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日記のようなもの

コロナ第6波の影響で医療機関への訪問作業を自粛し、打合せはオンラインに切替えたため、ここの数日は溜め込んでいた自社の事務作業をしている。

ぼんやりと考え事をしながら領収書の整理をする。

先月分の書類などを片付けていると、やたらと多忙だった先月のことが頭に浮かぶ。

忙しすぎていろんなことがあったな。。。

パソコンの前に座って開発画面しか見ていない日々で、運動量なんてほぼゼロに等しかったのに体重が3キロ減ると言う、いま思い返してみてもなかなか過酷な生活だった。日常がだんだんと疎かになり始めて、食事、睡眠、会話、社会人の言葉遣い、思いやりの心など順にいろんなものを失っていく。

散々だったな。

もう忘れよう。

あんまり思い出したくない。



2022年1月27日の写真 ↓

母の葬儀の折、祭壇に供えた二鉢の胡蝶蘭。

母が他界して間もなく一年半が経つ。

花が過ぎた後に枝を切って水やりを勤しんだ結果、昨年春に見事に二度咲きしてくれた。三度目は難しいだろうと思いつつも、枯れてしまうまでは手元に置いておこうと、ひとまず前回と同じ要領で枝を落とし水やりをする。

鉢の場所を日なたに変えてみたり、土の様子を見てみたり、自分のことより良く世話をしている気がする。

その甲斐があった。

再び全ての枝から新芽が育っている。

葉っぱも元気が良く、新しいものが次々に育ってきている。

暖かくなった頃に、一輪でも咲いてくれたらいい。


綺麗だったいつかの夕日 ↓

先日、器の専門サイトで買い物をした。

膵臓癌を患った母の治療が外来での化学療法に切り替わった当時、待ち時間の合間に一緒に見ていたサイトで、お気に入りのフォルダにはいくつか器が登録されたままになっている。

母が気に入って選んだ器だ。もちろん、母はそれを自分で使うつもりで。

選ぶだけ選んで母は他界してしまい、私はずっとこのサイトを開くことができなかった。

自宅で仕事をすることが増えた昨年の秋くらいから、湯呑みやマグカップを買い足したいと思っていて、今年になってようやくログインしてみた。

お気に入りのフォルダを開くと、母が選んだ器が並んでいる。

2年程前に登録したものなのでいくつかは既に取り扱いが終了しているものもあって、時間の経過を改めて認識する。

それでも、病院の待合室で車椅子に座った母が楽しそうに器を選んでいた様子を鮮明に思い出して視界が滲む。

『これでコーヒー飲もうかな』

『和食器がいいね』

『何色にしようかな』

そんなことを言いながら母は楽しそうだった。

コーヒー飲ませてあげたかったな。

母が選んだ器の中から湯呑みとマグカップを購入したので、届いたらコーヒーを淹れようと思う。