私が考察厨を好きになれない理由
「考察厨」という言葉をご存知だろうか。「考察」に「厨」を付けたネットスラングで、オブラートに包んでいうと「考察が大好きな人」である。
私は考えることが好きなため、考察は楽しみ方の一つとして全然ありだと思う。しかしどうしてか、私は考察厨を好きになれない。高説を目にする度にモヤモヤが湧き出してくるのだ。
今回は私が考察厨に対して思うことを書き殴ってみることにする。
考察厨を好きになれない理由
考察といえば、物の色や人の仕草、立ち位置、雲の形や道路標識、影などさり気ない描写から様々な意図(と思しきもの)を読み取る趣向である。“押し付けがましいもの”や“あたかも事実のように語るもの”は言語道断なため敢えて言及はしないが、それを抜きにしても看過は難しい。
多くは「どこどこのこのシーンはこのキャラのなんちゃらという感情を表している"のかな?"」のような、“あくまで私の解釈ですよ”という体裁を保っている。しかしどうだろうか、制作者に裏取りをしていない以上推測の域を出ないのは公然としても、“素晴らしい解釈”には一定の賛同者が現れる。場合によっては拡散され反響になる。そしてそれはやがて、狭い中でも総意となり“真実み”を帯びる。ただの憶測が“事実”であるような佇まいを見せるのだ。もっとミクロな視点で見れば、その賛同者にとっては既に“真実”となっているだろう。
風景描写などにキャラクターの心情や関係性などの意味合いを持たせることはよくあり、そういったテクニックは私も好きである。しかし、制作者の意図が明言されていないものを詳らかに、得意げに語るのはおこがましい行為ではないだろうか。一個人の想像に任せる範囲の描写に、もっともらしい“答え”を――たとえそれが正解だとしても――公言してしまうのは、些か傲慢に思えてならない。
無論、これは私に「風景描写などから制作者の意図を読み取るアンテナ」が欠けていることに起因するただの妬みであることも、否定することはできない。ただ、仮に私がその“アンテナ”を会得していたとしても、強かに弁舌を振るうことはできないだろう。作品の親、即ち制作に携わった者達が生み出した叡智は、不可侵的なブラックボックスなのである。その中身を推量することはあれど、それをおめおめと我が物顔で弁を垂れるなど私にはあまりにも恐れ多い。
この問題について、考えれば考える程シンプルさが見えてくる。私は、何の証左もない仮説を主張する行為そのものに忌避感を覚えているだけである(他記事を見ると全く説得力はないが)。それに加え、考察の対象が好きな作品であると、痛くもない腹を探られるような何とも度し難い不愉快さに襲われる。二重苦である。見なきゃいい、気にしなきゃいい、そう思うかもしれないが、見たくない情報のみを見ないで済ます方法はなく、一度見たものを見なかったことにするのは却って気になり精神衛生上良くない。
気持ちは分かる
とはいえ、鼻高々に語って悦に浸りたくなる気持ちも理解できる。考察という分野は早い者勝ちなのである。意味深な描写のそれらしい思惑に気付いてしまったら、公に分かる形で一番に吐露しなければ別の誰かにその愉悦を奪われてしまうのだ。であれば、考察厨が考察厨たる理由の一端はそこにあるのかもしれない。だとしても、私の考察厨への認識が改められることはないだろうが――。
考察の分類分け
長ったらしい前置き(本編)の後で恐縮だが、考察の種類について簡単に分類分けしてみたので良ければご覧いただきたい。
まずはざっくりと2種類に大別した。
(名前は適当)
・シリアス的考察
劇中の台詞や描写などを元に、その意味合いやキャラの心情・関係性、その後の展開やラストなど、本筋に関係のある考察。考察といえば通常はこれを指す。
・ネタ的考察
「こうだったら面白いよね?」という厳密には考察でもなんでもなく、ただの願望。絶対に違うと思える突飛な内容や、絶対に語られることのなさそうな本筋とは無関係な内容。基本的にネタ、ギャグの類のため無害。
それらからさらに2種類に分けられる。
(名前は同様)
・意味考察
公開されたシーンを元に、過去の台詞や描写などに意味付けをする考察。基本的に正否がわからない。
・未来考察
公開されたシーンを元に、その後の展開やラスト、設定を予想する考察。基本的に正否がわかる。
私が一番嫌いで前置きでも述べているのは、最も多く見られるシリアス的意味考察である。トータルで4パターンとかなり雑に分けたため、まだ分類する余地は多分にありそうだが今回はひとまずここまでにしようと思う。
ちなみにネタ的考察はどちらも大好きである。