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何時かそんな日に

私が暮らしている地域では今月に入ってすぐ自粛が緩和され、それに伴い在宅ワークが解けた。
簡単にオンライン会議ができるため、自粛期間中は何となく気軽な会議が増えたような気がしないでもなかったが、通常営業に戻り進捗が滞っていた案件が一気に動き出した兼ね合いでなかなか忙しい。
起業しているので土日祝祭日の概念はあまりなく、定時の存在もなくなって久しい。いつでも休めるけれど、いつも仕事している、そんな感じだ。

季節は順調に巡り、あちらこちらで桜が咲いている。
場所によってはもう満開だ。
雑に生活している訳ではないが忙しくしていると、こうもあっけなく美しい瞬間を見逃してしまうのだなと思った。

この3週間程、システムエンジニアと隣り合わせで仕事をしている。
システム仕様の確認や通信テストを実施しながら、合間を見ては統計データを作ったりカルテの監査をする毎日だ。
通信テストは単調な作業が多いので、他愛もないことを話しながら行ったりする。
ある日、システムエンジニアの彼が(A君とする)、最近悩んでいると話し出した。
この手の話題、最近の私は特に苦手だ。
母を亡くして半年余り。
人知れず綱渡りのような精神状態で暮らしている私に、人様の悩みをどうのこうのする余裕は皆無だ。
けれどそんなことA君は知らない。話は続く。

A君の悩みを要約すると、何のためになっているのか解らない人生に疲れたと。このまま年老いていいのか、自分の生きる目的は何なのか。
そのようなことを延々と語っていた。

抽象的で哲学的な悩みだ。
私よりも若いA君が年老いた先のことを考えてることにまず驚く。

誰しも、一度くらいは似たようなことを考え悩むのではなかろうか。
何かや誰かのためにできることを探したり、存在意義を求めたくなったり、何かにつけて意味を考えたり。
漠然とした不安を上手く表現できない代わりに、解りやすく第三者に認められたくなって、そこに自分の居場所を見出したくなる感覚。
私も遠からずそんなことを考えた時があったなと思い出して、口元が少し緩んだ。

先日また一つ歳を重ねた今思うのは、そんなことは自分が死ぬときじゃないとわからないと言うこと。
必ずしも私たちは平等ではない。
生まれながらに変えようのない環境や、後天的に影響を受けて不平等を強く実感することがある。
スタートラインが違えば追いつく速さで走るしかない。それだけのこと。
何にも意味はなくて、ただ生かされている事実。
それが証拠に人に与えられた1日の時間は24時間と決まっていて、永遠に生き延びる術もない。
唯一の平等。
あらゆる葛藤の中、懸命に生きた足跡が自分に誇れるものであるならそれが全てだ。
そこには優劣などない。

A君が延々と語る悩みを聞きながらそんなことを考えていたが、会議の時間になって相槌しかうっていない私はそのまま作業室を出た。
来週も再来週もA君との作業は続く。
満開の桜が美しい日で、天気も良くて、寝不足でもないそんな日があったら、相談の問いを返してみようか。
いつか、そんな日があったら。