SNSはジャンクフードのようなもの

 腹が満たされてきても、ついついつまんでしまうもの。
 ジャンクフードだ。

 私が仕事でキーボードを叩いている最中にふと、思いついたことがあった。それは「SNSってジャンクフードみたいなものだよな」というものだった。
 というのも、SNS(具体的にはTwitter)を見ていると、面白いことは面白いが何となくストレスがたまってくる感覚があるのだ。気付いたら頭の中がゴチャゴチャしていて、下らないことに脳のリソースを取られている。そうした面に対して、美味しくはあるが栄養が絶望的であるジャンクフードに例えたのである。
 しかし、SNS≒ジャンクフードという比喩は案外ネット上に転がっていて、このnoteでも既に記事にしている先駆者がいる。      
 先駆者様の記事は読んでいないが、内容がもろ被りしないようには気を付けて自分なりの考えを述べようと思う。

最底辺ツイッタラー

 私はInstagramもFacebookも見ていない。Twitterしか見ていないが、どれも本質は同じだろうという前提で話をしよう。LINEやYoutubeは除く。

 私のTwitterのフォロワーは10人程度しかいない。(同名のTwitterアカウントとは別のアカウント)
 そう、最底辺の弱小ツイッタラーだ。たしかに私はツイッタラーとしては塵のような存在ではあるが、だからこそわかる事があるのだ。

1いいねの重み

 私の投稿は基本的にリアクション0である。
 この記事では「いいね」について言及するが、リツイートもほぼ同じとしておこう。ハッシュタグを使っていないというのもあるだろうが、それについては後述する。

 極たまにいいねの通知がTwitter内でくると「誰だ?」となるわけで、「あーこの人か」とか「誰やねん」となる。
 相互フォローなら気にしないが、知らない人の場合は経路と目的を勘繰ってしまうくせがある。殆どの目的は売名だろう。基本リアクション0なので、おそらくはなんらかの単語から検索してきて、いいねをするのだ。アカウントの分野を見ればどの単語で検索したかは大体わかる。
 相互フォローからのいいねにしても、どの辺がよかったのだろうかと考える。おおよそ共通する話題を肯定しておけば比較的いいねをもらいやすい。

 1いいねの意味など、コンスタントにいいねがもらえる人はわざわざ考えないだろうが、この行為によってSNSの本質というものが、いいねをもらわなくても大方理解できるのだ。

いいね=評価ではない

 誰にも見向きもされない私がいっても僻みにしか聞こえないと思うが、わかったことは「殆どのいいねに価値なんてものはない」ということだ。

 「いいね」なんて名前をしているが、実際に「これは良いもの」と思って評価している人はかなり少ないだろう。
 いいねをする理由、それはただの体裁上の挨拶か、媚へつらいだ。もしもいいねの数がそのままそのツイートの評価になってしまったら、どんな素晴らしい意見も、イラストも、動画も、漫画も、ギャグも、例えば女性声優の「おはよう」の4文字より価値がないことになる。

 全く同じ内容のツイート(いわゆるパクツイ)でも、パクった方が何十倍もいいねが多いなんてのはザラだ。基本的にパクリ元の方が伸びていないあたり、パクる方も相手は選んでいるのだろう。それがパクリかどうかなんて調べる人は普通はいないし、仮にバレてリプライで指摘されても多くの人はそのリプライに気づかないからだ。
 
 そうしたこともあり、いいねというものの価値が極めて希薄であることがわかる。

 ちなみに、私は馴れ合いを目的としたいいね(俗に言う義理いいね)はしないので、本当に良い(または面白い)と感じたものにしかいいねをしない。普段のツイートで私が気難しい人間であると気づいているのか、フォロワーすらめったにいいねをくれないので、1いいねの重みを意識する私に対して軽率にいいねをしてくる非フォロワーは99%が売名目的になるというわけだ。たかだか有象無象のゴマすりでできたような数字に気を取られる必要なんてないのである。

ハッシュタグを使わない理由

 私がハッシュタグを使わない理由は至極単純である。
 リアクションが欲しいわけではないからだ。(リアクションがあるに越したことはないが)
 というのも、宣伝目的以外でTwitterをやるのであれば、ハッシュタグを付ける理由なんて1つしかない。同じハッシュタグをたどって見てくれた人に共感してほしいからだ。でなければわざわざ#なんて記号をひっぱり出して、文字数を圧迫してまで入れようとは思わない。
 中には、タップだけで検索できる点を利用して自分用にハッシュタグを付ける人もいたが、これは私はしない。

 そもそも、他者から見たらひねくれているであろう私と価値観が合う人がいるとはとても思えない。過去記事では仲が良かった人と縁を切っているし、30を目前にした私に今更新しく友人ができるわけがないのだ。
 それに、仮に他人と繋がることを目的としてTwitterをして繋がれた人がいたとして、それでどうなるというのだろうか。所詮はネット上の関係で、素性も顔も声もわからない人間と馴れ合うことに意味を見出せない。

見るなら情報収集

 上述したようなところがあり、感じたことをオブラートに包んで吐き捨てるという使い方に落ち着いたわけである。

 それでは見る側としてはどうだろうか。
 結論から言うと、SNSは情報収集として使う分には何も問題はないと思う。ジャンクフードも食べ過ぎなければ毎日食べても健康的に過ごせる。
 情報収集というのは、早い話が宣伝を目的とした情報を確認することである。ひいきにしているお店やコンテンツの情報を一つのプラットフォームで確認できるのは非常に便利だ。ホームページを持たず、SNSでしか情報を発信していない場合もある。リアルタイム性もあるので、これ以上ない情報収集手段なのである。

ジャンクフードの理由

 情報収集だけに使うのが最も健康的な理由は、自分が必要だと思っている情報だけを仕入れるからである。
 SNSというのは、法人も個人も交え、宣伝、アドバイス、感想、近況報告、作品投稿、ネタ、啓発、独り言、愚痴と多種多様な情報が入り乱れ飛び交っている。しかし、実際に一個人が必要な情報などは極僅かなものであり、過剰な情報に晒されると自分でも気づかない間に精神が疲弊してしまう。
 
 とはいえ、SNSを情報収集のみに使用する人は多くないだろう。少しでも手が空いたらSNSを開き、何となくタイムラインを眺めてしまう人は少なくないはずだ。そう、SNSは面白いのだ。脳科学には詳しくないが、おそらくついつい見てしまう何かがあるのだ。

 トレンドで気になったものがあれば覗き、おすすめに流れてきたツイートで面白いのがあればリプライを眺める。自分も何か思ったことがあれば適当に呟く。そんなことをしている間にまた新しく誰かがツイートをする。それを眺める。実に不毛な無限ループである。ある種、テンポの良いゲームをやっているようで区切るタイミングがないのだ。そして気づけばその日発揮されるべき集中力を使い切り、疲労感だけが残るのだ。

 腹が満たされてきても、ついついつまんでしまうもの。
 ジャンクフードというわけである。

問題点

 現在の生活と人生に全く不満がないのであれば、即物的な娯楽を貪って日々を過ごすのもいいだろう。しかし、私はあまりおすすめしない。
 私も“ジャンクフード”は好きである。あれば食べてしまう。でも本当はもっと美味しいものを食べたいのだ。体にもあまり良くない。大抵のジャンクフードは栄養面が壊滅的であろう。食べ過ぎは特に不健康である。

 つくづくSNSが“ジャンクフード”というのが言い得て妙だと思うのはこの点であり、ほんの一時の楽しさを求めて、何の趣も残るものもない享楽に時間と精神力を多大に空費してしまうのだ。

SNSに足りないもの

 精神的な話をすると意識高い系かと勘違いされるかもしれないが、私の意識は限りなく低い。しかし、低すぎるからこそ高みを目指すべき部分を見極められるのだ。

 SNSに決定的に足りないものは“充実感”である。
 時間と精神力を使うのはよいとしても、終わった後に充実感がないのが問題なのである。
 贅沢の定番である寿司や焼肉なら、食べ終わった後には満足感があるだろうが、ジャンクフードではむしろ罪悪感の方が出てしまうのではないだろうか。

 もしもSNSを開くのがくせになってしまっているなら、SNSを開くのと同じ労力で始められる別の趣味を作ることをおすすめする。

ちゃんとした文なら何でもいい

 とかくSNSは老若男女、あらゆる界隈の人が投稿しているだけあって情報の形態と質には極めてムラがある。
 なので、別の趣味として私のおすすめを挙げるならば、読書か執筆だろうか。文字情報に絞り、ある程度整った文章を扱うことにより比較的負担は減るうえ、集中力も養われる。

 整った文章なら何でもいい。情報の闇鍋のようなSNSよりも、純粋に活字と向き合った方が圧倒的に充実感を得られる。
 Kindleなどですぐに電子書籍をスマホで読める状態にするといいだろう。またはメモ帳アプリを開いておいて、SNSを開きそうになったら、そこに今の気持ちやこの後の計画などを適当に綴るだけでも全然違う。書いたものはしっかり保存しておくとなおいい。自分の書いたものが積み重なる感覚は得がたいものだからだ。

代わりは面倒くさいけどSNSは控えたい場合

 代わりを用意するのが面倒なのであれば、SNSを開かないようにするだけでも充実感こそないが虚無感は抑えられる。
 アンインストールはしたくないが、開く癖をどうにかしたいなら、開く行為をなるべく面倒にするのも手だ。
 例えば、控えたいSNSのアイコンをホーム画面から消してアプリ一覧から起動するようにしたり、ホーム画面にページをいくつも作ってトップから一番離れた位置にアイコンを設置したりすれば、少なくともぱっと開けなくなるので確実に開く回数は減る。もちろん、見終わったら必ず閉じることも徹底しよう。

おわりに

 今回は特にオチもなく、これで終わりにしようと思う。
「単にフォロワー多い人が羨ましいだけでは?」と思った方もいるかもしれないが、正直なところ完全に否定することはできない。クエスチョンマークを付けて疑問をぼやいても誰も返答をくれないのが普通。他人の下らない報告にはわざわざ挨拶しにいくのに、私の言葉は平気で素通りする(気付いてすらいないのかもしれない)。
 だが咳をしても一人。致し方ない部分もあるだろう。本文でも記述したが、たかだかネット上の上辺の繋がりに意味なんてものはない。そのような態度がどこかで漏れているのだろう。それに何か特技があるわけでも、特別面白かったり明るかったりするわけではないし、おまけに気難しいイメージも持たれていたら人が寄り付かないのは当然のこと。「羨ましい」とするならば、ジャンクフードを貪ることに必死になれる部分は実に楽しそうだとは思う。私には理解しがたいことだから。

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