カフェは必要な無駄
カフェゼミで飯田美樹さんの話を聞き最初に思ったのは、パリのカフェと日本でいうカフェは全く違うのだということ。カフェゼミが始まる前に、参加者の方々と“カフェ”について話してみた。なぜなら、日本のカフェというと女子会やおしゃれなスイーツというイメージが強く、 “第三の場所”として機能しているとは言えないカフェが多いと考えていたので、他の参加者の方々の意見を聞きたかったから。そうすると、様々な意見を聞くことが出来た。その中の一つに地域性によってカフェの状況が異なることがあるといわれ、私がみているカフェの視野って狭いのだなと思った。加えて、このことは、ほかのことでもいえることで、無意識のうちに自分が固定概念を作っていることを気づいた。まさかそんなことに気づくとは自分でも思ってなかった。
いよいよ、飯田さんのお話を聞いていると、カフェは人と出会う場であるというのに人である店員の目が気にならないぐらい広いところがカフェの良いところとおっしゃられ、人に出会いたいけど干渉はされたくないというニーズを満たすカフェという場所はとても不思議なところだなと思った。でも、これがカフェがサードプレイスと言われる所以なのかもしれない。背景を気にされず、自分がしたいことができて、独りにならないで済むのがCaféなのかな。
カフェの意義を考えていたら、ある意味サードプレイスって無駄な場所ともいえる気がした。もちろん政治や芸術の新しいことが生まれる場所ということも理解しましたが、それらのことって生産性があるかどうかって言われたら明確なものがない気がするし、もし政治や芸術の新しいものが生まれなくても、絶対に困るってわけでもないし、社会としてはなくても困らないもの=無駄だなと思った。
じゃあ、カフェ 文化っていらないのかな。それは違うと思う。無駄がない社会って個人にとっては良くないことだと思うから。社会を形成しているのは「人」なのに、その人が幸せになれないなんて存在意義がなくなってしまう。この件は、自殺問題等にも関係すると思う。例えば、いじめとかつらい環境になった時、サードプレイス的な無駄があると逃げることが出来て、自殺という選択肢を選ぶことを防ぐことが出来るんじゃないかなって思うから。なぜなら、第一・二の自分の役割だけじゃなくて第三の自分も大切にしてよいって思えてこそできることだと思うから。私は、子供頃から母とか祖母からよく「嫌なら学校なんて行かなくたっていいよ。学校に毎日行くことはそんなに重要なことじゃないよ。」って言われてたから、第二の自分だけじゃなくて第三の自分も大事にするって意識が無意識にあると思う。実際、風邪とか正式な理由がない一般的にいう“ずる休み”をわりとしてきた。でも、私には、必要なことだった。ちょっとカフェが提供するものとは違うけど、通じるものがある気がする。カフェで休憩することによって人は幸せになれると思うから。
最後に、よいカフェが観光地化してしまい、元々のユーザーが居心地よくなくなってしまうという話を聞き、この問題について考えた。経営側がカフェをよいものにしようとすると、有名になりすぎて、混むようになり、常連さんが心地よくなくなって来なくなってしまうということはカフェの元々の意義からすると、本末転倒な結果と言えると思う。実際、私がアルバイトしていたカフェも人気で一時間以上待ちになるのが普通だったので、店長や社員の方々は回転率を考えるようになり、食事後長居されることをよしっとしなくなっていました。経営学部としては、人気になり繁盛するのは良いことだと思ってましたが、カフェにおいては必ずしもよいことではないってことなんだな。このことは、ソーシャルデザインとビジネスが必ずしも合致しないということにも関係していると思った。