旨い魚と宿題④カーテンコール
2023年5月。
梅雨に入る前の暑いくらいに良く晴れた日だった。
「旨い魚でも食べに行こうか」
平日の昼間に安西先生からそんな電話があった。
作業等で安西先生のクリニックにお邪魔する日もあるのに、わざわざ電話してくるくらいだ。
何かあったのかと問うと、
「アジが旨い季節になったから」
案外と暢気な返事だった。
カーテンコール③の続き。
仕事の予定を少し調整して、今日は安西先生と旨い魚を食べに行く。
夕方を過ぎた辺りの時間に安西先生のクリニックまで迎えに行くと、駐車場で猫と戯れている安西先生が居いた。
車を止めて、私もそれに混ぜて貰う。
やっぱり猫は可愛い。
「いつも忙しそうにしているから、時間が取れないだろうと思ったけど声をかけてみて良かったよ」
助手席の安西先生が言う。
“助手席の安西先生”と簡単に書いたが、車に乗ってもらうまでひと悶着あった。
どちらの車で行くか、それとも別々に行くか、いろいろあれこれどうのこうの・・・
こんなやり取りを想像するでもなく、安西先生を乗せて行くつもりだったからそう伝えると
「そもそもキミの運転は大丈夫なのかね?私は明日も診療があるんだよ」
疑り深く訝し気な顔で私を見るので
「大丈夫ですよ。私、ゴールド免許なので」
免許証まで見せて、それでやっと車に乗ってくれた。
検問にでもあった気分だった。
気疲れしないだけ検問のほうがいいかもしれない。
繁華街を抜けて少し車を走らせると、安西先生の行きつけだと言う料亭に着いた。
魚と日本酒が美味しいらしい。
すっかり顔なじみなのだろう。
座敷に通されると、女将さんが安西先生と談笑しながら給仕してくれる。
生前の奥様と長い間親しくされていた様子で、その思い出話を聞かせてもらった。
良く通る少し高い声の女将さんの話を聞きながら、安西先生は静かに日本酒を呑んでいた。
女将さんが給仕を終えて下がってしまうと、優しい思い出の余韻を残した沈黙が流れる。
正面に座る安西先生は、やっぱり静かに日本酒を呑む。
何を考えているのだろう。
思い出話の当時のことをなぞるように思い返しているのだろうか。
それともただ、奥様の姿を思い浮かべているのだろうか。
私だったらこんな時に何を思うだろうか。
箸を取るでもなく、料理を口にするでもなく、誰も答える人のいない問答をしていた。
「そう言えば、キミは左利きだったね」
「矯正したので右手も多少使えますよ」
利き手は左だ。
今は左利き用のハサミとかカッターとかの文房具があるけれど、私が子供の頃は左利きにはなかなか生きづらい環境だった。
カッターで本当によく指を切ったし、クリアファイルが使いにくかったし、給食当番の時しずく型のおたまは絶望的だった。
今でも、急須はうまく使えないし、メモ台付きの椅子を利用する時は日頃使い慣れていない右手に神経を使う。
自分が作ったかのように、得意げに料理の説明する安西先生の話を聞いたり、テレビドラマ(安西先生はよく見るらしい)の話題をただ聞き流したり(私はテレビをほとんど見ないので本当に空返事を繰り返すだけ)、
しばらくはどうでもいいような他愛もない話をしていたと思う。
そんな中、急に改まって安西先生がお礼を言い始めたので姿勢を正して箸を置く。
「今回、キミが引き受けてくれて本当に良かった。本当にね、感謝しているんだよ。ちょっと気難しい事務長とも上手くやってくれて有難う」
アイスマンと上手くやっているかは別にして(会話自体が乏しいので関係性は抉れようがない)大事な節目の手伝いを任せてもらって、私のほうこそお礼を言いたいくらいだ。
安西先生にはもちろん、奥様にもとても良くしてもらった恩こそあって、お礼を言ってもらうようなことは何もない。
お礼や感謝を受け取るなんて全くおこがましい。
そうではなく。
そんなことよりも。
私は謝っておきたいことがあった。
奥様の最期の病床時、万が一のことがあっても私には知らせないでいいと頼まれた安西先生はその約束を違えなかった。
おかげで私は6ヶ月後に奥様の逝去を知る訳だが、その間、何度か安西先生に電話をかけていた。
それこそ大した用事がある訳でもなく、変わりなく過ごしているかを確かめるだけの、そんなような電話だ。
『お二人とも変わりないですか』
『ああ。どっちも元気にしているよ』
『最近冷えるようになったけど、奥様の体調はどうですか』
『心配いらないよ』
問えば問うほど、安西先生は付かなくていい不要の嘘を付くことになってしまった。
当時は、知らせてもらえなかったと言う事実だけが強く表立っていて、相手の心情にまで気を配れなかった。
その時々を点や線でしか考えられなかったせいで、物事や心情を立体的に想像することができなかった。
いろんな側面があるのにね。本心を仕舞っているのは、多分そう言うわかりにくい場所なのだ。
人の心は平面で見るものではないと、最期に母が教えてくれたように思う。
自分が母を見送って、思うことも考えることもずいぶん変わった。
気付くことも増えたように思う。
自分の身に出来事が起きないと人に配慮もできない未熟者だ、いつまでたっても。
そんなだったから、ひと言、ずっと謝りたかった。
私に、お礼の言葉など無用だと伝える。
安西先生は少し驚いたように黙って私の話を聞いていた。
「キミは普段から、そんなふうに考え事をしているのかね?」
「いいえ。だからいろいろ間違ってばかりいます」
「間違ったと気が付いているなら立派なことだよ」
そうだろうか。
挽回できる間違いならいいが、二度目がないことを失敗するのは意味が違う。
私は後者のほうだから、できなかったことを並べてずっといつまでも後悔しているのだ。
仕方がないと言う感情にしか、落としどころが見いだせない。
「キミは妙に賢いから、簡単に答えを出さないし、なかなか自分のことも許さないんだろうけど、親を看取るだけで充分親孝行者だよ。
私は仕事柄、大勢の今際を見て来たけれど、親族の誰にも看取られずたったひとりで逝く人も、折り合いが悪い子供たちと口論の中で息を引き取る人も、見舞いにも来ず連絡は亡くなってからで良いと言う親族もいた。
遺産の分配がどうとかね、聞くに堪えない言葉を投げつける場面にもうっかり遭遇するんだよ。
そんなことが当たり前のようにあるんだ。
人のあまり良くない部分をそれはそれは見て来た。
うんざりするほどにだ。
そんな私が言うんだからこれ以上の正解はない。
思慮深いキミが守ってきたお母さんの最期は、間違いなく幸福だったと私は断言できるよ」
本当にそうだろうか。
そうなんだろうか。
そう思ってもいいんだろうか。
「それと、勘違いをされては困るからちゃんと伝えておくけれど。
家内がね、キミに知らせなくていいと言ったのは、何もキミを蔑ろにした訳じゃない。
仕事の邪魔もしたくなかっただろうし、何より余計な心配をさせたくなかったんだよ。
それにね、重篤であることを知らせたら、キミが慌てて運転して来て事故にでもあったら大変だと言っていたから。
家内はとにかく、心配性だったからね」
そう言って、安西先生は薄く笑った。
あぁ・・・そうだ。
世話焼きで、お喋りが好きで、人にも物にも愛情深くて、とても心配性な人だった。
「私もね、ここのところ良く自問自答しているんだよ。
家内のことは勿論だが、これまでの医者としての在り方も含めて、私の人生を振り返っているところだ。
いい機会だから、私からキミに宿題を出そうか」
安西先生はこんな宿題を出した。
「遺された側の振舞い方について、互いに考えてみよう。季節が冬になった頃にでも、答え合わせをしようか」
そう言って、また静かに日本酒を呑んだ。
難しい問いだな。
答えがあるんだろうか、そんなもの。
安西先生を自宅まで送る。
酔っているようには見えなかったが、玄関の施錠をちゃんとするか心配だったので玄関先までついて行く。
大丈夫だとか、あれくらいの日本酒では酔わないとか、まだ痴呆はきてないとか、なんかいろいろ言って騒いでいたけど、駐車場を徘徊していた猫ごと玄関の中に仕舞う。
カシャンと言う施錠音聞いて、車に戻った。
安西先生に出された宿題のことを、ぼんやり考えていた。
旨い魚を食べた数日後、安西先生のクリニックを訪問した。
今日はアイスマンにアポイントを取って打合せの時間をもらっている。
正面玄関の出迎えはなかった。姿がないことに安心する。
アイスマンの機嫌はいつも通りだ。これにはもう慣れた。
事務室の奥のほうにあるアイスマンの席で打ち合わせをする。
ぶっきらぼうに椅子を薦められる。
作ってきたスケジュール表を見せて早速打合せを始めた。
カルテ庫の整理には充分な期間を設けていること。
ご遺族の中でカルテの複写が必要な人が居たら、それも対応できること。
廃棄業者に箱詰めは頼んでいないから、最後まで納得いく梱包ができること。
梱包は私も手伝うつもりだが不要なら立ち入らない。ただ、スケジュール管理だけはさせて欲しいこと。
上記のことを話すと、アイスマンから変な声が漏れた。
思わず私も顔を上げる。
「カルテの破棄って、何も考えなしに業者が段ボールに雑に詰めて、あっという間に片付けるんじゃないんですか?」
当然そう言った方法もあるが、今回は時間をかけて実行したい旨を話す。
もしかして、あっという間に片付けるほうが良かったのかと問う。
「いいえ、いいえ。そうじゃなくて。こんな風にしてもらえると思っていなかったので・・・」
小さな事務室だ。
近くに居た年配の看護師さんが声をかけてきた。
「だから私が言ったでしょ、事務長。院長がとっても信頼している人だから、私たちが嫌がることはしないんだって。
泣くくらいなら、初めからもっと親切な対応したらいいのにねぇ」
泣く?誰が?
アイスマンに視線を戻すと、目も鼻も真っ赤にしている。
「いや、だってあなたわかりずらいよ。無駄なこと何も話さないし」
泣いてるのに、苦情はしっかり言うんだな 笑
謝ったけれど最後の語尾が笑ってしまったので、また苦情を言われた。
安西先生の周りには気持ちのいい人が多くいる。
それは、長い時間をかけて安西先生が奥様と一緒に大切に築いてきた信頼関係の賜物だ。私がそれに不義理をして壊すわけにはいかない。
同じように大切に扱うつもりだ。
カルテの梱包は私も手伝って良いと許可がもらえて嬉しかった。
安西先生から出された宿題も難題だが解いてみよう。
答え合わせの季節にはもうしばらくある。
そんなことを考えていた、2023年の梅雨入り間近の頃。