い返すように目を閉じて、話始める。
「……むかしね、お母さんが最後に、私にこう言ってくれたの。どんなに辛くても頑張って生きていればね、いつか振り返ったときに自分はこんなところまで歩いてきたんだなぁって、頑張ったなぁって思える日が来るんだって。それはその人にとって大切な宝物で、その人が生きた意味になるんだって」
光が、霞だった何もかもがこぼれ落ちていく。こぼれ落ちていくものを必死にかき集めようとするが、光の粒は無情にも僕の手をすり抜けて消えていく。それは霞の命そのものであるかのように。
「それは大切な誰かがきっと次につなげてくれる。その人の生きてきた意味が、その誰かにとって生きる意味になるんだって。そうやって誰かにつないでいって人は生きていくんだって」
どれだけ足搔こうとも零れ落ちていく光を止めることはできない。一つ、また一つと消えていく。
「でね、いま私は自分の歩いてきた道を振り返ってみてね、頑張ったなぁって、想像よりも遠くまで歩いてきたなぁって。すごい満足しちゃってるんだ。おかしな話だよね、ホントはやり残したこと、やりたかったことがいっぱいあるはずなのに。もちろん、もっと直人と一緒にいたいこともそう。だけど、もう充分なんだ。それはきっと直人と出会えてたからだね。最後の夏がこんなにも楽しくなるなんて思ってなかった……もう充分なんだよ」
「充分なもんか、まだ、これからだろ! 桃咲霞の人生はこれから……これ、から……っ!」
その先の言葉が出ない。出さなきゃいけないのに出すことができない。どれだけ頑張ってもその先を言えない。わかっていたから。それがたったいま失われているものであると。
「ううん、充分だよ。私には充分すぎたから、もういいの……だから、寂しいけど、もう、お別れ、しなきゃ……」
「……そんな…………いやだ、……いやだっ! 死ぬな……死ぬなよ……かすみっ! 僕をひとりに、しないでくれ……!!」
「……直人、お別れは……えがおで、だよ……」
「笑えない……霞がいなくなったら、もう僕は笑えないんだよ……!」
しょうがないな。と霞はそんな顔をする。
「……なおとは……ちゃんといきなきゃ……だめ……だから、ね……………」
最後は微笑みながら
音もなく唇だけが
——ありがとう、じゃあね
と、だけ動いた。
「……かす、み……?」
霞の手を握ってみるが反応はない。
「………………」
「……うそ、だよな……? なあ、なんか言ってくれよ。いつもみたいにさ、笑ってさ。冗談だって……っ……!」
言葉は返ってこない。
「僕の学校に行くんだろ……? これからたくさんいろんなところへ行くんだろ……? 答えてくれよ……! なあ……っ!」
必至に霞の手にすがり着くがその手は冷たい。かすかに残っていた体温も徐々に失われ——やがて、なくなった。
背後からポンと肩をたたかれる。河下医師が悲痛な表情で首を振る。河下医師の後ろにいる看護師の玲子さんも沈痛な面持ちをしている。
それが何を示しているかは言うまでもなかった。
夏の終わり、彼女——桃咲霞は死んだ。
次の朝を迎えることなく。次の季節も迎えることなく。
「……なんで……なんで、だよ…………」
受け入れたくない、受け入れたくないはずなのに頭ではその事実を否応なく理解してしまっている。そんなはずはない。霞はまだ生きてる。そう言えたらどれだけ楽だったろうか。
まやかしは事実の前では無意味だ。ただ塗りつぶされるだけ。
静まり返った病室で悲しみと喪失感だけが僕の体を満たしていく。僕の空になった空洞をそれらが埋め尽くし、溢れかえった。
「……うっ、ぐう……ぁあああああぁぁ……っ‼」
病室に嗚咽まじりの叫び声が鳴り響く。止める者は誰一人いなかった。僕は声が枯れ果てるまで泣き叫び続けた。
第七章 終わる夏に笑顔とさよならを添えて
暗闇の中、瞼を開ける。カーテンの隙間から覗く日の光が鬱陶しい。周りを取り囲むのは自分の家のものではない天井と壁。霞が死んだ後のことをいまいちよく思い出せない。覚えているのはこの部屋に案内されたことぐらいだ。それから一晩、僕は一睡もしていなかった。
僕の中にあるのは喪失感と虚無感だけだった。今の僕はセミの抜け殻だった。中身がない空っぽなままの、すべてを失い取り残された存在だった。
もしあの時、霞と会っていなければ。霞と会わず死んでいれば、こんな思いする必要なんてなかったのかもしれない。
——そうだ、死ねばいいじゃないか。
そうすれば何も感じないはずだ。
死ぬとしたらあそこだ。霞と出会った場所。なにもかもが始まったあの橋。
霞との思い出があればどこまでも沈んでいけるはずだから。
そう考えると気持ちが楽になった。
部屋から出て、廊下を歩く。リノリウムの床の上をゾンビのように足を引きずりながらのそのそと進む。まるで自分が操り人形になったのか、両足が勝手に動く。
スタ、スタ、スタ。
あの橋に向かって歩みを進めていく。
スタ、スタ——
だがそれは、途中で現れた一人の人影に阻まれた。目の前に現れたのは霞の看護師だった玲子さんであった。
「どこへ行くつもりですか? 秋月さん」
玲子さんは相変わらずの無表情で聞いてくる。
「どこだっていいでしょ、別に僕は患者じゃないんですし、どこへ行こうが僕の勝手です。玲子さんには関係ないことでしょ。だから、そこをどいてください」
語気を強めていうが、玲子さんは表情一つ変えない。
「秋月さん、あなたは死ぬつもりですか?」
「……っ! だったら何だって言うんですか……止めにきたんですか? 死ぬな、って、生きろ、って言うんですか? そんな偽善まみれの適当なことを言いに来たんですか」
「いえ、私にそんなつもりはありません」
「……看護師なのにひどいですね玲子さんは」
嫌味ったらしく言う。もう僕にとっては他のことなどどうでもよかった。僕を突き動かすのは今すぐにでも消えてしまいたいという衝動。早く霞と同じ場所に行きたい。ただそれだけのことだった。
「そうなのかも……しれませんね。秋月さんの言う通り私はひどい人間です」
玲子さんは僕の言葉に激高することなく答える。
「私にはあなたの失ったものの重みは分からない。どうすることもできません。ですから、秋月さんが死ぬつもりだとしても……私に止める権利はない」
「じゃあ、そこどいてください。はやく、霞にところへ行かせてくださいよ……!」
「いいえ、それは無理なお願いです」
「なんで! 止めないって言ったじゃないですかっ!」
周りを気にせずに声を荒げる。玲子さんが動じることはなかったが、かわりに僕を強く見据えて言う。
「ええ、言いました。ですが、その前にあなたに渡さなければならないものがあります。それを受け取ってもらうまではここを通せません」
「そんなものいらない! いいからそこをどいてください!」
怒鳴り声をあげる。たぶん渡されるのは霞の遺品かなにか。そんなものでは霞を失った痛みは消すことができない。傷も癒えないし、喪失を埋めることもできない。むしろ、霞が死んだことを思い出すだけ、ないほうがマシだ。それにこれから死ぬ僕には必要のないものだ。
「いいえ、それはできません。それは霞さんが生前に私に託したものです。なにがあってもあなたに渡すよう頼まれています」
「————っ!」
霞が僕に残したもの。そう聞いた瞬間、心が揺らぐ。さっきまで頭に上っていた血も急激に冷めていく。
「ですから、秋月さんがなんと言おうと、必ず受け取ってもらいます」
「……僕には受け取れ……ません。その資格がないですから……」
今の僕にはそれを受け取る資格なんてない。あっていいはずがないのだ。なぜなら霞が最後に残してくれた言葉を裏切り死のうとしているのだから。
「秋月さん」
今まで感情の起伏を見せることのなかった玲子さんが強く、叱るように僕の名前を呼ぶ。
「それは違います。霞さんの死を誰よりも悔やんでくれるあなただから、自らを傷つけてしまうほどに悲しんでくれるあなただからこそ、霞さんは渡してほしいと」
「違うっ! 僕はただ逃げようとしているだけで……!」
「ええ、確かに秋月さんは逃げようとしています」
玲子さんは言う。
「死のうとしていることが、ではありません。死ぬことが必ずしも逃げることだとは限りません。人はいつか死にます。すべてを受け入れた後に死を選ぶこと、それは一つの答えです。決して、逃げることではない、と少なくとも私はそう思います」
どこか悟ったような言葉。玲子さんの過去は知らないが、もしかしたらこの人も同じような経験をしたのかもしれない。そう感じるほど玲子さんの言葉は重かった。
「ですが、今のあなたは受け入れようとしていない、ただそれから逃れるために死のうとしている。それは正真正銘、逃げです。あなたは霞さんから目を逸らしている、霞さんという存在から逃げている」
玲子さんの言う通りだった。僕は桃咲霞という存在から逃げていた。霞が死んだ事実から目を逸らすために。これ以上霞のことで傷つかないために。一番最悪な選択肢を選んでいた。
「霞さんは逃げませんでした。すべてを受け入れたうえで抗いました。あなたはそれを知っているはずです。そのあなたが逃げるということは、霞さんを否定することになります。それをあなたは望んではいないはず。ですから、秋月さん、あなたは逃げてはいけない」
そうだ、霞は逃げなかった。世界を呪いたくなるような理不尽な運命であっても、どれだけ頑張っても変わることない結末を知ってもなお、逃げずに精一杯生きることを選んだ。それは僕が一番知っていたはずだ。だというのに僕は。
「……わかり、ました。……それといろいろと失礼なこと言って……すいませんでした」
「いえ、謝る必要はありません。気にしていませんから。では、ついてきてください」
謝る僕に対して、本当になんともないかのように答える。玲子さんについて行く。
案内されたのは霞がいた部屋のある病棟とはまた別の病棟だった。現在その三階に当たるフロアの廊下を歩いているのだが、廊下には僕と玲子さん以外誰もいない。それどころか部屋からも人の気配がしていない。玲子さん曰くこの病棟は心療内科の診察室がある一階以外はあまり使われてないらしく、基本は物置となっているそうだ。
そのうちの一室の前で玲子さんが立ち止まる。目的地の部屋らしい。
「用意をするので少々お待ちを」
そう言って玲子さんは部屋に入っていた。必然、僕ひとりが廊下に取り残される。ひとりになった途端、再び孤独を感じた。廊下は薄暗く、なぜだか冷たく感じる。世界から突き放されたようなそんな感じだ。早くこの場から消え去ってしまいたいが、踏み止まる。霞が残したものが何かは分からないが、なんであれ受け取らなければならない。すべてを受け止めてから終わりにしよう。覚悟はできた。
ちょうど部屋の中から声がかかる。
「どうぞ、入ってください」
扉を開け、部屋に入る。部屋の中央には机と椅子が向かい合うように二組。それと台に乗せられた巨大なモニター。学校の視聴覚室を連想させる部屋だ。
「そこの椅子に座って下さい」
促された席に言われるがまま座る。
「では、私はこれで」
玲子さんは僕が座るのを確認するとお役目御免と言わんばかりにさっさと部屋を出ていく。ただ最後に部屋から出る直前で立ち止まり、振り返り、思い出したように言った。
「ああ、一つ言い忘れていました。この部屋は音が漏れる心配はありませんので」
どういう意味なのか聞きたかったのだが、玲子さんはそれだけ言って「では」と部屋の外へ出て行ってしまった。訳も分からないまま、ただぼんやりと室内を見渡す。
そういえば霞が、一度でいいから僕の学校へ行ってみたいと言っていた。霞のことを思い出し、自然と俯いてしまう。そんなことも叶えてやれなかった自分に怒りが沸きあがってくる。怒りのあまり、こぶしを強く握り締める。深く爪を食い込ませた部分から血がにじみ出る。あと少しで手のひらの肉が食い込んだ爪に抉れるというその時——
ふと、声がした
『やっほー、明人』
パッと勢いよく顔を上げる。
その声は何より一番聞きたかった声で。
誰よりも会いたくて、誰よりも話したくて、誰よりも一緒にいたかった少女の声で。
画面越しに彼女——桃咲霞はいた。
「かすみ……」
僕は彼女の名前を呼ぶ。もういない彼女の名を。
『もう、暗い顔してるなぁー』
画面越しの霞はいつも通りの笑顔で言う。陽だまりのような笑顔。今となっては失われてしまった輝きだ。
『なんでわかるかって? フッフッフ、実は私、超能力者だからね。直人が考えていることなんてお見通しなんだよ。試しにいま直人が考えていることを当ててあげる』
それは夏休みの間ずっとそうだった、いつもと変わらない日常。だけど、霞だけがその日常にいない。それだけが事実で、現実だった。あの目が霞むようなまぶしい日常が戻ってくることは二度とない。
「……なら、当ててみろよ」
いつものような返しを液晶の画面に映る霞に言ってみる。
『死のうと思っているでしょ?』
「ああ、そうさ、僕は……」
霞のいなくなった世界じゃ、これ以上生きる意味なんてないから。
『きっと、私がいなくなって、生きる意味がなーいとか考えてるでしょ』
「……はは、何でもわかるんだな」
あまりにも霞が僕の言葉を見計らったかのようなタイミングで答えるから、実は生きていて別の部屋から話しかけているんじゃないかと思ってしまう。そんなはずがないのは分かりきっているのに。
『そりゃもちろん、直人のことならなんでもわかるよ』
「じゃあさ、なんで僕を一人にしたんだよ……!」
『ごめんね。直人にすっごくつらい思いさせてるんだと思う。そのぐらい直人は私のこと好きだからね。それはきっと私にとって幸せなことなんだと思う。いまの私には実感わかないけどね』
そう言ってはにかむ霞。そうだよ、僕はそのぐらい霞のことが好きだったんだよ。
世界というやつは本当にひどいやつだ。気まぐれで残酷で、死にたがりの僕ではなく、必死に生きようとした彼女を殺した。逆であったらどれだけ幸せだったか。
『そんな直人君が大好きな彼女から一つお願いがあります』
わざとらしく片目を閉じ、人差し指を立てる霞。その表情としぐさは蠱惑的で可愛らしい。
そして、彼女は言った。
『直人は生きること』
それが霞の「お願い」だった。
『生きて、私ができなかったことを代わりにするの。行ったことない場所にいっぱい行って見たことないものをみるの。あー、でもそのためには働かないとだね。直人が働くとしたら……お医者さんとかどうかな? 私は無理でも私と同じような人の病気を治してあげるの。うん、それがいいね。難しそうだけど、直人ならなれる気がするし』
「買いかぶりすぎだ。僕が医者になれるわけないだろ」
まともに勉強をしてない人間がなれるものではない。まったく何の根拠があればそう言えるのだろうか。そんなのは関係なしと言わんばかりに霞の話は続く。
『そしてね、素敵な出会いがあって、結婚するの。あ、でも少しは私のこと引きずってほしいな。そうだな……三年、は重すぎるかな……一年? 半年? 一週間……はなんかいやだなぁ……うーん、一ヶ月かな?』
「一生引きずるよ、馬鹿……!」
『それでね、子供もできて、家族仲良く暮らすの。たくさんの思い出を作って、おじいちゃんになるまで幸せに過ごして、それで……それで…………』
急に声に勢いがなくなった。霞の声は徐々にフェードアウトしていく。やがて話が途切れる。
『……………いやだよぅ』
不意にそんな声が聞こえた。一度も聞いたことのない、別の誰かが発したのではないかというほどの弱々しい声。霞の頬に一筋の雫が流れ落ちる。涙だ。霞は泣いていた。
『……っ……いやだぁ! そんなのいやだ! 直人とお別れなんてしたくないっ! もっと……もっと、一緒にいたいよ……っ!』
声は徐々に怒りをにじませたものになっていく。
『なんで………なんで、なんで、なんで……っ!』
それは小さな子供の癇癪だった。自分の思った通りにいかない現実に怒り、どうしていいか分からずただ泣き叫ぶことしかできない、子供の癇癪。桃咲霞が一度と見せなかった弱さだ。顔をくしゃくしゃにして泣く霞の姿はとても悲痛で、見ていて胸が痛む。
『もっと直人とたくさん遊びたいよっ!』
——ああ、そうだよ。僕も霞ともっと遊んでいたかった。
『もっと直人とたくさんお話したいっ!』
——なんてことのない、くだらない会話を永遠と繰り返していたかった。
『時々喧嘩して、仲直りして……ずっとずっと一緒にいたいよ……っ!』
——そんなふうに長い時間を二人で過ごせればいいと思っていた。
『なのになんで……っ! まだ喧嘩もしてない! 直人と一緒にやりたいこと全然やれてないっ! やれて、ないのに……っ! こんなの……こんなの理不尽だよ……! おかしいよっ! ……わけが、わけがわからないよ……』
目尻がかっと熱くなる。悲しくて、悔しくて、嬉しくて。僕の胸の中はぐちゃぐちゃだった。こみ上がる思いが雫となり、頬を伝う。涙なんてもうとっくに枯れたと思っていたのに僕の目からとめどなく溢れてくる。
『……あれれ? おかしいな……こんなはずじゃなかったのにね。あはは』
霞は涙をぬぐうと、いつもの元気でまっすぐな少女、桃咲霞として振舞う。それは紛れもない霞の強さだった。そして、僕はきっとその強さに惹かれていた。
『つまりね、何が言いたいかというと、直人に生きてほしいってこと。直人、私に言ったよね。そんなのは身勝手だって』
それは霞と出会った日に僕が言った言葉だった。
『うん、きっとその通りなんだよ。これは私の身勝手なお願い、わがままなんだ。だって、私は直人に生き続けてほしいって思うから。それがどんなに辛いことなんだとしても、私は直人にただ生きていてほしい』
霞は言う僕にただ生きていてほしい、と。なんて一方的なんだろうか、僕はただ霞に生きていてほしかっただけだというのに。
『とまあ、これが私のお願いです。……あ、もちろん、破ったらハリセンボン丸のみだよ!』
いつだってそうだ、勝手に約束取り付けて、勝手に人を巻き込む。わがままだ。本当にわがままだ。だけど、そのわがままに救われるどうしようもない奴もいて。
『疲れたら、立ち止まってもいいし、振り返ってもいい。つらかったら弱音を吐いてもいいし、泣いたっていい。それでも、直人には明日を生きてほしいな』
流れる涙が止まらない。頬を流れる涙は床にこぼれ落ち、小さな水たまりを形成していく。涙は枯れることなく流れ落ちていく。
それは間違いなく僕が生きているという証だった。
『もう、お別れは笑顔で、って、言ったでしょ? 今はまだ泣いちゃだめ。笑顔で頷かなきゃ』
「無理だよ、そんなの……!」
『直人は困ったさんだなぁ。ほら、スマイル!』
頑張って笑顔を作ろうとするが、流れる涙で思ったようにいかない。それでも精一杯の笑顔を作る。
上手く笑えているだろうか。
『うん、よろしい!』
そんな僕を見て霞は満足げに頷いた。
よかった。涙はまだ止まってないけど、僕はちゃんと笑えているみたいだった。
『それでね。直人には覚えていてほしい。私がこの世界で生きたこと。生きることが素晴らしいことだって。それをこれから直人が出会う大切な誰かにつないでくれたら嬉しいな』
紛れもない彼女の言葉。当たり前のなんでもないよくある言葉。けれども、その当たり前は当たり前じゃなくて、いつかはなくなってしまうもので。その言葉は僕の胸に深く刻み込まれていた。
『以上! 直人の可愛い可愛い彼女からでした! ………ううっ、自分で言うとなんか恥ずかしぃ。って、わっ、直人きちゃうっ⁉』
ドタバタと慌てる霞。その様が実に霞らしくて僕は泣きながら笑ってしまう。もうじき終わりの時間だ。まだ終わらないでほしい、このまま永遠に続いてほしい。そう願ってしまうが、それが叶わないことは分かっていた。
夢はいつかは覚めてしまうものだから。
終わりの時は必ず訪れる。
最後は陽だまりのような笑顔で——
『さよなら、直人。大好きだよ』
——ブツリ。画面が消える。
「……くそ……こんなの、こんなのずるいぞ……これじゃあ、死ねない……だろ……!」
霞の残した身勝手な願いは、呪いのようにこの先、僕を生かし続けるだろう。そして、その呪いの言葉は僕の新たな生きる意味として存在し続ける。だから、僕は生きなければいけない。それを次へとつなげなければいけない。それが霞の願いであり、わがままであり、彼女との約束であるから。
だから。だから、今だけは泣いても、いいよな?
どこからか声が聞こえた気がした。
「………うっ……っ……あぁあああぁぁ……かすっ……み……っ!」
僕は泣いた。体からすべての悲しみを振り絞るように、ただ泣き続けた。
その後、一時間近くも散々泣き続けて、涙を使い果たしてしまった。流石にこれ以上は出なかった。腕でこすり涙の残骸を拭く。もし、いま、鏡に自分の顔が映ったら、笑えるぐらいに目を赤く腫らしてひどい顔をしているに違いない。それぐらい泣いた。
だけどそれでいい。たぶんこれから先、今日より泣くことは一生ないから。
外の景色を見ようと、椅子から立ち上がり、窓辺に近づいた。窓の外に広がる景色は、ちょっと前までのせわしさが嘘だったかのようにどこか落ち着いている。遠くに見える山々は少しずつだが色づき始めていた。
窓を開けると、心地のよい秋風が入ってきた。
もう蝉の声は聞こえない。
夏が終わり、季節は秋だった。
少し遠くの空には夏に置き去りにされた入道雲が寂しそうに浮いているのが見える。ちょっとした夏の名残だ。
この先の僕がどうするかは決まっていた。
まずはこの夏に別れを告げなければならない。
なんて言えばいいのかは知っていた。
どんな表情をすればいいのかも知っている。
もう終わってしまった夏に一言、笑顔で別れの言葉を告げる。
「——さよなら」
僕は歩き出す。
夏の面影に背を向けて。
新しい夏へ向けて。
エピローグ
雑木林を抜けると石造りの橋が見えてきた。周りには雑草が好き放題に生えていた。病院から歩いてきて一〇分ほどの距離にあるこの石橋の柱には『つなぎ橋』という文字が彫られている。
橋の上に小学生の女の子がいるのを発見する。女の子は手すりの上に座って、つまらなさそうに景色を眺めていた。女の子に声をかけた。
「はぁ、またこんなところにいたのか。危ないぞ、そんなところに座ってると」
「なんだ、アッキーか」
声をかけられた女の子はつまらなさそうな表情のままこちらを向く。
「なんだじゃないぞ、桜ちゃん。勝手に病院抜け出しちゃダメだろ? あと秋月先生な」
「別に、私の勝手だし。アッキーこそ病院抜け出していいわけ?」
「いいんだよ、いまは休憩中だからな」
「ふーん、暇なの?」
「……まあな」
あの日から一〇年が経った。あの後、僕は医者になることを目標に必死に勉強を始めた。それまであまり勉強を熱心に取り組んでいないだけあってかなり苦労するはめとなった。それでもあきらめずに全力でやった結果、一年の浪人を経て地方の医科大学に入り、無事卒業することができた。そして現在は地元の総合病院で研修医をしている。霞が入院していた病院だ。研修医ではあるが立派な医者というわけだ。
女の子の方は坂崎桜という名前で年齢は十歳。病気で病院に入院している子で、僕が今ついている医師の担当の患者だった。なので、代わりに僕が回診や検査を担当することもあり、空いている時間に話し相手になったりもしていた。
「……それにしても、よくここがわかったね」
「まあ、桜ちゃんがほかに行きそうな場所はここぐらいしかないからな。……ったく誰だよ、桜ちゃんこんな危ない場所教えたのは」
「教えたのアッキー」
「…………」
特大ブーメラン。最近の小学生は容赦がない。
「もうすぐ夏だな」
「まだ少し早い」
「……」
「……」
わずかな沈黙。
「……どうしてここに来たんだ?」
「別に、アッキーには関係ない」
「はあ、そんな暗い顔してたらだめだぞ、桜ちゃん。せっかく可愛いんだから笑わなきゃ」
「……それ、口説いてるの? アッキー、もしかしてロリコン?」
「もしかしなくても先生はロリコンじゃない」
「……」
「……」
再びの沈黙。なぜだかすごく気まずい。
しばらくの沈黙の後、今度は桜ちゃんが先に口を開いた。
「…………ここだったら死ねるかなって思っただけ」
「……そうか」
「アッキー、知ってるでしょ私の病気。どうせ、治らないし。ここで死んでも変わらない」
確かに桜ちゃんの病気は難しい病気を患っていた。一部の免疫が異常をきたす病気だ。
「なに言ってるんだ、桜ちゃんの病気は治るよ」
「でたらめ言わないで」
「でたらめじゃないぞ」
その言葉に偽りはない。霞ちゃんの病気は治らないわけではない。いまの医療でなら、少し時間はかかるがちゃんと治る見込みもある。しかし、それに反して桜ちゃんの表情は曇ったまま。
「だとしても……私が生きている意味ないから……」
その言葉に込められている意味を僕は知っていた。桜ちゃんには親と呼べる親がいない。そして、長い入院生活のせいで学校にも行けず、友達もろくにいない。だからこそ僕は桜ちゃんのことを気にかけていたのかもしれない。
「そんなことはない」
「やめて、アッキーも命は大事にしろとか、死んじゃだめだってみんなと同じこと言うんでしょ」
いつかの自分を見ているようだった。ああ、きっとこの子も同じなのだ。生きる意味が何か分からなくて迷っている。どうすればいいのか、わからないのだ。なら僕がすることは簡単だ。
「いいや、そうは言わないさ。死ぬのも生きるもその人の自由だ」
「……アッキー、お医者さんでしょ……ヤブ医者?」
「はは、やぶじゃないよ。精一杯生きて、やることを全部やり終えたのなら、その後は死のうが生きようがその人の自由だ」
それはいつかの僕に言い聞かせるように。いつかの僕に言ってくれた霞のように。
「けどな、それでも誰かはその人に生きててほしいって思ってる。もしかしたらその誰かはまだ出会ってない、これから出会う人なのかもしれない。たとえそうだとしても、生きててほしいって思う誰かがいる限り精一杯生きなきゃだめなんだ。だから、桜ちゃんはまだ死んだらだめだ」
「結局、言ってること同じゃん」
「かもな」
「それに私にそんな人はいない。……私がいなくなったところで困る人はいない」
「いいや、いる。少なくとも先生は桜ちゃんがいなくなったら困る。桜ちゃんがいなくなると話し相手いなくなっちゃうからな。そうなったらすごい悲しいぞ」
「そんなのアッキーの勝手」
「そうかもしれないな。たしかに先生の勝手だ。でもな、それでも先生が——僕が桜ちゃんに生きていてほしいんだよ」
ポンと桜ちゃんの小さな頭に手をやる。
「それに生きる意味がないなら探せばいい。探していれば見つかるもんだよ。夏休みの宿題みたいなもんだ。先生も少しぐらいは手伝ってやる。だから、な?」
そう言うと、頭に手をのせられた桜ちゃんはどこか照れくさそうにして答えた。
「……ん、わかった。しょうがないからもうちょっとだけ生きててあげる」
「うん、よろしい」
ちゃんと伝わったようだ。ぐしゃぐしゃーと頭を撫でてやる。
「アッキー、やめて。子ども扱いしないで」
死ぬほど嫌がられた。すこし、ほんの少しだけ傷ついた。
「ごめんごめん」
桜ちゃんはむすっとした顔でそっぽを向いている。難しいお年頃ってやつなのかもしれない。
「アッキーってなんか変な先生だね」
「そうか?」
「うん、そう」
「……まあ、そうかもしれないな」
「だから、アッキーには彼女ができない」
「ぐっ……痛いとこをついてくるな」
ほんとに子供は容赦がない。結局こればかりはどうにもできなかった。あの日以降たくさんの人と関わるようになったが、誰かに恋をするということはなかった。それはたぶんこれから先も同じなのだ。だから、まあ、これぐらいは許してほしい。
「よしじゃあ、帰らないとな」
「……ん」
「そうだ、特別に先生の話をしてやろう。聞いておどろけ。これでも先生には昔、彼女がいたんだぞ」
「アッキー嘘はよくない」
「う、嘘じゃないぞ! それはもう可愛い彼女で」
「アッキー、昔の女を自慢する男はモテない」
「ぐふっ……ほんと痛いところついてくるな、桜ちゃん……。まあいいや、その子との最初の出会いはこの橋だったんだ、それで——」
病院への帰り道を歩きながら、そんな切り出しで語り始める。
あの夏を共に過ごした少女の話を。
あの夏を精一杯生きた少女の物語を。
そうやって誰かが紡いできたものをつないでいくことだけが僕にできることだから。
霞がくれた、僕の生きる意味なのだから。
ふと振り返ると懐かしい誰かがこちらを見ている、そんな気がした。
だから僕は忘れない。
君がいた最後の夏を、君の死を忘れない。
(完)
あとがき
もるびっち「 嘘から出たまこと」
よく分からない短編になってしまいました。出すかどうかも迷ったのですが、出さないよりいいだろうということで、ひとつご容赦ください。
北海道牛乳プリン「Happy Avocado Day !」
本当でないことをずっと本当だと信じてしまうこと、ありますよね。私はジブリ映画の「千と千尋の神隠し」に出てくるおにぎりを、高1までずっとラ〇チパックだと思っていました。
ドクダミ「ペアを組んで」
この物語の主人公は置かれている環境が悪すぎるかもしれません。現実はそれほど悪くないでしょう。いいこともあれば、悪いこともある。そんな感じです。
尾井あおい「ロールシャッハ奇譚」
今回書いたのは、心療内科に心理検査を受けに行ったときのエッセイです。
本文冒頭に載せた模擬図版は、押入れから五年ぶりくらいに習字セットを引っ張り出してきて作りました笑。
海鳥奏「ラストサマーメメントモリ」
まずはひとつ、部誌を編集・発行してくれた方へ(主に編集長)。気づいたらめちゃくちゃ長くなってました。本当にすいませんでした!(土下座) ですが、おかげさまで無事作品を完結することができました。この作品を読んで何かしら感じてもらえれば幸いです。ヒロインである桃咲霞を作る上でkey(ゲームブランド)さんのゲーム「Summer Pockets」のヒロインの一人である久島鴎から影響を受けています。と言いつつも海鳥の好きなルートは別のヒロインのルートだったりします(笑)。それ以外にもkeyさんの他の作品からも色々と影響を受けています。長くなってしまいましたが、また次回会いましょう。