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1980’s ウガンダの主婦の苦難

以前にnoteで紹介した義父母の金婚式記念の新聞記事と、夫と、クリスティン義姉さんの話を合わせて、義母の体験を思い描いてみようと試みています。内戦の頃の話は、主にクリスティンが教えてくれましたが、家に兵士が押し入った時の事は、当時10歳そこそこだった夫も、思い出しながら話してくれました。

1941年6月11日にウガンダのマサカで、ハート・クラン(心臓族)の家に生まれた義母マーガレットは、叔母さんの紹介で、結婚相手としてフレデリック・ナムテテ氏と知り合いました。叔母さんの夫が営む靴工場で、職人として働いていた青年でした。1957年11月3日に二人は結婚しました。義母は16歳、義父は29歳でした。義父によると、「16歳のマーガレットは、バラの花が開花する時のような美しさだった」そうです。マサカのカトリック教会で挙式後、カンパラのセント・メアリー・クラブハウスで披露宴を開き、200人のゲストにミルクティーとパンとバター、ポップコーンと地酒を振舞ったそうです。義父が義母の家に納めた結納は120シリング(←アミン大統領時代のインフレ率は1000%以上だったそうです!)と、地酒の入った瓢箪4個、雌ヤギ1頭、肉と4着のカンズー(男性の民族衣装)とゴメス(女性の民族衣装)だったそうです。

義母は、2021年6月に80歳で亡くなるまで、63年間、主婦として家族の為に尽くしました。4人の娘と4人の息子と30人の孫に恵まれた義父母でした。金婚式記念の新聞記事では「最初の娘を出産した時には、愛する対象が夫から子供に変わったけど、二人目を生んだ時にやっぱり、夫も大切だと気付いた」などと振り返っています。

義父の靴職人という職業は、当時、素足で歩く人が多いウガンダで、誰もが憧れる仕事だったそうです。義父の技術は確かで、イギリス人の要職に就くお客様の靴のデザインを任されていたそうです。20年間、靴職人を続け、夫の実家が現在ある場所、カンパラ郊外のナテテに、家を建て、雑貨屋を開業したそうです。そうやって、裕福とは言えなくても、妻と8人の子供達を養い、教育に必要なお金は、どんなに大変でも捻出してくれたそうです。嫁から見た義父の印象は生真面目で、頑固そうでしたが、子供達にとっては、優しくて社交的で柔軟で、とても愛情深かかったそうです。

義母は、子共の世話と、菜園の手入れと、家畜の世話と、雑貨屋の仕事を同時に抱え、想像もつかない忙しさだったことと思います。けれど、年長の子供達が仕事を分担するなどして、忙しいながらも、楽しく暮らしていたようです。信心深い義母は、幼い子供達を毎週末、教会へミサに連れて行き、家ではお祈りの仕方や、子供向けのクリスチャンのお話を読んで聞かせてくれたそうです。教会の奉仕活動にも一生懸命に参加して、家族は勿論、近所や町中の人達も、困った事があると頼って来るような、誰からも信頼され、愛される皆のお母さんだったそうです。

1977年にアミン大統領率いるウガンダ軍とタンザニアの間で戦争が始まりました。ウガンダータンザニア戦争は1979年にアミン大統領が失脚して終了しましたが、権力闘争は収まらず、1980年に選挙で勝利したオボテ大統領と、ヨウェリ・ムセビニの率いる国民抵抗軍の間で内戦が始まりました。1981年から、1986年にムセビニ大統領が就任するまで、ブッシュ・ウオー(bush war)と呼ばれる内戦が5年間も続きました。ムセビニ大統領は現在(2021年)もなお、現職大統領を続けています。

大量虐殺で悪名高いアミン大統領政権下では、恐怖政治が行われ、ウガンダに居住していたアジア人は、全て国外に追放されました。それまで、ウガンダの殆どの産業は、植民地時代に入植したインド人が独占していたそうです。経営方法が引き継がれないままインド人から奪われ、国営化された産業は、一気に衰退し、国民は砂糖を買うにも予約が必要な程、物資不足で困っていたそうです。けれども、アミン大統領時代には、兵士が民家を襲うような事はなかったそうで、夫はアミンについては、恐怖に結びつく思い出はないそうです。

ナテテでは、兵士達による強盗は、アミン大統領が失脚した後の内戦中に始まったそうです。オボテ軍の兵士は無秩序で、抵抗軍の兵士やその支援者を探す名目で民家に押し入り、押し入った先で、暴力や強盗を繰り返していたそうです。ある夜、ナテテの夫の家にも、兵士達が数人のグループでやってきて、ドアを蹴破って、家の中に入って来ました。その時は、近所のカサーサさんという方の家と間違えて入って来たのでしたが、間違えだとわかると、出て行き、とうとうカサーサさんの家を見つけ、本人を銃殺してしまいました。夫の家族は、兵士達が戻って来るのではないかと、いつまでも恐れていたそうです。

その日以来、何度も兵士達がやって来ては、現金やラジオ等の家財を盗んで行くようになったそうです。店舗を構えた家だったので、財産があると思われたのではないかとの事です。年長のお兄さんの首に、ナイフを押し当て、「金を出せ」と兵士が要求してきた時の事を夫は話してくれました。兵士が目を離した時に、「10シリング渡して帰って貰おう」とお兄さんに耳打ちしたら、お兄さんに酷くつねられて黙らされたそうです。そうした行為を、兵士達は繰り返し、しまいには、家の中には何も無くなり、夫達もその状況に馴れてしまったそうです。殆どの場合、義父が仕事から帰る前の留守の時に兵士達が押し入ったとの事なので、母の心労は極限だったことでしょう。それでも、大人の男性が居ると、連れ去られて拷問されたり、金品を出すまで脅され殴られるので、義父が留守だった事が幸いだったと、クリスティンは話しています。その代わりに、「夫はどこだ?」と母が詰問され、殴られる事もあったそうです。ある晩には、義父が帰宅して、ドアを開け、家に入った際に、義父に続いて数人の兵士達が家に入り込みました。義父の後をつけていたようです。義父は、隙を狙って、入って来たドアから逃げ出しました。兵士達は家中の全ての部屋を探し回りました。普段は使わずに、閉めたままにしてあった外へと通じる裏口の扉の内側に、ベッドが置いてあったそうです。兵士達は、その扉の向こうに部屋があり、そこに義父が隠れていると思ったらしく、その扉を蹴破ってしまいました。その時のけたたましい音で、夫は心臓が破裂したと思ったそうです。彼は、義母の血圧もその時から異常になったに違いないと思っています。



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